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韓国の儺戯 田耕旭

 

●韓国の儺礼と儺戯の由来●

儺礼が韓国に入ってきた最初の記録は高麗時代靖宗六年(A.D.一〇四〇)にあらわれる。
これは中国の宮中儺礼が韓国の儺礼に輸入されたことを意味する。しかし実際に儺礼が韓国に入ってきたのは、それ以前だったと推定される。
五〜六世紀の間の新羅王族の墓と推定される慶州壼杆塚から出土した木心漆面(方相氏の一種)や、『三国史記』に収録された崔致遠の漢詩<郷楽雑詠>にあらわれる<大面>の登場人物が、辟邪色の黄金色の仮面をかぶって登場し、むちをふりかざして鬼神を追い払う姿は、新羅時代にすでに儺礼が存在していた可能性をみせてくれる。そして鬼瓦と金庚信将軍の墓のまわりに彫刻されてある十二支神像等を通しても新羅時代にすでに儺礼と類似した、“鬼やらい信仰”があったことがわかる。處容説話は處容が自分の妻にとりついた疫神を追い払う内容だが、これもまた儺礼と類似した“鬼やらい行事”である。それゆえ以上のいくつかの例から、新羅時代にすでに儺礼や儺礼と類似した鬼やらい行事があったことはまちがいないであろう。
元来、儺礼は陰暦十二月三十日、宮中と民間で仮面をかぶった人たちが一定の道具を携え呪文をとなえながら鬼神を追う動作をし、古い年の雑史を追い払った儀式である。それが高麗末には、しだいに躯疫儀式よりも雑戯部が拡大され儺礼が雑戯である儀礼戯、すなわち儺戯として認識されていった。朝鮮時代にはこのような現象がいっそう深まり本末が順倒した感がある。朝鮮朝文宗実録即位年六月十日條によると、中国の使臣を迎える時も儺を用いると記されている。この時の儺は駆疫儀式を指すのではなく、儺礼に伴った雑戯−儺戯を指す。中国使臣の迎接にも儺礼で演じられた雑戯である儺戯を持ってきてそのまま公演したため儺と記されたのである。中国の使臣を迎接する時、行ったような演戯は元来一般的に山台戯とよばれていたものだ。
朝鮮時代の季冬儺礼は凶年其他の故ある時にはやめる場合もあったが、ほとんど定例的に毎年十二月三十日の夜(除タ)に挙行され、疫神を追い払う逐疫の他に雑戯である儺戯が公演された。このような儺戯は中国の使臣の迎接行事と朝廷の各種行事に、不可欠なものとなり、朝鮮朝前期には国家新興の気運と共にその規模も盛大となった。しかし壬辰(一五九二)・丙子(一六三六)両乱後に朝鮮朝が衰運に入ると、仁祖(一六二三〜一六四九)以後には儺礼の規模も縮小され逐疫行事でいどに終った。明清の交替以後は崇明排清の感情と共に清の使臣を迎接する時の山台施設にも熱意が欠けるようになった。英祖(一七二四〜七七

 

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方相氏の仮面

 

 

 

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