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著者: 内海 宣幸  
記事タイトル: 海への想い  
コラム名: ブレイクタイム  
出版物名: (財)九州運輸振興センター  
出版社名: (財)九州運輸振興センター  
発行日: 2005/09  
※この記事は、著者と(財)九州運輸振興センターの許諾を得て転載したものです。無断で複製、翻案、送信、頒布するなど(財)九州運輸振興センターの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   今年は、何度海に行っただろうか。春先、海が見たくなり、車を飛ばして浜辺に出かけた。子供は波と戯れ、私と妻は日長水平線と波の音を楽しんだ。夏の家族旅行の行き先も海だった。シーカヤックを借りて子供たちを乗せてやり、イルカウォッチングツアーに参加し、シュノーケリングを楽しんだ。また、仕事上、海を見ることも多く、時には船にも乗る。しかし、私が海を身近なものとし、しかも大切なものと思うようになったのは、この数年のことである。

 私は、海の無い街で生まれ育った。埼玉県草加市である。「草加せんべい」で有名なこの街は、いまでも市内のあちらこちらに煎餅店がある。草加市のHPによるとその数は60軒以上とのこと。それぞれに特色があり、味も違うので、それぞれ贔屓の店が違う。私はといえば、煎餅が大好物というわけではないが、それでも買うならここ、と決めている店が数軒ある。数軒というのは、堅焼きならここ、ザラメならあそこと、種類によって好みの店が違うからである。かといって、別に毎日食べているわけでなく、買うのは多くて年に何回だが。なお、羽田空港など東京の土産物屋で売られている「草加せんべい」は、製造場所が草加でないものが多い。ちなみに、「ヌレ煎餅」はおそらく草加市民は、煎餅とは認めないのではと思う。
 この草加せんべい、真偽のほどは別にして、そのルーツは日光街道にあるといわれている。日光街道の旅人に売っていた団子の売れ残りをつぶして乾かし、焼き餅として売ったのがその始まり。その焼き餅を売っていたのが「おせんさん」。「おせんさんの焼き餅」だから「せん餅」。草加駅前のロータリーには、「おせんさん」が煎餅を焼いている像がある。
 住んでいるのが草加というと、「ああ、そうか。駄酒落じゃないですよ」と、質問した人が「ボケとツッコミ」を一人でするが、別に煎餅と駄酒落だけが草加ではない。草加といえば松並木で有名な日光街道の宿場町。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。」で有名な「奥の細道」の初日、元禄2(1689)年3月27日、江戸深川を出た松尾芭蕉は、「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加) といふ宿にたどり着きにけり」と書いている。綾瀬川を利用した舟運により、米などを江戸に運び栄えた街である。松並木が整備されている綾瀬川沿い
の日光街道に行くと、松尾芭蕉の像が迎えてくれる。現在は、土地
の価格がさがったことから、都内への通勤時間が短い割に、手頃な価格でマンションや戸建を購入できるため、小さな子供のいる世帯が多い。私の子供が通う学校は、一学年6クラス、全校生徒は千人を超える。少子化という言葉が実感できない。

 父は商社マンで海外出張が多かったため、夏休みは長野に住んでいた母方の祖父母のところに遊びに行くのが常で、その時の遊び場は山、川であった。子供のころの海に関する記憶は、一度夏休みに、祖父の家から日本海の新潟県は直江津の海水浴場に行ったこと、小学校の臨海学校が千葉県の岩井海水浴場だったこと、そして、高校の修学旅行が、客船による北海道往復だったことくらいである。そういえば、千葉県の白子海岸近くで行っていた大学のテニス同好会の春合宿では、最終日、3月だというのに、海に飛び込むのが恒例であったが、これは、卒業する4年生を送り出すための儀式のようなもので、冷たい海で泳ぐこと自体は、決して楽しいものではなかった。

 私が本格的に海に関わったのは、この財団に転職し10年ほど過ぎたあとのことだ。それまで、海と縁のない部署を歩いてきた私に、海洋船舶部(現海洋グループ)への異動内示が出たのである。そして、最初の出張が大分県であり、訪れた地は姫島であった。ご存知の方もいらっしゃると思うが、姫島は国東半島の先にある黒曜石と海老の養殖で有名な島だ。そして、古くから瀬戸内に抜ける海上交通の要衝として重視され、いまでもすばらしい灯台が残っている。そこで私が見たものは、保育園で遊ぶたくさんの子供たちと、港から町役場に行く交差点に、行き交う車もなく、場違いのように立っている信号機であった。「島=僻地=高齢化」という固定観念にとらわれていた私の認識は、子供たちの笑顔と歓声、島の人々の活気の前に、簡単に崩れ去ったのである。なお、島にたったひとつの信号機は、島の子供が本土に行ったとき、交通ルールに戸惑わないようにと設置されたものであった。

 その後も、福岡市から市営船で渡った小呂島では、漁協が中心となって若者に魅力ある漁業とし、長男は必ず家を継ぎ、皆が力をあわせて島を守っていた。密漁から漁場を守るために交代で監視に当たる監視所には、「日本船舶振興会(現日本財団) 補助施設」の看板があった。
 そして、北朝鮮工作船の公開展示では、引き上げられた鹿児島から関わり、日本を取り巻く海の安全に危機を感じ、石油エネルギー、食料等の輸入など、日本の暮らしに不可欠な海上輸送とその安全確保、それを支えてきた造船、舶用工業の重要性を認識した。また、日本財団が海上保安庁、海上保安協会と協力して進めている海の安全と環境を見守るボランティア 「海守」 には発足当初から関わり、海へ愛情を注ぐ多くの方と知り合うことができた。

 こう考えてくると、九州の地が私を海へ誘い、海について考える機会を与え続けてくれたような気がする。そして、海に近づくことで、海が与えてくれる癒しに気づき、安らぎを求めて海に向かうよ
うになった。とはいっても、私の自宅からは、埋め立てられた岸壁から見る東京湾でも1時間、外房や相模湾にはそれ以上かかるので、簡単に海辺の散歩とはいかない。こうした環境が、さらに海への想いを膨らませてくれるのかもしれない。
 



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