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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 不可触民の村  
コラム名: 私日記 第66回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2005/06  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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   2005年3月22日
 朝、阪田寛夫さん死去の通知。
「さっちゃん」など、阪田さんの童謡を知らない人はいない。しかし私たちにとっては第十五次『新思潮』という東大系の同人雑誌の仲間だった。三浦朱門とは旧制高知高校で同じ寮の同室の友人。この日が来るだろうということは覚悟していたが、友人を失うということは辛いことだ。
 午後、毎日新聞社へ。最近出版された『哀歌』に署名して友人に送る。この頃「本が多くなると2階の根太が下がって階下の押し入れが開かなくなるから、もう本は送らないで」と言う人もいるので、こういうことはめったにしないのだが、数年ぶりで私らしい作品になっているように思うので、署名して送ることにした。ルワンダでは1994年が虐殺の年で、100日間に100万人が殺された。そのような惨劇の地が私の小説の舞台だ。
 アフリカの残虐は、決してルワンダだけのものではない。また過去のものではない。現在ではスーダンのダルフールが発火点になっているが、カトリックの司祭だけでも、約200人が殺されている。アンゴラ、ブルンジ、カメルーン、中央アフリカ共和国、コンゴ、エリトリア、ガーナ、ケニア、モザンビーク、ナイジェリア、タンザニア、ウガンダ、ザイール、ジンバブエなどの国々がその悲劇の土地だが、なぜか日本の新聞はこうしたことをあまり報道していない。

 3月23日
 夜雨の中、阪田家へ。ほんとうのお通夜は明晩なのだが、私は明日、名古屋の万博の開会式に行かなければならない。モーターボート競走施行者協議会、蒲郡、常滑、浜名湖の各競艇場、日本財団など「業界全体」で25億円ほどの醵金をしているので、前から出張の予定が立っている。それで勝手だが、一目お別れがしたくてでかける。朱門は「僕は咋日さんざん頭を撫でて来た」と言う。ちょうど牧師さんが見えて納棺の式をなさるのに間に合った。やすらかなお顔で、昨日などは、薄眼を開けて皆を見ていた、と長女の啓さんが言う。
 竹井牧師さんは遠藤周作さんの従弟さんで、明るいいいお説教をされた。こういうお話を聞くと、誰でも死ぬのが大して怖いことでなくなるだろう、と思う。

 3月24日
 9時半頃、新横浜発の新幹線で名古屋へ。すぐ会場に向かう。お弁当を中に持ち込めないというので、駅で横浜駅のシューマイを食べる。
 会場までは長い木製の歩道を歩いた。あまり遠くて飽きて来たので途中で来た電気自動車に乗せてもらった。私はまだいいけれど、老人には大変な距離だろう。会場は屋根はあるのだが、風は吹き通し。それも入れるのは私だけ。ご招待を受けた日本財団の同行者3人は、会場にも入れない変なシステムである。
 天皇皇后両陛下と皇太子殿下がおでましになる。舞台の両脇に、名古屋城から下ろした金のしゃちほこが飾ってある。思ったより小さい。雄と雌は大きさが違うのだそうだ。雄が2・62メートル、雌が2・57メートル。もっともこれが普通鬼瓦が飾られる部分に置かれているのだから、やはり大きいというべきなのだろうか、と思いなおす。
 開会式はよく演出が考えられていて、子供たちがかわいい。

