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[新連載]兜跋毘沙門天の居ます風景…北進一

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?岩手県成島毘沙門天立像[??共に藤森武撮影]

 

仏教伝未以降平安時代前期にかけて、日本には外国の神々が多量に渡来した。特に最澄や空海によって伝えられた密教とともに様々な密儀を秘めた神仏が斎らされた。それらは、日本古米の神や在地の“小さな神”と離合集散し栄枯盛衰をかさね現在にいたる。これが、日本の神々の系譜である。この中で、兜跋毘沙門天ほど数奇な運命を迫るものはいない。この兜跋毘沙門天と称する形態の像は、九世紀から十二世紀にかけての短期間で爆発的に各地に祀られ、以後極端に数を減らす。無論兜跋毘沙門大とは、仏教の四大王中の北方守護神・多聞天=毘沙門天の特殊な一形式にすぎないため、その信仰は大きく言えば現在まで連綿と受け継がれている。中世以降、毘沙門天は日本の代表的な軍神として、あるいは福神として崇められるのである、、しかし、地天女に捧げられた兜跋毘沙門大の勇姿をそこに見いだすことはできない、、私は、この謎は地母神と合体した兜跋毘沙門天が本米もつ根源的なサイノ神=道祖神としてのイメージが作用していると思っている。しかも、そのサイノ神のイメージは、ギリシア・ローマのヘルメス・メルクリウス神が持つ概念が、インドで生まれた毘沙門大像と中央アジアで合わさって、中国を経由し日本へと伝わったものであると考えている。サイノ神と毘沙門天の混淆、それはまさに地母神と北方守護神との合体が作り出した賜物なのである。そして、日本の兜飲毘沙門天像が突如として姿を消すのは、このサイノ神の役割が兜跋毘沙門天像から消滅していくことに起因すると思われる。本連載は、この完敗毘沙門天の遥けき東漸の旅路を迫り、そこに秘められた様々な謎やイメージ(風景)を眺めていくことにしたい。

 

 

 

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