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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 市民権得たディベート  
コラム名: 透明な歳月の光 152  
出版物名: 産経新聞  
出版社名: 産経新聞社  
発行日: 2005/03/25  
※この記事は、著者と産経新聞社の許諾を得て転載したものです。
産経新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど産経新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   耐えられぬあさましさ
 先日、あるテレビ局から、ディベートの番組に出てほしいという手紙をもらった。ていねいないい文章で、私はこういうプロデューサーの作る番組なら出たいと思ったのだが、何にせよディベート=人前で討論するということが私は嫌いなのである。この単語は、怠け者の学生時代に苦労して読んだ英文学の中でも出てきた記憶がない。
 私の持っている辞書には「(相手を打ち負かそうと公式の場で)討論する」ことだ、と条件がついている。ディベートは見せ物として相手をやっつけ、ディスカスは実質的に討議することで、そこが大きな違いなのかもしれない。
 私がディベートを嫌う理由は、今は亡き明治生まれの母が生きていたら、「人さまの前で、言い争いをするなんて、何てはしたない」と言うだろう、と思うからだ。自分の中で理由があることなら、静かに信念を通して譲らないことが私は好きだし、母も実はそういう人だった。しかし衆人環視の中で相手をやっつける趣味が私にはないのである。
 というか、私は反応というものがすべて遅いのだ。印刷物を読んでゆっくり考えることならできる。だからニュースはテレビだけで新聞は読まない、という人が信じられない。昔はとろい人のことを水銀灯と言った。しばらく時間がたたないと明るくならないからだ。
 思考は料理に似ている。濾(こ)し器にかけ、寝かせて味をしませるとおいしくなる。私は自分の脳みそを料理の手順と同じように使っている。
 だから、ある人の書いたものを読んで、反論を書くことはあるが、その場で言い負かすなどということはできないし、したくない。テレビやコンピューターの画面ではなく、印刷されたものをゆっくりと何度も読み直し、その文章の背後を考え、関係の書類が要るなら探し出して読み、という手順を踏む時、初めて少し自分らしい思考ができるかな、という感じだ。
 戦後の教育がディベートに市民権を与えた。誰でもが声を上げていいのだ、ということは当然だが、声を上げることはそれなりに勉強がいるとは教えなかった。わからないことには、黙る他はない。だから私には黙っているテーマがたくさんある。
 「即刻」とは対照的に「時間をかけて」という行為は一種の凡人の知恵である。イラクのテロも、イスラエルとパレスチナの闘争も、商売の値段の折り合いも、どうにかうまく収まるのは、双方が徹底して「くたびれた」時だろう。「すべてのものには時がある」のだ。
 ディベートは喧(やかま)しい。相手を抑えないと自分の発言の順番が廻ってこないようなテレビ番組がよくある。あの騒音とあさましさには耐えられない、などと言ったら泉下の母は私のことを笑うだろう。
 



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