 3月25日
 朝9時から、博覧会内部を見る。入り口で雪がちらついていた。「あらかじめどこを見たいですか?食堂も予約が要りますが」と教えてもらったので、見たいのはアフリカ館、食事はトルコ料理と答えたのは、ひたすら空いていそうなところを選んだのである。アフリカ館はやはり私たちが一番乗りで、顔見知りの大使のお一人にご挨拶した。
 マンモス、日本館、トヨタグループ館のロボットたち総出演のショウを見る。私が非常に感動したのは「グローバル・ハウス」内にあるソニーの世界最大のスクリーンに映された「レーザー・ドリーム・シアター」である。50メートル×100メートルの大スクリーンに継ぎ目なしの大映像が映る。私が自分で小型飛行機を超低空で飛ばして観光しているようなぜいたくである。
 むだなく案内して頂いても、この遠さ。いちいち予約券をもらってから、後刻またそこへ引っ返さねばならないとなったら、私の脚ではとても保たないだろう。トルコ料理は定食が3500円。おいしいけれど内容から見て高い。もし親子4人で来ると、入場料が大人1人4600円で、子供が1500円とすると総額で1万2200円。お弁当とペットボトルの持ち込みも禁止だとなると、昼食その他でやはり5000円以上はかかるだろう。私ていどのご飯を食べたら一家4人で1万4000円にもなる。飲み物を買えば飲食費に1万5000円みなければならない。
 どうして弁当と飲み物の持ち込みがいけないのだろう。ペットボトルに発火性のものを入れる人がいてテロの手段になるとか、弁当は食中毒になるとか、いずれも説明にならない。当たるような弁当を持って来た人は自己責任、今は電車の中にさえみんなペットボトルを持ち込んでいるご時世に、あまりにも感覚的にずれている。それなら、電車の中のペットボトルの持ち込みも、どこかで禁止しなければならないだろう。
 23年前、私の眼を手術して下さった馬嶋慶直先生ご夫妻と夜、会食。「ほんとうにご無沙汰をしてしまいましたが、23年間、治して頂いた眼はまだ無事に使っております」とご報告した。私の主な作品のほとんどは、その23年間に書いた。先生もお元気で、今でも手術をしておられるという。

 3月26日
 朝の特急で、新しく出来た中部国際空港へ行く。そこから飛行機で青森へ。もっとも時間がなくて、名物空港の中を見る暇はなかった。飛行機は天候が悪くて青森空港に着けないかもしれない、とアナウンスされたが、私はまあ多分大丈夫だろう、と例によって高を括っていたら、果たして無事着陸した。もっとも町には融けかけにせよ雪が積もっていて、足元が危ない。もう二度と骨折はしたくないと思うとおかしな歩き方になる。
 午後2時から弘前文化センター大ホールで「第5回津軽健康大学」のための講演会。夜6時半羽田帰着。

 3月27日
 明日からのインド・シンガポール行きのための準備。原稿を書き、荷物を作る。

 3月28日
 朝9時半、成田。光文社の竹内充さんと祥伝社の山口洋子さんお二人のベテラン編集者と、日本財団からはジェームス・ハフマン、中嶋龍生の2人の職員が同行する。今度のインド行きは、私が働いている海外邦人宜教者活動援助後援会がお金を出した不可触民の女子寮が完成したので、その開所式に出席するためだから、私の旅行費用は自費。財団からのインドをあまりよく知らない2人の若者を勉強のために同行する分は出張扱いである。
 海外邦人宣教者活動援助後援会からのお祝いにCDやカセット・テープなどに対応するプレーヤーを持って行ったので、大きな手荷物になったが、バンガロール空港ではロッシ神父が税関の中まで入って来て受け取りを手伝ってくれた。
 ロッシ神父はつい先日まで、ドイツに「乞食に行っていました」と笑う。お金がないので、元公認会計士の神父はイエズス会の修道院の「乞食係(集金係)」を引き受けているのだ。

