
請来図像を基とする『四種護摩本尊並眷属図像』に描かれた智泉水兜政見沙門天像が挙げられる(図?)。一方、成島像は『別尊雑記』に描かれた延暦寺文殊堂(一名毘沙門堂)あるいは前唐院の兜跋毘沙門天像(図?)が祖型と考えられ、最澄や円仁の影響が示唆される。冒頭で述べたように、これら日本の兜跋毘沙門天像は、東大寺中門のトバツ形多聞天像など後世の模刻を除き、概ね九世紀から十二世紀の間に制作され、以後地天女に支えられた兜跋毘沙門天像の作例は歴史上から姿を消してゆく。
ところで、この東寺像に代表される西域風の外套様鎧を着た兜跡毘沙門天像は、そのエキゾチックな姿で常に私たちを魅了し続けている。兜跡毘沙門天とは一体何なのか?、この謎に頭を悩ませた研究者も少なくない。そこで、まず兜跡毘沙門天像の起源と図像解釈(イコノロジー)を、兜跋毘沙門天研究史をふまえて探究してみよう。
最初に美術史家の源豊宗氏が兜跋毘沙門天研究に先鞭を付けられた〔注3〕。氏の論は、兜跋昆沙門天像は、A・スタイン発見のラワク廃寺社のトバツ形武神像(図?)に見られるように最初ホータンでトバツ形の台座が発生し、クチャでキジール千仏洞の武人像(図?)のようなイラン文化の影響が濃い武人用の服装が取り入れられ、中国へは唐・天宝年間(七四二〜五六年)に安西城(クチャ)が夷狄に包囲された時、城門に現れた毘沙門天の神威によって撃退したという安西城毘沙門説話とともに流布し、日本には空海や最澄によって図像が齋らされたと言うものであった。この論の中で、後々物議をかもすのは、「トバツ」が吐蕃(チベット)を音写した語句であるとする意見である。
次に兜跋毘沙門大の研究に着手されたのは、『敦煌画の研究』で不朽の業績を残された松本栄一博士であった〔注書(4)〕。博士は、敦煌の十数例と日本の外套様鎧の兜跋肱毘沙門天像の図像的特徴を次のようにまとめられた。
?小塔を捧げ、戟を侍す。
?堅牢地神(ヌは歓喜天)の両掌上に立つ。地神は女形にして、その左右に尼藍婆・毘藍婆の両神を添へる事あり。
?両足を開き、真上面を向きて直立す。
?胴部の緊窄せる長き鎧を着用し、襟を抜く。
?左紐せるものあり。
?鎧は鱗畳みと枚綴りとを併用し、紐と裾とに縁取りを施す。
?海老籠手を用ひたるものあり。
?刀剣を凧用す。長短両剣を同時に凧きたるものあり。、身体の前方に凧用する場合あり。
?三面立、鉢形の宝冠を載く。之に羽翼を付したるものあり。
?後頭部より二条の帛布を唾下せるものあり。
?両肩より出づる大火焔を以て蚊光を形造る。

?ホータン・ラワク寺院址武神像

?キジール千仏洞武人像

?ガンダーラ仏伝浮彫『四天王棒鉢図』

?ガンダーラ仏伝浮彫『出家踰城図』部分
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