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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 私日記 第65回  
コラム名: 笑っている鬼  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2005/05  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2005年2月23日
 イラク、サマワでは、治安維持に当たってきたオランダ軍約1400人が撤退を始めた。その後、任務はイギリス軍に引き継がれたが、オーストラリアも約450人を追加派兵することになった、と今日の新聞が伝えている。感謝すべきことだが、何かおかしくはないか。自分で身を守ることができる集団だから自衛隊というのだ。そしてそういう人々だからこそ、危険の中で復興作業に当たることができる。サマワが危険地帯でないというのなら、何も自衛隊を出す必要はない。政府は日本の大手ゼネコンと契約し、現地のサブ・コントラクターを雇って仕事をした方が、どれだけ安上がりかしれない。
 もちろんこれは自衛隊の責任ではない。いざという時、戦えなくしている日本の制度、政治の責任だろう。そして戦えない自衛隊について、世界の評判はどれほど陰で悪ロを言っているかしれない。これほど有能な人たちなのに。
 朝、朱門に送ってもらって羽田から秋田へ発つ。犯罪被害者の支援は、以前から日本財団の仕事の1つだが、そのための組織を地方毎に育てるための講演会である。飛行機は飛ばないうちから、もしかすると荒天のため秋田に降りないで羽田に引き返すかもしれない、という。はたして秋田空港の上で40分間旋回したが、その間に「退屈して」少し眠った。雲の合間を見つけて滑走路に下りた時、私は1人でキャプテンに拍手を送ろうと思ったのだが、皆黙っている。日本人は嬉しいんだか悲しいんだかわからない人種といわれるのはこういうことのためか。
 犯罪被害者に対しては、傷はよくわかるが、できるだけ早く立ち直って、同じような傷を受けた人のためにむしろ働いてください、と言った。被害者の心の裏も表もわかるのは同じ傷を受けた人たちなのだから。
 帰りはまた飛行機の時間が乱れるのを恐れて、新幹線で帰った。

 2月24日
 日本財団へ出勤。お昼前から評議員会。
 午後遠州流のお家元小堀正晴氏来訪。お眼にかかったとたん、「前にご挨拶したのは、どこだったか」と一瞬不安。すぐ思いだした。パリの空港だった。私の荷物が出てこない。さあて、これでまた一喧嘩するのか、と思っていると、私と同じような運命の若い日本男性がいらした。多分、商社の方で、したがってフランス語もお達者に違いない。それなら荷物に関する喧曄はそちらにお任せして私は楽をするか、と内心思っていたら、名刺をいただいた。それがこのお家元であった。
「あの時は共闘いたしまして」
 などと変なご挨拶をしたが、私はさぼっていたのである。茶道のお家元と「パリ空港共闘の場」が最初の出会いという人はそう多くはあるまい。
 夜は笹川陽平理事長、尾形武寿理事などと、雑談連絡のための会合。

 2月25日
 日本財団へ出勤。
 ゴミを回収して海岸をきれいにする運動のスタートとして「ゴミ・シンポジウム」が始まった。そこでお客さまにご挨拶。子供の時、母に汚い仕事を全部させられた話をする。ごみだし、トイレの掃除。母はかねがね「汚い仕事ができれば、怖いものがなくなるの」と言っていた。その通りに生きた。そんな思い出話をご挨拶代わりにする。
 11時から、日本財団理事会。
 その後で岡崎嘉平太国際奨学財団の評議員会へ。奨学資金を受けた中国など3人の学生さんたちも来る。皆賢そうで今にそれぞれの祖国を背負って立つ人になるだろう。

 2月26日?3月2日
 初めの3日はお休みでうきうきしていた。しかしどうも体がだるい。今ごろになって新聞連載の疲れが出たような感じだが、それにしては遅過ぎる。結局3月1日もお休みをもらって、5日続きの休日にした。太一(孫)と食事をしたくらいで、もっぱら読書と淋巴マッサージをして、怠け病を続けさせてもらう。
 2日、中東の衛星テレビ「アルアラビーヤ」などによると、イラクのフセイン元大統領や旧政権幹部を裁く特別法廷の、判事とその息子の弁護士が、3人組の男に自宅付近で狙撃されて死亡した。こうした事件は実に嫌な脅迫である。単に2人が襲撃されて殺されたというだけではない。こうした国で裁判が公正であること自体なかなかむずかしいことだ。

