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著者: 山田 吉彦  
記事タイトル: 村上水軍のその後  
コラム名: 村上水軍のその後  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 2006/03  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   日本一小さな、城なき城下町

 私がはじめて豊後森(大分県玖珠郡玖珠町)を訪れたのは、まだ蝉の鳴き声が聞こえる初秋のことだった。大分駅からディーゼル車にのり1時間、いくつもトンネルをくぐり、鉄橋を越えた。車窓からは、まだ青い稲穂が揺れる棚田と畔道に赤く咲き乱れる彼岸花を見ることができた。
 豊後森は、人気の湯布院温泉と天領日田に挟まれた山間の静かな田舎町である。
 江戸時代には久留島家一万二千五百石の城下町で、日本で最も小さな城下町と言われている。しかし、城下町と言っても城は無い。徳川政権下において一万石余の小藩では城を造ることは許されなかった。
 久留島家は、関ケ原の合戦まで来島村上と呼ばれていた。戦国時代、卓越した海軍力により瀬戸内海を支配した海賊・村上水軍の一派であり、伊予来島(愛媛県今治市)に本拠を置く海賊大名であった。
 村上水軍はかつて、領地を奪い合う戦国大名たちを尻目に、海上に独自の社会を作り上げた。瀬戸内海を通過する船は村上水軍の掟に従い、通行税を支払わなければならず、さもなければ、何百隻もの武装船と戦う覚悟が必要であり、多くの船乗りは武勇を過信し海の藻屑と消えた。乱世は海賊の生きる場だったのだ。そんな海賊大名が、山の中に領地を移されどのように生きていたのか、それを知りたいと思い、私はこの町を訪れたのである。
 豊後森の町は、白壁の蔵や竹製の瓦など昔ながらのたたずまいを今も残している。町のはずれに殿様が住んでいた陣屋跡があり、現在は公園となり池と石を配した庭園だけが当時のまま残されている。公国の隣には小山があり、急な斜面が石垣で覆われている。この山は末広山と呼ばれ、山全休が末広神社の神域である。
 末広神社は江戸期には三島宮と呼ばれていた。関ケ原の合戦後、西軍に与した来島家は徳川家康により伊予の領地を没収され、豊後森に新たな領地を与えられた。その時、祖先の信仰した伊予大三島にある大山祗神社を分祀したのである。三島宮は、しかし、普通の神社ではない。実は、この神社には秘密が隠されているのである。

