共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 笹川 陽平  
記事タイトル: ?制圧、そして、偏見・差別の根絶に向けて?  
コラム名: フィリピン・インドを訪問して(2004年12月)  
出版物名: 松丘保養園  
出版社名: 松丘保養園  
発行日: 2005/02  
※この記事は、著者と松丘保養園の許諾を得て転載したものです。無断で複製、翻案、送信、頒布するなど松丘保養園の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
 
  〈フィリピン・マニラにて〉
 12月1日からマニラで開催された世界保健機関の東南アジア地域と西太平洋地域の2つの事務所による“ハンセン病制圧後の戦略に関する共同会議”に出席する機会を得ました。
 制圧後もハンセン病に対する意識が薄れることがないよう、注視し続けることが重要であることは言うまでもありませんが、私自身は、制圧達成まであと1年となった今、最優先すべきは制圧そのものにあり、まず皆さんの全精力を制圧に向けていただきたいと発言し、それとともに、病気を治すこと、そして、偏見や差別という社会の病気を治すことの2つを統合していく活動の必要性を強く訴えました。
 会議の中では、ハンセン病制圧を達成した後、その状況をいかに持続していくか、制圧後の監視体制の構築をはじめ、ハンセン病を多くの病気の1つとして一般医療に統合し、患者の早期発見、早期治療を続けていくための制圧後の基本的な戦略に焦点が当てられました。
〈インドにて〉
 インドはハンセン病未制圧国の中で最も患者が多く、その数は2004年3月末現在、26万6千人と発表されています。私は、この国を2003年04年にかけ10回訪れました。この訪問を通じて、私は「ハンセン病を制圧すること、そして偏見・差別という社会の病気を根絶すること。これらは車の両輪であり、ハンセン病との闘いに勝利するためには、この2つを成し遂げなければならない」と機会のあるたびに発言してきました。
 今回は、12月3日から9日まで、マディアプラデシュ州(州都ボパール)とアンドラプラデシュ州(州都ハイデラバード)を訪問、ボパールではマディアプラデシュ州知事、首相、保健大臣、ハイデラバードではアンドラプラデシュ州知事など、両州の政治指導者と会談しました。そして、これら政治指導者とメディアに対し、「ハンセン病は治る病気である」、「薬は無料でどこでも入手できる」、「差別をしてはならない」という3つのメッセージを全ての人々が理解するまで、徹底して伝え続けてほしいと繰り返し要請しました。
〈マディアプラデッシュ州?ボパール?〉
 マディアプラデッシュ州は、その名(「マディア」は「中央の」という意味)の通り、インドの中部に位置し、面積はインド最大、人口約6,442万人の州です。州都ボパールはもともとはイスラムの街で、インド最大と言われるモスクをはじめ200ものモスクがあるそうです。尖塔を横目に旧市街の迷路のような路地に入りますと、そこには、野菜や肉を売る店や日常雑貨の露店がひしめき、人、自転車、バイク、オートリキシャー(タクシー)でごった返す道の真中には牛たちが悠然と寝そべっています。イラク戦争ではイスラム世界との対立が取りざたされていますが、この喧騒と雑踏のなかには多宗教が見事なまでに共存していました。

 マディアプラデシュ州の有病率は、2004年10月現在、人口1万人あたり1.28人と制圧まであと一歩というところまできています。特に、回復者が村や町の中で寝起きをともにしながら過ごし、身体的、精神的な苦痛を和らげるためのキャンプを通じ、患者や回復者に対する社会の偏見・差別の解消に取り組んでいます。
 12月6日、ボパールから北東へ50kmほどに位置するアショーカ王の仏塔(ストゥーパ)で有名なサンチ村で開催されていたキャンプを視察しました。
 今回のキャンプは12月2日から始まり、視察当日は5日目の最終日に当ります。サンチ近隣の村から50人ほどの回復者が集まり、学校長の許可を得て学校の施設の一角に寝泊りしながら参加していました。学校の前に広がる空き地に張ったテントの下、たらいの水の中で足のマッサージをしたり、ストレッチや手足の簡単な運動を行ったり、足のけがの手当てをしていました。
 キャンプ当初はお互いに馴染めないそうですが、最後には涙を流して別れを惜しむようになるそうです。私自身、何人かの参加者の足をたらいに張った水の中で摩りながら顔を見上げると「ここに来てケアしてもらえるのが嬉しい」と微笑みながら言葉を返してきたのが印象的でした。しかし彼の足を洗いながら、あまりの汚さに驚いたことも正直に告白します。
 このキャンプは、薬による表面的な治療をするだけでなく、心の痛みを和らげる効果もあります。また、学校の生徒、近隣の人たちにオープンにすることで、ハンセン病に対する偏見や差別をなくそうという意図もあり、最初のうちは好奇の目で覗きにきていた生徒たちも、何日かすると普通に接するようになるようです。
 私は、広場に敷いた薄手の絨毯の上で参加者と車座になって、手のひらに乗るような葉の上に盛られた朝ごはんを一緒に食べました。孤独な回復者の話をじっくり聞いて差し上げることは、誠に重要なことだと認識を新たにしました。
 多くの方々とお会いした中でも、ボパールでは、決して忘れることができない方との出会いに恵まれました。回復者の1人マラック・シン・シュリヴァスタヴ氏、56才です。小さな村で農業を営むシュリヴァスタヴ氏は、2年前にハンセン病と判断されました。彼の住んでいる地域では、昔からハンセン病ともう1つ皮膚病とあわせてコッドと呼ばれているそうです。コッドはマハーバーラータ(古代インドの叙事詩)にも出てくる古い病気で、息子を殺された神が、その神を呪って、かからせる病気です。実際にこの病気にかかった人がいたわけではありませんが、コッドにかかった人は村や社会から疎外されると聞いていたシュリヴァスタヴ氏は、自分がこの病気にかかったと知り、自殺を考えたそうです。
 そのような彼を心配した家族や村人は15日間、昼夜を問わず励まし続け、中でも奥様が政府のハンセン病担当官から学んだ「簡単に治る、薬は保健所で手に入る、病気になっても誰も疎外しない」ことを懸命に説得し、治療を受けた結果、幸い重い後遺症もなく治りました。現在では、自ら先頭に立って、ハンセン病に伴う身体的、精神的な苦痛がなくなることを願い、ケア・アンド・コンサーン・キャンプを自費で開催するなど、精神的にも他の回復者のために活動するまで回復を遂げています。彼は、多くの新聞記者やテレビ取材陣の前で、堂々と自らの苦悩、そしてその後の活動を語ってくれました。
 声を上げるだけにとどまらず、他の患者や回復者に手を差し伸べている彼の姿から、私は大きな感動と勇気をもらいました。私は、常々、偏見と差別という社会が持つ病気を根絶するには、回復者自らが団結し、声を上げ、先頭に立つことが最も重要であると訴えてきました。回復者の一言一言は、私が声をからして訴えるよりも、何十倍もの重みと説得力を持っています。何よりも回復者皆様の力の結集が必要なのです。
 シュリヴァスタヴ氏の話を聞きながら、かのマハトマ・ガンジーの言葉を思い浮かべておりました。「ハンセン病の仕事は、単に医療による救済ではない。それは、人生における苦悩を献身の喜びに、そして、野心を無私の奉仕へ変えることである。」