 3月29日
 朝、ホテルを出て、多分アネカルの近くと思われる岡の下方の不可触民の村を訪問した。しかし足元が悪い道がだらだらと続くので、途中で私だけバスに帰った。
 もう1つの村でも、政府の政策の結果、建設ブームだった。とは言ってもお父さんが煉瓦を積み、お母さんと幼い息子と年頃の娘などが煉瓦を運んでいる。家は一軒日本円にして1万円ほどでできる。5メートル×7メートルほどのセメントの土間一間きりの家だ。そこに家族が5人でも7人でも、全員が寝る。ドアは共同購入して値引きさせたので1枚200円になったという。木目などこそいい加減だが、材質としては立派な重い木製のドアである。
 建前をしている家の前ではお灯明がともされ、香が焚かれている。家の人が私たちにポップコーンならぬ香ばしい煎り立てのポップライスをお盆に入れてくれる。不可触民の土地では、出されたものを食べることが最高の友情の印だ。ヒンドゥの階級社会では、不可触民の触れたものを、それより上層階級の人は決して食べないからだ。
 十数軒の家が並んだ高台の村には爽やかな風が吹き抜けていた。目抜き通りは生の気配に満ちている。戸別の水道はなくても、給水塔も共同の蛇ロも一応できているし、ほんのさっき生れたばかりという山羊の赤ちゃんが必死で母親のお乳にむしゃぶりついている。皆知り合い。それがうっとうしくもあろうが、日本社会では知らない人が隣に住んでいると知ったら、彼らは不気味に思うだろう。
 イエズス会で昼食を頂く。私の前に坐った神学生はマンガロールの出身だという。お父さまは何の職業でしたか?と聞くと「農民でした」と言う。おそらく不可触民なのだろう。「日本では、階級制度など一切ありません。農業は国の基本で尊敬されています。天皇陛下はご自分で長靴をはいて田植えの儀式をされ、皇后陛下も自ら野蚕を育ててその絹が正倉院の御物の補修に使われています」というと感動したような表情を見せた。日本は悪い国だとしきりに言いたがる日本人にも、私は同じように言うだろう。
 午後の見学後、私はロッシ神父と、新たに海外邦人宣教者活動援助後援会が資金を出すことになったビジャプールの学校の校舎新築に関する交渉をする。既に海外邦人宣教者活動援助後援会は今までにインドに対して6600万円以上を出しているが、インドのみならず、南米諸国でも、1つの案件を決定すると、すぐに予算の追加を言い出されることが多くて私たちの大きな悩みだった。もう幾らないと工事が完成しない、という言い方である。今回も建設費約5700万円を拠出するに当たって、私は最後の詰めをするために英語で書いた覚え書きを携行して来ている。その条件に応じられるならお金を出します、という内容だ。
 その条件とは「いかなる材料・労賃などの値上がり、設計上の計画ミス、などがあろうとも、予算の追加請求をしないこと。新しい学校の先生たちの月謝を支出する件には応じられない」という内容のものである。建物が建ったと思って安心していると、すぐに先生たちの給料も出してくれ、という要求が来る。それなら3年間だけみましょう、と言うと、一旦雇用したものを首切ると訴えられるから、3年間ではだめ、ということで、こちらも疲れ果てることがあったのである。
 しかしイエズス会はそれでもお金をまちがいなく本来の目的のために使ってくださる。ロッシ神父はさすがに法律に詳しいので、この「念書」には自分のサインだけでなく、自分がその責任者でなくなった時も問題が起きないように、イエズス会としての管区長の神父と自分の連名サインにすると言ってくれる。こうした最低の用心はすべてのNGOが必ずしなければならないものだ。
「いつ、工事にかかれます?」
 私が聞くと、今15万ルピー(約45万円)あればすぐにも工事にかかれる。係の役人はそれだけ受け取ればすぐハンコを押す。しかし出さなければ、ハンコの入っている引き出しも開けない、のだそうだ。
「申しわけありませんが日本はあなたの国のワイロの費用までは出せません。それはそちらで工面してください」
 と言いながら悲しい思いに捉えられた。1人くらい、不可触民の教育のために動こうとする政治家はいないのかと思うが、別の人の話では、不可触民クラスがずっと安い労賃で働くような社会状況にしておくことが上層階級の繁栄に繋がるのだから、改変のために動く人はないだろう、と言う。
 暑さで少しくたびれる。

 3月30日
 午前中他の人たちは、バンガロールのIT関連会社が集まっている町へ。私は部屋で原稿書き。
 11時に階下におりて、再びアネカルに向かう。途中、私たちもその名前を聞き慣れた世界の有名会社のしゃれた社屋が道の左右に立ち並ぶ。もう町には痩せた牛がさまよう光景を見かけなくなった。修道院で再び昼食をごちそうになる。
 女子寮は「バラジョティ・ダーリット・ガールズ・ホステル」という。不可触民の少女たちの寮だとはっきりうたっている。日本のようにそういうことを隠すという空気は全くない。明るい中庭を持ったすがすがしい建物には、トイレも並んでついており、シャワーも3部屋ある。ベッドはないが、床にマットを敷いて寝るのがここの風習だ。中央の部分は祈りの部屋。カトリックの信仰は決して強制しない。「おお神よ」とは祈るが、その神はめいめいの信じる神でいい、とロッシ神父はいつも言う。
 不可触民の人たちの学校の催しには、土地の偉い人も来ない。だから日本人が来てくれて祝ってくれるというのは、眼が覚めるほどのすばらしいできごとなのだ、という。ジェームスに下書きを書いてもらった英語の祝辞を述べる。バラの花ももらう。インドではよくバラの花を贈られる。
 アネカルからバンガロールヘの道はいつも交通渋滞が激しいのだが(インドの近代化の表れ!)、帰り道は比較的早く着いたので、サリーを売る店に寄る。サリーの絹地は色がきつくて使えそうにないので、木綿の寝間着を2枚買う。1枚1000円。丈が長くてくるぶしが出ないだろうと思うと嬉しい。
 夕食を皆でロッシ神父とホテルのタイ料理の食堂で食べて、9時半空港へ向かう。夜半過ぎのインド航空でシンガポールヘ。