 村上水軍とは何か

 村上水軍の出所には謎につつまれた部分が多い。残された系図によると村上氏は、清和源氏(清和天皇を祖とする源氏姓を名乗る一族)の流れをくむ源仲宗に始まり、その子顕清が信濃・村上郷へ住みつき村上姓を名乗ったという。
 顕清の子定国が、保元の乱(保元元年・1156)の頃から瀬戸内海に進出し地盤を築いていたようだ。村上氏の名がはっきり歴史に登場するのは、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、天皇中心の政治を復興した建武の新政(元弘3年・1333)の時期である。村上義弘は、天皇方に呼応し、元弘3年2月挙兵、京まで進軍している。義弘は、その後に続く南北朝の争乱において伊予の守護職河野氏とともに南朝に味方し、海賊大将として活躍した。本拠地を芸予大島に隣接する能島に置いたので、能島氏と呼ばれた。
 能島(野島)の名は、「東寺百合文書」の貞和5年(1349)の項に初めて出てくる。芸予諸島の東端に位置する弓削島(愛媛県越智郡)は、中世、東寺の荘園で上質な塩を京へ上納していた。この時期、弓削島では、在地領主の小早川氏が濫妨狼藉を繰り返し、手を焼いた東寺側は弓削島荘の警備を能島氏に依頼した。そのとき支払われた警固料が「野島酒肴料」という名目で記録されているのだ。しかし15世紀になると能島氏は海賊の本性を現し、弓削島荘を押領し荘園領主から糾弾されるようになっている。
 戦国時代の村上水軍については、イエズス会のポルトガル人司祭ルイス・フロイスが書き残している。フロイスは、日本での生活の記録を本国に送るとともに、布教の経緯をつづった「日本史」を執筆した。彼は、天正14年(1586)イエズス会日本副管区長ガスパル・コエリョとともに堺から豊後の国・臼杵まで航海したとき、瀬戸内海を通過し、海賊の実態を知った。
「副管区長コエリョ師は室を出発して旅を続け、やがて我ら一行は、ある島に到着した。その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を構え、多数の部下や領地や船舶を有し、それらの船は絶えず獲物を襲っていた。この海賊は能島殿といい、強大な勢力を有していたので、他国の沿岸や海辺の人々は、彼によって破壊されることを恐れるあまり、毎年、貢物を献上していた」
 瀬戸内海の海賊は、遠くヨーロッパから苦難の航海を乗り越えてきた宣教師たちにも驚きと恐怖を感じさせたようだ。ここに出てくる能島殿とは、村上水軍の惣領・村上武吉のことである。
 戦国期、大名は自分の領地に関所を設け、通行や交易をしようとする者から税をとっていた。一方、村上水軍も領地ともいえる瀬戸内海を通航する船から帆別銭、駄別料という通行税を徴収していた。村上水軍に税を納めた船は、旗印を受け取り帆柱に掲げることにより、納税の証とした。また、村上水軍に警固料を納めると、上乗りと呼ばれる武装した海賊が船に乗り込み、瀬戸内海における航海の安全が保障される仕組みになっていたのである。
 村上水軍は、瀬戸内海の要衝に海城を築き、島かげに大船団を隠しながら、常に行き交う船をうかがっていた。村上水軍の要求を拒んだ船は、容赦無く襲われ、積み荷を奪われ、乗員は殺されるか生涯奴隷として働かされることになった。また、村上水軍は強力な海軍力を持ち、近隣の大名から招聘され、傭兵として戦乱に参加することもあった。村上水軍の水軍術は後世でも高く評価され、連合艦隊参謀秋山真之は村上の水軍術をもとに丁字戦法を考案し、日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を打破したといわれている。
 村上水軍の名が一躍、世に響いたのは、毛利元就と陶晴賢が争った厳島の合戦(天文24年・1555)のときである。永く中国地方を支配した守護大名大内氏の家老であった陶氏は、下克上により中国地方の覇権を得た。この陶氏に対し、新興勢力ともいえる毛利元就が自家の運命をかけ戦いを挑んだのが厳島の合戦である。この戦での毛利方の勝利は、村上水軍を味方につけ海戦を制したためと言われている。

天正4年(1576)毛利勢は織田信長に対抗する一向宗の石山本願寺を支援し兵糧を運び込むため、木津川口で海戦に及んだ。この合戦の毛利方の主力は村上水軍700隻で、織田方300隻を蹴散らし、圧倒的な強さで勝利をおさめた。当時の村上水軍の兵器は焙烙(ほうらく)と呼ばれる手投げの焼夷弾と火矢で、信長の船団の多くが炎上沈没した。「信長公記」には、この時の敗戦の様子が、
「海上には焙烙火矢などと言うものを拵え、御身方の船を取り籠め、投げ入れ、投げ入れ、焼き崩し、多数にかなわず(中略)西国の船は勝利を得、大坂へ兵糧を入れ、西国人数討ち入るなり」
 と書かれている。敗戦の苦さを味わった信長は、鳥羽の海賊大将九鬼嘉隆に命じ、村上水軍の戦法を研究させた。嘉隆は、焙烙・火矢対策のため船の胴を鉄板で覆った。世に言う信長の甲鉄船である。天正6年に行われた第2回戦は、甲鉄船が威力を発揮し信長方の大勝利に終わった。以降、瀬戸内海東部の制海権は織田方に移り、村上水軍に翳りの時が訪れた。