 3月3日
 今年もお雛さまを出さなかった、と朝食の時愚痴る。「来年は必ず2月1日に飾ります。予定表に入れます」と笑っている鬼に言う。
 10時から目黒の陸上自衛隊幹部学校で講演。自衛隊で頂いた昼食も、散らし寿司、桜餅などの献立で女の子のお節句風。午後財団へ。

 3月4日
 アメリカ軍、武装勢力の人質から解放されたばかりのイタリア人記者、ジュリアナ・スグレナさんの車を誤射。同行のイタリア情報機関員は死亡。

 3月5日
 岩国市のロータリークラブ発足百周年記念の講演会に出るために広島空港へ。空港から岩国まで高速道路を走り続けて1時間20分。かなり遠い。夕方7時羽田帰着。

 3月6日
『毎日新聞』に戦時標準型船の記事が出ている。私が最初に勉強のために乗った船はこれだった。記事の主眼は、「板子一枚下は地獄」と言われるほど薄い船底は、極度の物資不足に見舞われていた日本が、ついに二重底を廃止した結果だが、薄っぺらい船体の補強のために、造船の過程でアスベストを使ったのだという。アスベストは発癌の原因と言われているので、日本郵船では戦後この船に乗っていた約700人の元船員に会社負担で胸部レントゲン写真検査を行なうことにした。当時予測され危倶されたこの船の危険は、簡単に沈められる、ということだった。アスベストで癌になるなどという概念は、この世になかった。昔ユダヤ教のラビ(先生)が「われわれ人間は、永遠の未知なるものの手前にいる」と言ったが、この一事を見ても事実である。
 記事には書かれていないが、この船は、レシプロ・エンジン、つまり石炭を焚いて走る船だったのである。黒い煙が煙突から進行方向にたなびいているので、私は驚いてしまった。速度は7ノット。私が乗せてもらったのは、もちろん昭和30年代だが、それでもまだこの「戦標船」と呼ばれていた船は生きていた。敗戦時に日本郵船に残っていた船のうち8割がこの船だったという。
 夕方から、生まれて初めて幕張ヘスーパージャパンカップダンス選手権大会を見に行く。ここでボールダンスの日本一が決まるのである。最終予選まで残った人たちだから上手でびっくりするのは当然だが、「セグエ」という創作ダンスがおもしろい。ただしこのセグエという言葉がわからない。スペイン語でセギディージャ、フランス語でセギディーユと呼ばれる3拍子の踊りのことでもなさそうだ。もっと他の辞書を見るとどこかにあるのだろうと思うが調べられなかった。
 総じて男性の踊り手に個性がなく、ということは魅力がなく、アマチュアの女性の衣装は目立とうとするためか色も幼稚で趣味もあまりいいとは思えない。もっと優雅にもっと絢燗とする方法もあるように思うのだが……。

 3月7日
 警察大学校で講演。題は「世界の泥棒たち」。
 日本財団へ出て少し働いてから、夜は日本オーケストラ連盟の方たちと会食。私1人が音楽の耳がなく通でもないので、いろいろなことを周囲の会話の中で教えて頂いた。

 3月8日
 出勤日。ボランティア予算説明。駐日エクアドル大使アドルフォ・アルバレス・ビジャゴメス氏来訪。夜、『湖水誕生』の取材以来お世話になった東京電力の方々と会食。経済界のお話など聞いてかなり利ロになったような気がする。

 3月9日
 60年前の今夜から明日の未明にかけて、東京は恐ろしい火の海となった。私の叔父と従兄の1人も、焼死した。私の家の裏隣は全焼し、隣家に落ちた焼夷弾は、父たちが消し止めた。
 私はその時、超低空で入って来る何波ものB29爆撃機の音が死を予告するのを知った。明日まで多分生きていられるという保証が、あの夜にはなかった。13歳の私はその保証を望んだ。「反戦」「平和」などとわざわざ言われると、私のような者はおかしくなる。あれはアメリカが、非戦闘員を無差別爆撃した夜の体験だ。しかしアメリカは謝ったことがない。私の中で「反戦」も「平和」も肌だけではなく、骨にまでしみついている。だから私は靖国神社にもお参りする。
 夜、石原慎太郎都知事ほか数人で会う。

