四一年前の『稲の日本史』を継承する
谷川…渡辺さんも私も戦中派ですが、お互いに世紀末を迎えまして、ひとつの感慨があります。渡部さんがこのたび小学館から上梓された『良は万年、亀のごとし』を読み、特に後書きを拝見して、共鳴するところがあり、お会いして腹蔵のない感懐をお互いに交換したいと、思っておりました。今日の話の最後は現代の日本人と稲という問題に行き着きますので、最初は稲の日本史について伺うことから始めたいと思っています。
渡部さんはインドネシアにブルといラシャポニカに極めて近い品種があって、その品種の稲が南中国あるいは台湾を経由して八重山にきたのではないかということをお書きになったことがあると思いますが、これには、大変興味をそそられました。この話は富古島で柳田国男のシンポジウムがあった時も話されましたね。
渡部……宮古島でシンポジウムがあった時に、土地柄から考えてその話が相応しいのではないかと思いましたから。
谷川……柳田国男さんは最後の著書『海上の道』の中で、宮古島の離島池間島の北にある八重子瀬の島ごとを書いています。ヤエビシは現地ではヤビシと言いますが、そこに宝貝がいっぱいあって、それを中国から取りにきた人が計画的に稲の種を持ってきて、宮古郡島の池間島とか大神島あたりに植えつけたのが最初ではないかという説を展開しています。当時は柳田さんもずいぶん非科学的なことを言うものだと思われて、あまり相手にされなかったんですね。ところが、渡部さんの著書を見ますと、必ずしも宮古とは書いていないんですが、八重山ほうに南方の稲の品種が渡来している公算が大きいという説が書かれてあり、稲作北上説、つまり南方から北へ移動したという柳田説が、必ずしも奇矯でもなければ荒唐無稽な説でもないということがわかり、われわれ民俗学研究者も非常に意を強くしているわけです。
渡部……『海上の道』が一九六一年でしたね。その前に稲に関する戦後のエポック・メイキングな本だと思われますのは一九五五年(昭和三十年)の『稲の日本史』です。あの中にも盛永俊太郎さんや柳田国男さんが、種子島の宝満神社の稲(赤米)のことに触れていまして、あれがジャポニカでないのではないかと問題提起されたことがあります。
谷川……『海上の道』は柳田国男が亡くなる前年でしたからね。渡部さんの先生、師匠格になるのはどなたですか。
渡部……榎本中衛さんといって、和歌山の人なんですが、早くお亡くなりになりました。稲作史に関する薫陶は個人的にはある意味で盛永俊太郎さんから受けました°盛永さんは九大の先生をやっていましたから、京大には関係なかったのですが。谷川……『稲の日本史』に中で、盛永さんもブルの話を書いておられましたね。
渡部……そうです、一九五五年に『稲の日本史』が三冊本で出ましたね。あれが出なければ、私は今日のような形では稲の研究をやらなかっただろうと思います。そういう意味で、あそこに書いていらっしゃる先生方の有形無形の恩恵は、私には非常に大きいんです。私がもしも今死んで、どの本をいちばん残してほしいかといえば、小学館から出た『稲のアジア史』なんです。これが出たのは三巻とも一九八七年です。ですから、『稲の日本史』が出て約三〇年経てこれを出したことになるんです°この三〇年は、日本の稲研究者が画期的にいろんな業績を上げた期間だったと思います。この中で、谷川さんが言われた稲北上説を私も最初に書いています。谷川……これを拝見しまして意を強くした次第です。実はその『稲の日本史』を前に読んでいましたので、その嶋出子と言いますか、渡部さんは『稲の日本史』の座談会の跡をお継ぎになるものだと思っていたのです。あの『稲の日本史』を籍集する前、柳田さんは七十七竜の時、安藤廣太郎さんと研究会を始めているんです。七十七歳からの稲の研究会ですから私は感動しました。すごいことだと思いました。実は柳田さんが読んだ安藤廣太
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