 海賊の終焉

 ルイス・フロイスの「日本史」には、「日本中で最高の海賊としてその座を競い合ってきたのはただ2人だけで、彼らの館は何年も前から存続し、彼らは強大な主として公認され、そのように扱われ、奉仕されて来た。そのひとりは今述べた能島殿であり、他の1人は来島殿と称する」
 と書かれている。戦国時代末期には、村上水軍は一枚岩ではなく、能島と来島は、完全に分離し競い合う勢力となっていたことがわかる。
 村上水軍というのは、厳密には瀬戸内海に基盤を置いた村上姓を名乗る3つの海賊衆の総称である。海賊大将・村上義弘には男子が無く、南朝の重臣北畠親房の血筋を引く師清が跡目を継いだ。師清には3人の子があり、それぞれが独立して能島・来島・因島の3つの島に分かれ、その後、来島は伊予の守護職河野氏の重臣となり、因島は毛利家とのつながりを深める。一方、村上水軍惣領家の立場にある能島は独立志向が強く、どこの大名の傘下にも属さなかった。この三家が共通の敵に向かうとき、海賊連合・村上水軍を形成していたのだ。
 だが、能島も木津川口の合戦以前の天正2年、小早川隆景を中心とした毛利勢の軍門に降り、当主村上武吉は毛利水軍の中核の武将となっていた。それに対し、天正10年、来島の当主村上通総は、旧主河野氏の下を離れ、羽柴秀吉の工作により織田方に同調し、来島と能島は敵対関係になった。
 通総の寝返りに対し、村上武吉を中心とする毛利軍は、来島を攻めた。攻城に耐え切れなくなった通総は、一旦、京の秀吉のもとへ逃れ、瀬戸内海から姿を消した。残された伊予では、通総の兄・得居通之が鹿島城(愛媛県北条市沖)にこもり毛利方の攻撃に耐えていた。
 3年後の天正13年、織田信長の後継者の地位を得た秀吉は、中国の毛利氏をおさえ、四国征伐を開始した。伊予の河野氏への攻撃の先陣は、村上通総がつとめ、通総は一万四千石の大名として瀬戸内海に返り咲いた。この時、得居通之も三千石を拝領している。
 天下を平定した豊臣秀吉は、天正16年、沿岸部を掌握するため海賊禁止令を発布し、ここに海賊衆としての村上水軍の活動は終わりを告げた。その後、来島は、通総と通之ともに秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)において朝鮮の地で戦死してしまう。
 天下分け目の関ケ原の合戦においては、能島は毛利軍の一員として、来島は通総の子康親が一大名としてともに西軍に入り、東軍の徳川勢と戦った。東軍の勝利後、毛利家は百二十万石から三十七万石へ減封され、能島は、最盛期には二万石ほどあった知行から毛利の御船手衆として千石ほどの知行へと大幅に減額されてしまう。来島は、一旦、伊予の領地を没収され流浪の身となったが、康親の妻の伯父である福島正則らの口利きにより一万四千石を安堵された。その陰には、海賊時代に面倒をみていた大坂の木材商たちの後押しがあったようだ。
 しかし、大名復帰後の村上康親に与えられた領地は、海から遠く離れた豊後森の地だった。康親は、わずかに残った家臣とともに山村の開拓に励んだ。子の通春の代になると、海賊の心を断ち切るかのように久留島と名乗った。通春の死後、跡を継いだ長男の通清は、弟の通貞に一千石、通迥に五百石を分与し、森藩は一万二千五百石となった。

