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世界保健機関(WHO)ハンセン病制圧特別大使を務める日本財団の笹川陽平理事長はハンセン病の制圧活動に30年以上かかわってきました。笹川理事長の父で、日本財団の創設者である故笹川良一会長の遺志を継いでハンセン病制圧と撲滅をライフワークとしています。 ハンセン病は、何世紀にもわたり人類を苦しめてきた病気です。この病気については古来から世界各地の数々の文書に記載がみられ、新・旧約聖書・中国の古文書、紀元前6世紀のインドの古書などにも記述があります。 長い歴史を通して不治の病とされていたこの病気は、1981年のMDTという複合治療薬の開発によって治る病気となりました。1985年には世界の122カ国でハンセン病が公衆衛生病(人口1万人に1人以上の患者)と認知されていたが、WHO(世界保健機関)や各国政府、NGOなどの献身的な努力によって、この数はいまやインド、ブラジルなど6カ国に、患者数も530万人から約60万人と大幅に減少しました。何世紀にもわたって人類を苦しめてきた難病も今やその制圧は時間の問題というところまで来たのです。 笹川理事長の特別大使としての大きな役割は、各国の政治指導者がハンセン病制圧に対する認識を高めてもらい、強固な意志をもって制圧に向けて取り組んでもらうことを直接依頼すること、各国のメディアにアピールして、広くハンセン病についての一般市民の知識を高めてもらうことにあると考えています。特に「ハンセン病は治る病気である」、「薬は無料でどの保健所でも手に入る」、「差別をしてはならない」という三点を徹底的に社会に知らしめてゆくことが重要であると考え、2003年にはインド、アンゴラなどハンセン病まん延国を中心に述べ13カ国で制圧活動を行いました。2005年の制圧に向けて今後も精力的な活動を続ける予定です。 2004年1月、笹川理事長は制圧活動の一環として、世界の患者の7割を占めるインドを訪問いたしました。その活動報告を以下のとおり、紹介させていただきます。 ※
2004年の最初の訪問国はインドでした。1月27日から30日にかけてチャティスガール州の首都ライプールで国際ハンセン病協会、インド政府、チャティスガール州政府などの共催による「ハンセン病制圧インド国民会議」に参加しました。インドのアブドゥル・カラム大統領は、開会式のスピーチで、2005年までの制圧を目指してより一層の協働作業への努力と戦略開発が必要であると述べられ、その強い政治的責任感(コミットメント)を示されました。そして、同時に大統領は、治療を終えた回復者たちのためのリハビリテーションの必要性にも触れられました。“思いやりあるリハビリテーション”と大統領は述べられ、ハンセン病に対する知識を高め、偏見を取り除くための保健教育を推進することがリハビリテーションの本質的な部分であると強く訴えられ、“苦しんでいる人々の痛みをなくすことを考えよう”という言葉でそのスピーチを締めくくられました。このようなトップリーダーの強い政治的意志のもとに、インドにおける制圧活動が飛躍的に進展することを強く希望するものです。 また、私の開会式でのスピーチは、100マイルの道のりは99マイルをもって半ばとする。2004年、2005年が、最後の1マイルであり、関係者一同、強い危機感をもって成功裏に歩き通そうというものでした。 インドの保健省の次官であるリタ・テオティアさんと、同省の新任のハンセン病担当副部長であるディロン氏ともこの会議の期間中にお目にかかり、中央政府の一層の努力をお願いしたところ、2004年、2005年の制圧活動については、焦点を絞った行動計画(アクション・プラン)を現在策定中であるとのことで、早急な発表が待たれます。インドは現在4月の総選挙に向けて、政治的変動の時期でありますが、これが、ハンセン病制圧活動の盛り上がりに影響を与えることがないことを望みます。
