|
聖書の教え守るのが使命 前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の死の前後、ヨーロッパ、アメリカ系のメディアはほとんど24時間態勢で報道し続けた。法王の世界への影響力の大きさを知っていたからだろう。4月16日に日本を発(た)って身障者たちとまずローマへ入ったときは、ちょうど新法王を選挙するコンクラーベが始まるところだった。 バチカンのサンピエトロ広場前には?正確に言うと、狭いバチカン領内には入りきらず、イタリア領にまではみ出すような格好で?全世界から集まったテレビの桟敷が林立していた。 私は前法王が、初期のころは死後故国ポーランドに葬られることを希望していたが、正式の遺言の中にはもはやそのようなことには触れられていなかったことに感動した。年老いて病気になれば、どれほど古里の自然を懐かしみ、母の手料理の味に近い素朴な食事を食べたいか、法王とて同じだろう、と思う。しかしそのような人間的な執着を犠牲にすることが、法王の任務であった。 新しい法王は、ドイツ人で、神学者として有名なラッツィンガーである。私は書物を通してしかこの方を知らないが、何となくこの方が次の法王になるような気がしていた。新法王はベネディクト16世というお名前だそうだが、フランスへ入ってフランス語の新聞を見たら、ブノワナ6世という風に書かれていたので改めてびっくりした。 新法王は保守派だというもっぱらの評判で、マスコミは今度はその点にばかり視点を向けている。しかしもともとローマ法王という立場は聖書に書かれた教義を、命をかけて守る立場の人である。聖書の中には、「あなたの敵を愛しなさい」「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と簡潔に書いてある。短い言葉だが、重い内容だ。ほとんど90%までの人がこの命令を守りきれない。 しかし真理は真理として厳然と存在し、いかなる信仰といえども法灯は高くかかげられ、世相や世論によって動かされてはならないものなのである。ただしその実行に当たっては、愛と許しがその基本になることは当然である。新法王が保守派かどうかを論議の第一の対象にするということは、それだけで見当違いだ。 連日何万人がおし寄せたバチカンで、トイレをどうしていたか誰もが心配していたが、円型の回廊のかげにはプラスチックの箱型の簡易トイレがずらりと並んでいた。身障者用のものに入ってみると、排水構造のよくできた内部の床は水できれいに清掃され、朝9時少し過ぎだったが、まだノリのついたままの新しいトイレットペーパーが入れられていた。手洗いはすぐ外に古くから巡礼者の水飲み用の、今では骨董(こっとう)的価値のあるカランが並んでいて、新しい時代の要請に立派にこたえている。
|
|
|
|