 海賊大名

 久留島家は外様の小藩ながらも、五代藩主光通の代になると、幕閣の要職に就くようになる。光通は、駿府城番、大番頭を経て宝暦8年(1758)に本来譜代大名が勤める伏見奉行となり、六代藩主通祐も同じく伏見奉行、七代藩主通同は大坂城番となり、代々幕府に貢献することで御加増と伊予国への帰還を狙っていたようだ。そして、八代藩主通嘉も駿府番頭になっている。
 この八代藩主通嘉が型破りの大名だった。
 通嘉は海賊大名の末裔を自負し、大の見栄張りで、参勤交代では大藩並みに火縄銃を構え行列を組んだ。また、大きいもの好きで、参勤交代の途中巨大な石の常夜灯を見つけ、それよりも大きい日本一の石灯籠を三島宮の門前に作らせた。三島宮には日本一大きいという手水鉢もある。
 江戸生れの通嘉は、国許に側室と白い猿を伴ってきた。その側室が伝えた「山路踊り」という踊りが今も残っている。通嘉は、この踊りを武士、町民問わず楽しませたという。白い猿は、水戸家から贈られたもので、この猿の墓は、高さ2メートルを超える巨大なものである。
 見栄張りの海賊大名・通嘉には大望があった。豊後七藩の中で城が無い大名は久留島家だけであり、城が欲しくてたまらなかった。そこで奇想天外にも父通同の頃計画された三島宮の修復を名目に、幕府に内密のまま社を城に造り変えてしまったのだ。
 私も実際に三島宮を歩いてみた。神社は石垣で囲まれていて、堀のような小川が門前を流れている。武家屋敷のような瓦葺の門をくぐると急な石段の参道がつづら折に続く。山頂は平坦に切り開かれ境内となり、神殿と拝殿があり、境内の周囲には忍者返しと呼ばれる垂直な石垣が配置されている。
 山頂付近には、藩主が馬の調練をしたという桜の馬場がある。桜の馬場の脇に今は涸れている井戸があり、この井戸は途中に横穴が掘られていて三島宮から城下への抜け道であったという。境内の隣に栖鳳楼という瀟洒な2階建ての建物がある。栖鳳楼は藩主の別邸であったが、さしずめ天守閣といったところだろう。栖鳳楼の2階の書院からは、豊後森の城下を一望することができる。まさに三島宮は城郭そのものだ。
 幕府に無断で城の普請をすることは武家諸法度で禁じられているため、三島宮の本当の姿を幕府に知られてはならない。そのため5つある参道の入り口には鳥居を配し、門には注連縄を張って神社であることを強調し、石垣は泥を塗り草で覆い隠していた。久留島家の縁戚である福島正則は、無断で居城修復をした罪で四十九万石の所領を没収されているのだ。森藩は天領日田に隣接し、常に幕府に監視されているようなもので、発覚を恐れ工事に反対する者も多かった。しかし、反対派は武士、農民問わず罪に処された。
 工事は、文政4年(1821)から足掛け13年間にわたり行われ、森藩創設以来の大掛かりなもので、莫大な費用と労力を要し、資金の工面のため藩札を発行し、農民を賦役にあたらせた。
 文政11年(1828)8月、領内は未曾有の台風により壊滅的な打撃を受けたが、三島宮の工事は続けられた。この時期、領内の農民の多くが、隣接する天領日田や別府に逃散したという。通嘉が家督を継いだ頃の森藩玖珠地域の人口は7200人ほどであったが、三島宮改修工事が終わる頃には5000人にまで減少していた。また、藩士には上米(俸給米の一部返上)を要求し、土農ともに耐える生活が強いられた。
 貧窮した藩の財政を支えたのは、森藩が別府に持つ飛び地・鶴見村で取れる明礬だった。明礬は血止め薬、媒染剤、製革に用いられ、当時の国内生産量の3割程度が森藩で生産されていた。現在も別府市の明礬温泉に行くと湯の花小屋と呼ばれる明礬をとるための小屋を見ることができる。通嘉は、試行錯誤で明礬作りの技術革新に取りくみ、明礬で得た収入で、「夢の城」造りを進めたのである。
 通嘉は、夢の城を完成させ、弘化3年(1846)59歳の生涯を閉じた。しかし、跡を継いだ子孫は、通嘉の残した財政負担に悩み続けた。通嘉の三男である九代藩主通容は藩の財政改革の半ば在任4年で亡くなり、跡を継いだ通容の弟通明は着任早々2年でその弟通胤に藩主の座を譲っている。兄弟にとって、父の偉業はあまりにも重たかったようだ。