〈アンドラプラデシュ州?ハイデラバード?〉
 南インド内陸部、デガン高原の中央に位置する人口、7,872万人のアンドラプラデシュ州は、南インドにおいて唯一イスラム教の影響が顕著な州です。ハイデラバードの街では黒いべールを着用した女性の姿を数多く見かけました。
 2004年10月現在、アンドラプラデシュ州の有病率は人口1万人に1.73人と、こちらも制圧まであと一歩というところまできており、特に、病気の1つとして一般医療の中に統合することに力を注いでいます。
 ハイデラバードでは、ランガ・レディ地区の保健所とシヴァナンダ・リハビリテーション・ホームを訪問しました。この地区では、2004年12月現在、人口1万人に0.54人と、既に制圧されています。
 この保健所には、ハンセン病患者20数人のほか、ヤショダ看護学校とカミネニ看護学校の女学生40人ほどが参加しておりました。
 看護女学生や保健所の方々が見守る中、子どもから大人まで20数名の患者に、ブリスターパックから取り出した薬を1人ひとりに手渡し、その場で服用してもらいました。皆さん日頃からあまり薬を飲む機会がないせいか、数錠を1度に飲むのではなく、1錠ずつ喉の奥に薬を入れて、なんとか飲み込んでいるようでした。多くの見学者は、風邪薬を飲むのと全く変わらない姿を見て、ハンセン病は単に1つの治る病気であると理解したと思います。私は彼女たちに、将来、職場でハンセン病患者に出会ったときは、今日のことを思い出して普通の病気として治療にあたってくれるよう挨拶の中で述べました。
 また、同じくランガ・レディ地区にあるシヴァナンダ・リハビリテーション・ホーム訪問も印象深いものとなりました。この施設は、1958年にハンセン病のリハビリ施設としてスタートした長い歴史があります。現在、ハンセン病の回復者を中心に、広大な敷地内には、約500名あまりの回復者が、男性、女性、家族に分かれ暮らしているほか、入所者の子どもたちのため学校、簡単な形成外科やリハビリを行う病院、糸紡ぎや機織の作業場、靴作りの作業場などが点在しています。
 入所者の平均年齢は70歳前後、最高齢は80歳で、無料で暮らしています。糸紡ぎの作業をしている姿は、あたかもマハトマ・ガンジーの姿を想起させるものでした。後遺症の軽い方は、様々な作業に携わったり、退園する方もおられるそうですが、高齢の方、重度の後遺症が残っている方は、ここを終の棲家とされています。私は、作業場を1軒ずつ回って200人あまりの回復者1人ひとりと握手を交わしました。たとえ社会の差別がなくなったとしても、深刻な身体的障害を負ってしまうと社会復帰は難しくなります。病気が進行する前の早期発見、早期治療がいかに大事か、そのためには「ハンセン病は治る病気である」、「薬は無料でどこでも入手できる」、「差別をしてはならない」、この3つのメッセージが全ての人に理解されると同時に一般医療の中に統合されることが不可欠であります。
 この訪問を振り返ってみて、1番の収穫は、実に多くの患者、回復者やヘルスワーカーほか現場の方々の声をつぶさに見聞きして回ることができたことです。
 ハンセン病は治る病気ですが、現状ではたとえ治っても、家族や社会から疎外されたコロニーで、ひっそりと孤独な生涯を終える人も多くいます。私は、このコロニーが全世界からなくなり、回復者が生まれ育った故郷、住み慣れた町や村で、家族や友人と一緒に普通の生活を送ることができる世界を目指し、闘い続ける覚悟です。
 



日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation