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小説に吹き込まれる生命力 9年半前、日本財団というところで働くようになった時、まもなく私はひどいケチだという評判がたったはずだ。 私はダイレクトメールとして「特定の人たち」に送っていた日本財団についての月刊の雑誌を廃刊し、それで2億円以上の広報費を浮かせた。そのお金で週刊誌、月刊誌計50数誌に、月1回、3分の1ページの活版広告を買った。お蕎麦(そば)屋さんで、よくおじさんが1人で肘(ひじ)をついて蕎麦をすすりながら見ているような雑誌を、日本財団の広報のターゲットにしたのである。 私は事業案が出てくるとまず意図や構成を聞き、最後に必ず単価を尋ねた。講演会でもシンポジウムでも、予定出席人数で予算を割ると、1人あたりの経費がいくらになるのかを尋ねた。大物経営者ではなく、小人(しょうじん)の特徴である。 毎年、財団は「事業計画アウトライン」というリポートを作るが、その小冊子も実質本位で装飾は一切なし。1冊あたり「去年は62円で作れたのに。今年は何で76円もかかるのですか」という式の会話が出るほどのケチぶりである。でもそれ1冊で東京都の「ひまわりの会」がやっている既存宅老所の整備に12万円、和歌山県の精神障害者地域生活支援センター「一麦会」に建築費として3170万円を出していることなど、全国の全事業が詳細にわかるようになっている。 先ごろ経済産業省資源エネルギー庁がマニュアル1冊に40万円かけたという怠慢の対極にあるだろう。40万円のマニュアル製作に関係した人々には、金銭的に償いをさせてはいかが。 私は時々、こういう私の性格はどこから出ているのか、とおかしく思うことがあった。もっとも先代の会長も極度に質素で、いちいち単価を確認する点だけは私とそっくりだったというから、財団の社屋の隅々に、ケチという細菌が住み着いていて、私も感染したのかもしれない。 しかし実は、小説家の仕事が、こうした厳密な現実を踏まえて構成されるものなのである。 1人の主人公を描く時でも、私は彼がいくらの収入があって、どのような金の使い方をしているか、頭の中で自動的に抑えてある。もっと夢のない言い方をすれば、その人の家はどういうマンションでローンはいくらか、彼の妻はどんな人か、ワードローブや押し入れの中はどんなふうになっているか、いちいち書き留めはしなくても、わかっていて書くのである。そうした現実主義が底辺にないと、作品に生命力が出ない。もちろんそれは芸術の本質とは別のものではあるのだが…。 もっとも私の友人たちに言わせれば、わが家の家系にケチという名のDNAがあって、夫、息子、男の孫に着実に色濃く出ているという。夢のない話である。
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