 参勤交代の途中で

 通嘉を無謀な城造りに駆り立てたものはいったい何だったのか。私は彼の参勤交代の道筋を辿る中で、その胸中がわかってきた。
 森藩の参勤交代は、豊後森から別府湾沿岸の辻間(日出町豊岡)まで陸路2日、辻間から大坂まで海路14日、そして大坂から江戸まで陸路15日、最短31日の旅であった。
 参勤交代のとき通った山あいの道には、通嘉が作らせた石畳が残っている。城下を出るとすぐに山越えであり、山間の急坂「七つ曲」、真っ直ぐに尾根伝いに進む「八丁の坂」という場所に、40センチ四方ほどの石がぎっしりと敷き詰められ道が続いている。
 途中、塚原という山肌から火山ガスが噴出している温泉場を通過し、別府の鶴見村に着く。ここには通嘉が作らせた照湯という温泉があり、今も当時のままの湯船につかることができる。
 次に主従が目指したのは、別府湾に臨む飛び地、辻間村である。同村の住吉神社の鳥居には、久留島通嘉の寄進と彫られてここにも通嘉の痕跡がある。また、村はずれの丘に久留島氏が信奉した大山積神社があった。徒歩でしか登れない急坂を10分ほど進むと豊後森の三島宮と似た石垣の上に大山祗の神は鎮座していた。境内からは別府湾を一望に見渡すことができる。きっと、通嘉はここに立ち、海を見つめ祖先の海賊衆に思いを馳せたことだろう。
 このあと、辻間村の頭成港から上方まで御座船三島丸に乗る。私は、大分港から今治行きのフェリーに乗り、三島丸の航跡を追った。今治には、久留島家がまだ海賊であった頃の旧領来島がある。来島は、今は大規模な造船所が立ち並ぶ波止浜湾の1キロほど沖にある。潮の流れが早く、また、時折変わるので「狂う潮」がなまり「くるしま」となったと言う。私は小さな渡船に乗り、来島に渡った。
 来島は、周囲850メートルほどの島で、現在16世帯だけが住んでいる。廃墟が目立つ島内を歩き、島の中央の小山に登った。その登り道は、石垣沿いに曲がりくねった石段の坂が続き、山頂には平らな空間があり、豊後森の三島宮とそっくりの造りだ。違うのは、周囲が山であるか海であるかである。来島は島全休が城になっていた。まさに「海城」である。山頂の空間は本丸の跡で、来島海峡を一望することができる。藍色の海面の数箇所に白く泡立つ渦が巻いているのが見えた。この狂い潮が外敵を島に寄せ付けない掘の役割をしていたのだ。
 通嘉は、来島の光景を目に焼きつけ三島宮を改築したのではないだろうか。
 旅の最後に島なみ海道をとおり伊予大三島の大山祗神社を訪ねた。大山祗神社は村上水軍の氏神であった。厳かな静けさを持つ日本総鎮守の社である。大山祗神社の紋は「折敷に縮みの三」。久留島家の家紋と同じである。私は、ここにも通嘉の足跡を見た。源頼朝や義経が奉納した武具が展示されている宝物殿の中に、享和3年初秋吉日・従五位下久留島伊豫守越智通嘉敬奉と書かれた絵馬を見つけたのだ。それは、派手好みの通嘉らしく、畳2枚ほどの特大のものであった。
                                                     (やまだ よしひこ)
 



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