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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: あでやかな被災地のうつぎ  
コラム名: 私日記  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2005/09  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2005年6月9日
 昨日、奥歯のつめものを直しに行った。いつのまにか取れてしまっていたのを発見したからだが、私はまだ2本の親知らずを若い時に抜いているだけで、歯は全部自前。「80歳で20本の歯を残そう」という運動に多分参加できるだろうと思う。理由の一つは私が甘いものをあまり好かないということ。母はお砂糖づけみたいな嗜好の人だった。その傍らで、私は塩せんべいを齧り、ジャコの干したものをこの上ない美味だと思っていた。遺伝とはおかしなものだ。
 歯石もほとんどないらしい。電動歯ブラシで磨くからだろうが、とにかく私の食事には、おひたしとかひじきの煮物とか、昔ながらのお惣菜を自宅で作ったものが多いから、骨もよくなるのだろう。その代わり、また眼鏡の度が狂って来ているから、レンズを換えに行かねばならない。眼ではずいぶんお金を使うのだから、歯がいいことだけを自慢しているのは滑稽である。
 午後、パレスホテルで行なわれた東京経営者協会の60周年記念総会で講演。
 29日の私が財団を離れるお別れ会に来てくださる方たちに差し上げたいと思って、『日本財団9年半の日々』の校了を急いでいる。


 6月10日
 午後、羽田発。飛行機はまだ駐機場にいるうちに電気系統の故障で1時間遅れ。それでもようやく札幌のホテルで行なわれる日本POS医療学会の一般人向けの講演に間に合う。
 POSというのはポスト・オリエンテッド・システムというのだそうで、そこで正確な翻訳を教えてもらったのだが、日記を書くまでに時間があったので、また忘れてしまった。私は『ステッドマン医学大辞典』というのを家に備えてあるのだが、それにも出て来ない。どうやら人間が外界から受けた刺激を適合させて行く方法らしいが、不幸や悲劇に遭うと、人間は誰でも、耐えたり、慰められたり、逃げ出したりしながら、大昔から耐えて来たのだ。それには愛が要るが、それを改めて治療の領域とするのは新しい姿勢だ。しかし私は昔から、自分しかこんな瑣末な悲しさはわからない、自分しかそれを救えない、と思い込んで来た。
 それにいつも思うことだが、こういう玄人にしかわからない略語を平気で使うのは、実に親切でない。患者との「インフォームド・コンセント」(これもまた英語だ!)を大切にするなら、誰にでもわかる日本語を使うとか、病院で待たせないとか、基本的なところから改めたらいいと思う。 講演が終ってから、札幌大学の鷲田小彌太教授と規子夫人と先生のご贔屓の店でおいしい夕食。先生はお酒。私はお刺身をご飯で食べないともったいない。先生には、いつも障害者との巡礼で、車椅子と「口車」の両方を押して頂いている。「口車」とは、三浦朱門の命名で、手を出さないで口であれこれ指図することなのだそうだが、一番口車の多いのは多分三浦朱門なのである。大学教授が実際にボランティアに来てくださるのはほんとうに稀有のことである。
 帰り奥さまに、空港近くのホテルまで送って頂いて千歳泊まり。