 3月31日
 朝、7時シンガポール着。日本海難防止協会シンガポール連絡事務所長の市岡卓氏と空港でお会いする。明日行なうマラッカ海峡見学の打ち合わせ。ここのところ再び海賊の動きが激しいので、明日は日本財団が8・5億円で建造しインドネシアに寄贈した設標船「ジャダヤット(南回帰線)号」に乗って危険海域を視察してもらう予定である。
 昼ご飯を同行者の宿舎のカールトン・ホテルの2階の広東料理の食堂で摂りながら、明日の打ち合わせ。午後は市内にあるハンセン病回復者の施設を皆見学に行ったが、私はナシムの家で休むことにした。

 4月1日
 朝7時半、港で日本大使館やマスコミの人たちと落ち合う。外国通信社も入れて二十数人がインドネシアヘのフェリーに乗る。
 桟橋で「ジャダヤット」号で技術指導をしておられる佐々木生治氏に会い、入国の手続きを待つがなかなか終らない。こんなところで時間のロスをする。
 ボートで「ジャダヤット」号へ。この船の生真面目な船長とはもう何度もお会いしている。船は満艦飾。旗が新しいのも歓迎をしめしているのか、感謝である。
 入国で時間を取ったので、予定を変えて近くのブイでの作業を見学。狭い海峡を通過する船は、常にブイを壊して行く。それをこの設標船は絶えず直して歩いている。ほとんど無風の暑い海面に停まって、焼けたフライパンのように熱い甲板の上で、壊された巨大なブイを引き揚げて補修作業を行なうのである。
「ジャダヤット」自身もアチェの地震の被害者への物資を届けに行く途中で、海賊に襲われた。「ジャダヤット」は武装していない。しかしその時は海軍が護衛していたので、全速力で近づいて来る不審船に対して、護衛が先に発砲して追い払った。
 マスコミが熱心に見守っている最中に、日本財団とマスコミの一社の電話に、新たな海賊情報が入る。場所はワン・ファザム・バンクと呼ばれる北西の海域。乗組員は全員フィリピン人のパナマ船籍の日本船に海賊が押し入り、200万円ほどを取って帰ったという。人員の被害がなくて少しほっとする。
 シンガポールに帰ってから、夜は上海に発たれる竹内さんを送りながら、空港の近くの安くておいしい海鮮料理屋で食べる。デザートはタロとヤムの薯を茄でて、ココナツのミルクを掛けたもの。
「日本財団の職員が、ヤムとタロの味も知らないで、途上国援助もありませんからね」
 という感じだ。

 4月2日?4日
 山口洋子さんとナシムの自宅で暮らす。2日には陳勢子さんを病院に見舞ったが、翌日にはもう退院とのこと。お嫁さんのホワンイとインドネシア人のメイドさんに、今私が受けている淋巴マッサージのこつを受け売りする。3日には勢子さんの自宅にお見舞い。日本に来て、お刺身など食べながら療養することを勧めた。日本の春はタケノコ、タラの芽のてんぷら、初カツオ、桜餅……食の誘惑には事欠かない。
 4日朝の便で帰国。家に帰ると、毎度のことながら、まだ読んでいない新聞が山のように積まれていた。

 4月5日
 日本財団へ出動。
 会合、お客さま。
 海事問題を自由に討議する「ワカメの会」。干したワカメは全く見場がよくない。しかし水につけるとうんとふえるし、おいしい。そういうワカメの会なのだろう。
 帰国中の4人のシスター方も加わられて、夜は自宅で海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会。インドのイエズス会から、後で増額請求をしないという約束を取り付けて来たので、ビジャプールの学校建築はゴーサイン。マダガスカル、ボリビア、チャド、ブルキナファソ、コンゴ民主共和国、東京の聖ヨハネ会桜町病院などに、総額7297万3000円を決定した。1回の会合で決めた助成としては最高額になった。何だかその分だけ疲れた。私はお金に弱い。
                                                             (以下次号)
 



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