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何年も前にパリで独立記念日の記念式典を見たことがある。コンコルドの広場で盛大な軍の分列行進が行われるのである。 軍楽隊のマーチに合わせて各部隊が行進した後、突然音楽が沈黙した。何が起こったのだろうと思って見ていると、「自前」の太鼓だけで行進して来る不思議な集団が現れた。兜(かぶと)の先端から馬の尻尾と見える飾りを垂らし、斧だかマサカリだかを担いでいる。世界各国から集まっていたマスコミのカメラは、一斉にそちらに向かって殺到した。外国人部隊の登場だった。 世の中には、危険を承知でその職業を選ぶ人がいる。非常に対立した観念だが、外国人部隊と、アフリカなどの僻地(へきち)で働く修道女には似た姿勢がある。彼らは国家より強い権威に従うのである。ただし外国人部隊は自己の選んだ闘争の美学に殉じ、修道女は神との契約を元に危険を冒して他者のために働く道を選ぶ。 アフリカでは、政治情勢が安定しない国が多いから、常に内乱が起きている。武器が貧しい庶民の生活にまで浸透しているのが悲劇を拡大する理由だ。非常事態が深刻になると、日本の大使館は当然、在留邦人に引き上げ命令を出す。 ある時、某国の日本人大使夫人は、私の知人の修道女たちに引き上げを度々勧めたにもかかわらず現地にとどまったことをずいぶん心配していた。私は修道女たちを代弁する立場にはないのだが言った。 「それでよろしいんじゃありませんか。日本国家の命令より、神との約束の方を優先するのが修道女ですから。でも大使の奥さまが心配してくださったことは、ずいぶん喜んでいましたよ」 パリの独立記念日の行進で、外国人部隊に人気が殺到したのも、その特異な制服がフォトジェニックだったからだけではないだろう。戦いはいけない、武器を取ってはならない、というのはまちがいないことだ。しかし日本の平和主義者のようにそれだけを唱えていても、世界平和は実現しない。 あちこちのアフリカの内戦では、武器を持たない人々が武器を持った人々に虐殺されるという当然の帰結を見せたし、日本の総理が靖国に参って平和を祈願するだけで非難する中国は、過去にではなく現在ただ今、武器の輸出国だ。世界のどこかで無辜(むこ)の人々が中国製の武器で無数に傷つき死んでいる。中国はそのことについて、一体何と説明するつもりなのだろう。 外国人部隊は平和主義の美名に酔うよりは、あえて人間の醜い面を正視し、汚名を着る道を選んだ。重大な問題には答えを先送りし、それで決定的な非難も受けないようにして生きている私よりは卑怯(ひきょう)者でない、ということだけは明白だ。その覚悟を感じるから世界のマスコミも外国人部隊に関心を寄せ、その存在を通して改めて自分の人生を考え直すのだろう。
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