6月11日
北海道千歳から新潟空港へ。日本財団の秘書課の星野妙子さんと、小千谷市などの地震の被災地へ向かう。日本財団の職員がずっと断続的に支援活動をして来ているのだが、数日のうちに撤収する時期にさしかかっている。その前に、お礼を言ってください、ということで、遅まきながら訪問を許されたのである。
 今日行くところは小千谷市塩谷区。山古志村の西隣の地区である。ここでは震度7を記録した。村の90パーセントが全半壊し、直後は周囲の道路もすべて崩落し、孤立した住民はヘリで救出された。51世帯195人のうちなぜか小学校5、6年生の3人の子供たちだけが犠牲になった。村は星野という苗字が多いから、亡くなった子供たちもすべて星野姓の、有希君、一輝君、和美さん。
 大人になるのを目前にした子供たちを突如として失った親の驚愕と悪夢は、なかなか癒されないだろうと思う。
 最後だというので、日本財団からも関係団体からも、週末返上でボランティアが入っている。神社の狛犬の崩れたのを持ち上げ、死んだ鯉で悪臭を放っている養殖池のプールを洗っている。木槌で壁を壊している人、小型のブルを動かしている人、皆どこかで見た顔だと思うのはすべて日本財団の職員である。ヘルメットや防塵眼鏡をかけていると、瞬間その人だとわからないのである。
 今日のことを、日本財団の公益・ボランティア支援グループのリーダー格の黒沢司さんは、財団関係の参加者に次のようにメールで言い送っている。「ユンボに乗っていたノブは神戸から来ました。日曜に乗っていた方は埼玉の障害者移送団体の笹沼さんです。チェーンソー隊は奥多摩の森林ボランティアの皆さんです。オールとちぎは『震災がつなぐ全国ネットワーク』 のメンバーです。その他集まって頂いた人たちも、皆この10年に財団と何らかの関わりがあった方々ばかりです。
 雪解け以降、財団の関係で延べ1000人のボランティアが塩谷に入りました。自然災害はとうてい人間が適う相手ではありませんが、ボランティアには被災者の疲弊した心を癒す姿があるように思います。昨日区長さんの最後の挨拶に『これからは自分らでやって行く自信と勇気をいただいた』とありました。 災害救援は、困った人がいて、助けたい人がいる。と一見して単純な活動ですが、財団がなすべき原点が見えるようにも感じます」
 塩谷一面、うつぎがピンクの花を咲かせていた。地元ではロッパというらしい。山の斜面が道を飲み込んで滑るほど大地の様相が変わっていても、うつぎは地震の災害など匂わせもしない遅い春を謳っている。弱いのは人間なのだ。


 6月12日
 六本木のカトリック教会で、ムウェテ・ムルアカさんの四人めの子供さんの洗礼式があって、三浦朱門と私が代父・代母になる。ジーザス・和男君は7カ月。ジーザスとはイエスのことだから、「ジーザス! 悪戯は止めなさい」と叱れるかな。もっともこのジーザス君はなかなかのツワモノで、神父さまがご聖体を配りに来られたら、自分もお菓子を貰えるのかと思ってちゃっかりロを開けた。
 カトリックの洗礼式に、駐日イスラエル大使エリ・コーヘン閣下ご夫妻も出席してくださった。和やかな日曜日。


 6月13日
歌舞伎座でひさしぶりに通し狂言「盟三五大切」を観る。


 6月14日
 出勤日。執行理事会。
 そろそろ私が財団をやめることが知れて来たのか、出版社の来訪が多くなる。
 午後は、日本財団が経費を負担し、海上保安庁に全面的にお世話になって、日本に2週間ほどの短期研修に来ている各国の沿岸警備隊や海上警察関係者の若者たちと会う。中国と台湾、ロシアからも来ている。靖国問題などにもちょっと触れる。日本について書いた私の英訳本をもらってもらう。
 その後で、日本財団が独自に外部の会社に委託している評価会社からの報告を受ける。
 夜は長年の友人の鈴木富夫氏の招待で、帝国ホテルの鮨源で食事。その後銀座のクラブ「小眉」に、(何年ぶりかで)行く。途中から安倍晋三氏と昭恵夫人合流。


6月15日
 夜、海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)の会合。
 マダガスカルのモロンダブの奥地の学校の建設費など、計13件で、56769478円を出すことに決める。最近金額が次第に大きくなっている。「モロンダブの奥に行くにはどうすればいいのですか」と聞いたら、バスで10数時間乗ったその又先で、船に3、4時間乗るのだという。この学校の校舎建設は、現地の日本大使館が公立学校でないから草の根無償のお金は出せないという理由で断って来たものだというから、ちょうどよかった。
 ボリビア、サンタクルスからご帰国中の倉橋神父さまの話では、私たちが食費を出して現地のストリート・チルドレンにかなり給食をするようになったので、以前のような子供の死は目に見えて減って来ているという。
 昔は墓地で幼い女の子が粗末な十字架の墓標の間を歩きながら「この子も私の友だちだったの。この子も。この子も死んじゃったのよ」と私に説明していたものだ。


 6月16日?18日
 自宅で仕事。淋巴マッサージ。
 18日には日帰りで亀井龍夫夫妻と三戸浜に行き、玉葱の収穫をした。去年は仕方なく雨の日に採って、少し腐らせた。今年は雨が降らずに幸運。目方を計っていないから正確にはわからないのだが、収量は数10キロの単位。ことに赤紫色の玉葱は玉が大きい。ジャガイモも採れる。