ライプールの会議では、私もハンセン病制圧特別大使として基調講演を行いました。そこで私は、過去1年間に渡る活動の中から、インドにおいて、私が感じた諸点を皆様に報告いたしました。第一に、インド諸州の政治指導者と面会し、政治的コミットメントをお願いした結果始まったさまざまな活動状況を報告し、そして、これらが、その他の州のモデルとなり得ることをお示ししました。第二に、各地のメディアとのやりとりをご紹介して、いかにメディアがハンセン病制圧に対して持っている知識や情報が限られているかを皆さんに再認識していただきました。実際、このメディアとの関係をどう構築するかということは、この会議のテーマの1つに取り上げられ、国際ハンセン病連合のゴカレ理事長が中心となっていくつかのワークショップが開催されました。私は、メディアの協力を得るためには、メッセージを伝えたい側のわれわれの方が、より戦略的にニュースやストーリーを提供する体制を整えなければならないと申し上げました。ハンセン病の制圧は、メディアにとってはニュース性という面から言えばプライオリティの低いトピックです。そのメディアが、積極的にハンセン病についての報道を行うインセンティブを提供できるような戦略を考えることが必要です。 第三に、現在進みつつある医療的な統合(一般医療サービスにハンセン病医療を統合する)だけでなく、ハンセン病制圧活動を社会運動として活動に広がりをもたせる社会的統合を進めようということも申し上げました。従来のような、ハンセン病を専門とする行政、医療機関、NGOなどの縦型の構造では、社会的な広がりを期待することは不可能です。ハンセン病の現実について正しい知識を社会一般にもってもらうためには、ハンセン病に直接かかわりのない様々な組織を巻き込んでいくことが必要であるとお話しました。 チャティスガール州のラマン・シン首相とバンディ保健大臣とも親しくお話をする機会を得ました。チャティスガール州の有病率は1万人に5.08人ということで、この州はインドで3番目に有病率が高い州です。他のインドの諸州と同様、ここでも部族人口が34%以上を占め、地理的、社会的に隔絶された遠隔地に住む人々の人口も多く、貧困層が厚く杜会経済的な遅れが栄養や衛生などの状態を悪くしている、ハンセン病に対する強い偏見や恐れが社会的に存在するなどの問題があります。患者の発見と治療、一般に対する医療教育、知識の普及、リハビリテーションなどしなければならないことは山積しています。シン首相もバンディ保健大臣もこれらの問題については十分理解されており、強い指導力をもって制圧に向けて進んでゆくという姿勢を示されました。
1月29日には、首都ライプールから約30キロはなれた村にある保健所を訪れ、20名ほどの男女の保健担当者の方々とお会いしました。この人々はハンセン病だけでなく、母子保健や結核対策など広い分野の保健活動を担当しています。通常週に1回はこのように保健所に所属する担当者の人々が打ち合わせやMDT(多剤併用療法)の取得などのために集まるのですが、この日は、翌日からハンセン病制圧のためのキャンペーン活動が開始されるということで、その準備もあって集まってくださったということでした。この方々がもつハンセン病についての知識は非常に正確で、現在の州全体の状況もよく把握されており、2005年までには必ず1万人に1人にするという決意を表明してくださいました。何人かがハンセン病制圧にまつわる体験談を紹介してくれましたが、「コミュニティで高い地位にある上位力ーストに属するブラーマンの人がハンセン病にかかり、小指が変形し、MDTの治療を受けて治癒し、ヘルスワーカーたちに心から感謝してくれた」という話は階級社会インドでも病気は差別なく現れ、治療にも差別はないという象徴的な話でした。この保健担当者たちは通常バイクか自転車で患者の家を訪問しますが、1人が5千人の世話を見ることになっており、これらの人々が、広い地域に拡散して住み、地理的に自転車でいけない場所も多いと聞いて、本当に大変な仕事をしてくださっていると頭の下がる思いでした。 1月30日は、マハトマ・ガンジーの暗殺された追悼記念日であり、同時にインドにおけるハンセン病制圧の日でもあります。この日、首都ライプールの中心部にある広場に少年少女数千人が集まり、ハンセン病制圧のキャンペーンのための式典と市内行進が行われました。保健大臣と私を先頭に、政治指導者、政府関係者、少年少女の長い列が、街中を行進し、ビラを配り、一般市民にハンセン病の制圧を訴えました。この子達の未来には、ハンセン病のない世界が来ることを、確信するとともに、そのためには、今われわれのしていることに一層の努力を傾注する必要があることを痛感した次第です。 (2004・2)
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