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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 財団会長辞任  
コラム名: 透明な歳月の光 161  
出版物名: 産経新聞  
出版社名: 産経新聞社  
発行日: 2005/05/30  
※この記事は、著者と産経新聞社の許諾を得て転載したものです。
産経新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど産経新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   執筆、料理…ますます多忙?
 6月30日で、私は9年7カ月働いた日本財団という組織を辞任できることになった。私はいい加減なキリスト教徒だが、契約という意識には馴(な)れている。信仰をもつ人間はいつも神との契約の意識で(時にはそれを破っているという実感の中で)生きている。だから財団も6月30日の最後の日までは出勤する。しかしその後は一切の肩書は貰(もら)わない。
 実はもう何人かのマスコミ関係者から「辞めた後はどうするんですか?」と聞かれて私はびっくりした。10年前の私など知らない若い記者がいて当然なのだが、私は小説家だったし、この10年間もずっと書くことを止めなかった。だから私は元通り小説家の生活に復帰するだけなのである。
 財団に勤め始めた時から、「私の第一の仕事は作家で、第二が日本財団の会長です」と世間に言いふらしていたのである。日本財団の会長職は「寄付行為」によって「無給」と決められているので、私自身に税務署にはっきりわかるような別途の収入がないと、財団からこっそりもらっているように思われそうで、気の小さい私は用心していたのである。
 6月末が近づくと、私はいろいろと7月からできる仕事の計画を立てるのに忙しくなった。ものを捨て、畑仕事にできるだけ復帰する。連載を始める。もっと料理をする。
 私のしたい仕事の中には、職人さんの真似(まね)事も多かった。もともとペンキ塗りや壊れ物直しが好きである。アクセサリーの修理や包丁研ぎを始めると、上手とは言えないが時間を忘れる。私の家は40年も経(た)つ古家なので、いつもどこか磨いたり繕ったりしていないとみじめな姿になる。その仕事も好きだ。縁の欠けた茶碗(ちやわん)に金継ぎをする初歩的技術も習いたいし、禿(は)げた漆をほんの一部塗り直す方法も覚えよう。
 こういうことに執着するのは、もちろん私の性格がケチだからなのだが、第一には例の「もったいない」をずっと生まれてこの方やってきているからである。直したものは、命をもらいなおして落ちついて輝いている。その姿が大好きなのだ。
 第二に、こうした職人さんをめざす仕事は、生きる営みと現実に繋(つな)がっている。40歳を過ぎてからの私が、創作のテーマがなくなるという体験をしなくて済んだのは、私がいつも実生活にまみれて生きてきたからだろう。これが書斎の中だけで暮らしていたら、私は末梢(まっしよう)神経肥大症気味の文学に逃げ込むか、バーチャルリアリティーの中で造り上げた小説を書くことしかできなかったろう、と思う。
 友達が私の話をじっと聞いていた後で、言った。
 「あなたの話を聞いていると、辞めてから後の方が忙しくなりそう。そんな美的でない生活はおよしなさいね」
 



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