 6月19日
 宇部へ日帰り。山口県医学会総会で講演。帰って久しぶりに孫の太一と夕食。


 6月20日
 自宅で仕事。夕食に同級生のシスター・高木基美子さん来訪。マリアの宣教者フランシスコ会の瀬田修道院の院長さまである。


 6月21日
 朝方、日本財団で雑用。自宅から秘書の堀川省子さんを伴い、財団の私の部屋のものを片づける。とは言っても、初めからものをたくさん持ち込んでいないので、省子さんが呆気にとられるほど簡単に終る。スイッチボードの周囲の汚れを拭いてみたが、うまくきれいにならないので、ここだけは、壁紙を張り替えてくださいと言い残すことにした。
 午後、都内のホテルで行なわれた国策研究会で講演。
 財団へ帰ると、海洋グループから年度内案件の説明。3時、フジモリ元ぺルー大統領が私の家におられた時、ずっとSPとして警護に当った赤坂警察署の野原輝男氏来訪。私が間もなく退任すると言うので、それとなく顔を見せてくださった感じ。
 笹川スポーツ財団の藤本和延氏。集英社の鈴木馨氏他。夜東京文化会館でベルリンの国立バレエ団の「ラ・バヤデール」を観る。きれいだが、印象の薄い演出。


 6月22日、23日
 淋巴マッサージ。白い鉄砲ユリが毎日咲く。27日まで何とかユリが咲き続けてくれないかと思う。


 6月24日
 朝10時坂下門。皇居で清子内親王殿下へ 「退任御挨拶」の記帳。海洋文学賞の度に授賞式にいらしてくださって、その度に心のこもった個性的なすばらしいお言葉を頂いていた。
 12時から財団の1階で「虎ノ門DOJO」の講演会の1つとして「日本財団から9年半に教えられたこと」の題で講演。花束まで頂いて少し照れた。
 夜は三浦朱門と新国立劇場の『蝶々夫人』を観る。通俗と、その国についてのでたらめとを間一髪のところで避けた、やはりよくできた芝居と音楽だと私は思うのである。しかし帰りのエレベーターの中で岡村喬生夫妻に久しぶりにお会いしたら、日本というお膝元で演じながら、蝶々夫人の生活の周辺のでたらめぶりを放置するとは何ごとだとご不満らしい。
「夏に『魔笛』をやるから見にいらっしゃい」と誘ってくださったのだが、私はちょうど日本にいない。「私は『魔笛』の脚本のでたらめさにこそまいって、見たくなくなったのよ」と正直に申しあげたら、岡村『魔笛』はそれをすべてクリヤーしたとのこと。ほんとうにそうなら残念だが、この次に見せて頂くことにする。


 6月25日
 夜、聖心時代の同級生、片桐加寿子さんとサントリーホールに読売交響楽団のワーグナー・プログラムを聴きに行く。ここのところぜいたくな音楽ずくめ。「さまよえるオランダ人序曲」「ジークフリート牧歌」の後「楽劇(ニーベルングの指輪)」の山場だけを集めた「オーケストラ・アドベンチャー」を初めて聴いた。もう一度「ニーベルングの指輪」を4夜にわたって聴く体力が残っているだろうか、と漠然と思う。
 帰りに麻布十番でお鮨を食べて幸福。


6月26日
 今日も東京交響楽団の定期演奏会。レスピーギの作品から「ローマの噴水」「ローマの祭り」「リュートのための古風な舞曲とアリア」「ローマの松」の4曲である。全楽器をフルに使い切ったような壮大な曲だが、私の心情とはちょっと合わない感覚の作曲家である。
 終ってからアメリカンクラブへ廻り、聖心の同窓生のゼッカ延子さんに、名物のローストビーフを御馳走になる。佐藤恵美子さん、石倉瑩子さんもいっしょ。


 6月27日
 朝、上野寛永寺に、前会長笹川長一氏のお墓参り。庭に咲く鉄砲ユリが27日まで保つようにと念じていたのは、今日の日のためだった。しかし昨日になって、寛永寺はお花持ち込み禁止、と言われた。亡き方に、うちでは今年もこんな花が無事に咲きました、と報告したい遺族はたくさんいるだろう。生花を供えるのは禁止というのならわかるが、お出入りの業者の花はいいのである。それでも宗教か、と言いたくなる。うちのユリは切って行って、財団の理事長室にある前会長の遺影に備えて頂くことにした。
 墓前では「『どうにか無事任期を終えます。小過はありましたが、大過はなかったということにしてください』と亡き方に交渉しました」と同行の尾形武寿新理事長に報告した。
 午後、赤坂警察署から常陸宮家へ廻り、退任の記帳。その後、外務省、総務省、警察庁、警視庁、防衛庁にご挨拶。
 疲れたでしょう、と財団で労われたので「いいえ、<ハトバス霞が関奥の院特別コース>を廻らせて頂きました」とお礼を言った。一生に一度なら、すべての体験は貴重なものになる。


 6月28日
 財団へ出勤。最後の執行理事会。これで、将来、いろいろな問題に責任を負わなくて済む、と思うだけで、心が舞い上がりそうに軽い。
 その後、11時から再び各省へ退任ご挨拶。船の科学館を手始めに、国土交通省、海上保安庁、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、文部科学省。
 午後5時、石原慎太郎東京都知事が財団に来訪。2人だけになると、相変わらずカゲキでキケンな発言が出るから思わず笑い出す。都知事とよくぶつかる記者団も、笑っておけばいいのに、マジメ人間はどうしても私みたいに無責任には笑えないのだろう。


 6月29日
 午後、4時から記者会見。長い間、毎回大勢の記者さんたちがつき合ってくださった。そのお礼を申し述べる。
 その後、8階の食堂でお別れの会。
 さよならパーティーは世間の常識に従って、財団の近くのホテルで、と言われたのだが、そんな無駄なお金をかける必要はありません、と財団の最上階の食堂で開くことにしてもらった。3分の1の費用で大ごちそうをおだしできる。北京ダックもローストビーフも、上等のお刺身もお鮨も、用意されているはずだ。5時から8時までと長い時間にしたのは、会場が数100人のお客さまを一度にはお入れできないのと、その間のいつでもご都合のいい時間にお客さまたちにいらして頂けばいいと思ったからである。
 今日は午前中に財団に電話をかけて、会の間中、誰かが事務所で留守番をしながら、テレビをずっとつけておくようにと頼んだ。秘書もSPもついているような方たちだが、これだけ多くの重大な任務を持つお客さまたちがいらしてくださっている間に、日本のどこかで何か事故や自然災害があったような場合、財団は知りませんでした、ということはできない。
 スピーチは、長年の友人3人だけ。後はアフリカ貧困視察旅行のメンバーが、旅の途中で覚えたカトリックの聖歌「アーメン、ハレルヤ」を合唱し、直接お手を拝借して一本締めで終った。
 私の最後の報告書『日本財団9年半の日々』も徳間書店が間に合わせてくれて、お客さまに最後にお手渡しできた。すべて無事で、感謝のみ。
 今日のパーティーの費用を心配して尾形新理事長に尋ねたら、たちどころに「1億円です」というフマジメな答えが返って来たから、もう質問は止めた。後のことまで心配するのは、無粋というものだろう。


6月30日
 午前10時から、残りの関係団体に挨拶廻り。
 全国モーターボート競走会連合会、ライフ・プランニング・センター、競艇情報化センター、競艇広報センター、日本モーターボート選手会、日本レジャーチャンネル、海洋政策研究財団、社会貢献支援財団、笹川平和財団、東京財団、日本ゲートボール連合、ブルーシー・アンド・グリーンランド財団、マリンスポーツ財団、笹川スポーツ財団、日本吟剣詩舞振興会、日本科学協会、日本海事科学振興財団、競艇保安協会、笹川記念保健協力財団、日本音楽財団、日本太鼓連盟、東京ピー・エム・シー、笹川アフリカ協会、海守事務所など。
 5時、2階の広間で、約30分間、職員にお別れの挨拶。ほんとうは何も言うことはないのである。酒は新しい革袋に盛られるのがいいのだから。
 その後、8階で職員だけのほんとうのお別れパーティー。ツーショット、スリーショット、メニーショット (どれも変な英語!)の写真撮影会にもなる。
 しかし圧巻は、ヒミツに練習してくれたという男性職員のみのフラダンス風とマツケン・サンバ風のダンス。絶対に笑わない顔になるお化粧は、誰か女子職員の手になるものだそうだが、隠れた才能はどこにもあるものだと改めて感心した。
 最後にアルバムと寄せ書きが贈られた。私の知らない写真がたくさんある。知らない時間もたくさんあったはずだ。少し胸が痛むが、しかしもう今日で時効にしてくださいな。
 紙吹雪の中を退場。私は退場というものが好きなのだ、と思う。これでやっと組織に対して悪をなさずに済むようになった。ありがとう、さようなら。(以下次号)
 



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