 3月10日
 国立劇揚ヘブラジル育ちの船津イウカさんと歌舞伎を見に行く。『本朝廿四孝』はわかりにくいかと思ったが、こんなにきれいで感動した日本の芝居はない、という。時蔵、孝太郎、愛之助など活躍する若手が揃っているので、きれいなことこの上ない。「ほんとうに皆男性なんですか。女性以上に女性的で信じられませんね」と感動を噛みしめている。

 3月11日
 雨の中を、夕方、太一と私たち夫婦とで四川飯店で食事。太一の大学院の入学を祝うというのが名目である。長いこと勉強ばかりしていたので、このごろ羽を伸ばしている。

 3月12日
 福井市の国際交流会館で障害者と共に考える講演会。
 7時20分頃羽田空港着。飛行機の出発40分前くらいに、悪天候のため、小松空港から引き返すこともあるし、富山空港に着陸することもある、というアナウンス。
 1、2分考えてから安全のために鉄道で行くことにし、すぐモノレールで浜松町へ。電車の中で品川へ出るか東京へ行くかを考えて、やはり安全を考えて東京駅へ。
 米原で乗り換えて北陸線に乗る。トンネルを1つ出たら真っ白の世界が開けて、列車の中で喚声があがる。
 主催者が、私への連絡の中で、講演の開始時間を30分遅く知らせて来ていたので、私はのんきに福井へ着いたが、主催者は開始の5分前だという。こういう手違いは初めて。でも大方時間通り始められたのだし、私はいらいらしなくて済んだのでよかった。
 帰りも飛行機が「使用機の到着遅れ」ということもあるのを恐れて、列車で帰ることにした。米原の近くは墨絵の吹雪の世界。融雪装置のホースが一斉に線路に向けて水を出していた。こういう土地に住むことを、私は大変だと思うが、住み馴れれば、他の土地へは行けなくなるのが人情だ。

 3月13日
 日曜日。昨日6時間以上列車に乗っていたので、今日は働く気を失って、古い英字新聞をまとめて読む。
 マレーシアのケランタンの市議会は、イスラム教徒にも非イスラム教徒にも適用される「適切な服装」というものを発表したという。それによると、半袖やミニスカートは禁止である。長袖で上着の裾は大体腰骨のあたりまで。スカートは折り襞かAラインで、膝の骨の下までの長さ、体の線の露出しないものである。
 多分こういう規制がかかると、結果は2つに分かれる。世界的レベルのファッション産業は全滅するか、それともこういう規制に対する強烈な反逆児がこの地から出て、世界的なデザイナーになるか、どちらかである。
 しかし最近の西欧の、特に女優さんたちの服はすごい。映画祭に出てくる女優さんたちのドレスは、いかに性的露出をするかで、それはつまり「私のはだかは美しいの」ということなのだろうが、楽園のエバが羞恥を覚えて無花果の葉で体を隠した、という根源的な衣服の機能を完全に否定するものだ。
 衣服はそもそもは慎みや羞恥の表現から発した文化なのだろうから、最近の日本人の中学生のように太股丸出しという制服は禁止する方が正当だ。もちろん性犯罪は男性が悪いのだが、あのような服装は「私に手出ししてください」というのと同じことだから、事件が起きた時は、僅かでも女性に責任を負わす部分があってもいいだろう。ただ私はケランタンのような社会になったらほんとうにつまらないだろうとは思う。

 3月15日
 昨夜遅く、日本船籍のタグボート「韋駄天」がマラッカ海峡で海賊に襲撃され、日本人船長たち3人が拉致された。今のところ身代金の要求などないというが、今日は、日本財団にたくさんのマスコミの取材。うちは厳密な意味での当事者ではないのだから、個人的にマスコミのお相手をするのではなく、マスコミがどこへ行ったら、誰に何を聞けるか、そのインフォーメーションを上げられるようなホームページの整備を急がせる。
「ほんとうはこういうこと、起きない前から用意しておくべきなのよ」
 と担当の若い人に言ったが、私自身が決して準備がいい方ではないのだ。ただし何かが起きたら、1時間単位で急いで仕事をしなければならない。
 3月28日に出発するインド行きの人たちと連絡の昼食。とは言っても会社の食堂で350円の定食を食べるのである。
 午後お客さま数組。

 3月16日
 出勤。徳間書店の取材。
 お昼に日商岩井国際交流財団の、昼食を含めた会合で講話。
『世界日報』に中央教育審議会の会長である鳥居泰彦氏についての全国知事会の麻生会長の談話がでている。
 鳥居氏はかつて学習内容の削減、完全学校週5日制導入を提言した1996年の答申当時の中教審副会長だった。その方が再び今度の改革のための会議の座長になっている。「同じ人にできるか」と麻生知事が疑問を呈したという。
 審議会の答申と自分の考えが違うことはよくある。しかし副会長としては前回の答申に責任があるのだから、今度改革をやる時にまた責任者になることは適当ではない。麻生知事の指摘はもっともである。鳥居氏にも文科省にも、委員の人選に関して手抜きか甘さがあったのだろう。新しい革袋を常に使わねばならない。
 午後、三戸浜へ。

 3月17日
 曇り、雨。
『Grazia』誌の新しい姉妹誌のための取材。4、50歳からの暮らし方あれこれというようなテーマらしい。
 この海辺の家で原稿を書き、落日を眺め、畑を作り出してもう40年。カナリー椰子の背丈も20メートルに迫った。蜜柑の木も成熟して、たくさん実をつける。酸っぱくていや、という方以外には、お客さまにも夏蜜柑の搾りたてのジュースを差し上げる。
 戸外があまり暗いので撮影は明日ということになった。午後知人に、幸浦のコストコという巨大なアメリカ系のスーパーに連れて行ってもらう。コーンブレッドは1袋に35個入っているのを友人と半分ずつにする。私はこれが大好き。

 3月18日
 カメラマン、再び見える。
 午後、サマワの女性教師招聘のために何度もひどい思いをしてくださった東京財団の片山正一さんと佐々木良昭さんをお礼にお招きした。とは言っても、私の手料理。まずお客さまと市場に買い出しに行き、お客さまも台所に立って1品2品作ってくださり、何のことはない合宿の食堂。
 畑のホウレンソウが30センチくらいに伸びてしまっているが、まだけっこう柔らかい。採りたてをバターいためにすれば、これまたごまかしの効かない味になる上、お腹もいっぱいになるという重宝な代物。ブロッコリも気味が悪いほどできている。すべて自家生産品の手料理で田舎のおもてなしは済むのである。
 お客さまのお1人には、お風呂で夕陽の沈むのを見て頂いて、これをもって最高のごちそうとした。これもただでなかなか便利なものだ。
 19日に秘書の堀川省子さん迎えに来てくれて東京に帰る。

 3月20日
 新潟へ出て、車で新津市主催の講演会へ。もっとも新津という市の名前は今日が最後で、明日からは新潟市に合併される。その閉市記念行事の中での講演である。
 私は昔から名前なんかどうでもいい、と思って来た。他人の名前は最大限大切にしたい。しかし自分の名前なんか、本質を神に知ってもらっていれば、囚人番号でもいい、と思っている。
 その土地や人が受けて来た歴史と実態は、名前が変わったくらいで消しようがない。昔東京は江戸と言った。しかし今、江戸でなければ、と思う人はない。私が今住んでいる区は、昔は大森区だった。それが蒲田区といっしょになって大田区というばからしい「折衷名前」に変更された。大田区と比べれば、蒲田区か大森区の方がずっとましなのだから、名前なんかさっさと譲ればよかったのである。つまり名前など、実態に比べればどうでもいい、ということだ。
 新津がさつきやアザレアの産地と知って、時間があったら市場に買いに行くのに、とそれが何より残念だった。私はさつきやアザレアの小さな(ということは安いということだが)株を買って来て植え、春には差し芽をして、丹念に増やしている。自分で植え込みを梅雨前に刈り込んで形を作る。
 つつじやさつきは日本中に分布している酸性土壌を好む。日本の土地に1番自然な植物の1つだ。植物でも人間でも、そのものの性質に合ったことを合った土地で生かしてやるのが1番いい。だからつつじやさつきはまさに日本の花だ。
 帰り再び新潟から新幹線。がら空きの車内に「今日は満席です」というアナウンスが響く。一体どこからいっぱいになるのかと思っていたら、トンネルを抜けて白雪の世界に入った越後湯沢で、ほんとうに満席になった。遊んでいられる人が多いのだなあ、と思う。
 本日午前中に九州北部で地震。                                        (以下次号
 



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