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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 夕映えの飛行機雲  
コラム名: 私日記 第63回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2005/03  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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   2004年11月30日
 日本財団で賞与の評価委員会。執行理事会。それに続いて午前中予算の基本方針説明を聞く。これから来年にかけて50日くらいの間に何回かに分けて段階的に予算を聞くのである。各部の案件は、その都度、全部聞いているので、改まって聞かなくても、仕事の底流を流れる選択の思想は理解しているつもりだが、それでも私はたった9年の経験しかないのだから、わからない細部やもっと気になる奥の意味を解説してもらうのにはいい機会である。しかし正直に言って、楽しい仕事ではない。これを一生やり続ける男性は偉いと思う。私は期限つきだから耐えられる。終わりの見えていることなら、人間は平気なのである。
 午後アジアの知識人たちに、広い意味での隣国へ行って勉強する機会を与える「アジア・パブリック・インテレクチュアルズ」の日本での集会に出席するために福岡へ。「パブリック・インテレクチュアルズ」とは何と訳すのか、今もって私にはわからない。大体自らインテレクチュアルズと認める神経は作家にないから、わからなくて自然なのである。
 出席者はタイ、フィリピン、ベトナムなど4ヵ国のアジアの国々から28人。そこで30分の講演をする。こたつや伊勢神宮の話が出たので、その部分はスライドを使って補足したら、写真を用意してくれた人たちのおかげで、これは大変理解し易いと好評であった。

 12月1日
 早くも12月。月日が早いと感じる時は、人は幸せなのだ。少くとも病気をしていないということだ。
 午前中の便で福岡から帰宅。少し風邪気味だが、寝るほどではないのでぐずぐず家にいて、夜はカメラマンの熊瀬川紀氏と早稲田大学の吉村作治氏とエッセイストの田名部昭氏がうちに来られて、手料理で食事。この方たちとサハラ砂漠を縦断したのは、今からもう20年前になった。

 12月2日
 劇団四季の『コーラス・ライン』を見る。脚本は大人の芝居だが、時々出演者が甲高い声を張り上げて幼い演技をする時がある。私は何でも張り切るのが嫌いだから、こういう瞬間だけ聞いているのが辛くなる。しかしやはりいいお芝居だ。

 12月3日?6日
 少し家の中を片づける。連載が終ると、こうしてたちどころにものが片づいて、部屋の中の酸素が増えるような気がする。6日には同級生だった久保田喜美子さんが、娘さんの杉浦紫津子さんと昼ご飯を食べに来てくれた。2人共元気でほっとする。午後横浜まで知人のお見舞い。

 12月7日
 日本財団へ出勤。執行理事会。賞与支給で短い挨拶。電光掲示板原稿選定ミーティング。昼食の時間に毎日新聞出版局の阿部英規氏、『哀歌』の出版についての打ち合わせに見える。社員食堂でご飯を食べながら話をする。
 午後、講談社、若宮誠一氏。
 ボリビア大使、ホアキン・ダブドゥブ氏来訪。サンタ・クルスにおられた時、在住の倉橋神父さまに結婚式も子供さんの洗礼式もあげて頂いた由。世間は狭いのではなく、世界は狭い。私が働いている海外邦人宣教者活動援助後援会は、倉橋神父さまの親友の2人のイタリア人神父たちによって、アンデスの山から降りて来た貧しいインディオの子供たちのために、幼稚園から高校までの校舎を建てた。どこかで繋がっている関係というのは無理がなくていい。
 午後2時半から、警視庁で機関誌『自警』のために奥村万壽雄警視総監と対談。
 6時から、財団8階の食堂で、先日行ったアフリカ旅行のグループが反省会をやる由。少しも反省している気配は見えないけれど、アフリカヘ行くと、皆笑いが増え、必ず思考が一回り大きく複雑になって帰って来る。アフリカにお礼を言わなければならない。

 12月8日
 午前中、財団のホームページについての編集委員会。それが終ってすぐ、つくば市へ。フジモリ・アルベルト氏のお姉さま、ホアナさんがやっておられるレストラン『LIMA』で、フジモリ氏にもひさしぶりにお会いする。最近は油絵に凝っておられるといい、絵具で汚れた手でやって来られた。ホアナさんは、私が大好きな性格で、フジモリ氏がペルーの大統領時代には、大統領官邸の中で一生懸命、貧しい人たちに日本から贈られた古着を配る仕事などをしておられた。
 フジモリ氏が私の家に仮寓されていた時にホアナさんは、ペルーから訪ねてこられて、1日だけ熊本へ戸籍を取りに行かれた。その時、私は「蒲田駅まで(当時の)目蒲線で行かれて、それからタクシーにお乗りになったら」と言ったのだが、バスの乗り方を教わって、帰りも夜遅くバスで帰って来られた。
 石原慎太郎氏がうちで食事をしながらフジモリ氏と話された日には、ホアナさんは度々台所に立って、気配りをしてくださった。私はこうした飾らないお人柄にいつも深い魅力を感じる。

 12月9日
 来日中の陳勢子さんが、お孫さんの忠浩君と夕飯に来てくださった。忠浩君は、ボウリングの名人で、コンピューターの名手。偏食だというが礼儀正しく、野菜嫌いだと言うのに、人参やら牛蒡やらの入ったさつま揚げは食べるから大した偏食ではない。子供にはあまり気を遣い過ぎないことが肝要。

 12月10日
 日本オペレッタ協会の『ヴェニスの一夜』を見る。ヨハン・シュトラウス二世の作曲だが、ヴァルター・フェルゼンシュタインという人が1954年に全面的に改訂したのが、この作品だという。その脚本が一時消えていたのが一昨年見つかったらしい。改めて上田浩二、田辺秀樹両氏の訳で完成したというが、出来上がっている音楽に歌詞を付けるという作業は並々ならぬ苦労であることを私も知っている。
 フェルゼンシュタインはヴェニスが好きだったという。ヴェニスはイタリア語ではヴェネツィアだが、私も大好きな町だ。不純で人生の深みを知っている悪の匂いのかぐわしい町だからだ。
 終ってから中目黒のQ・E・Dクラブというところで、東チモール大統領、シャナナ・グスマン氏を囲む夕食会に出る。かなり遅れて到着されたのは、アメリカで急にブッシュ大統領と会われることになったので、飛行機が遅れたのだという。着いてすぐ朗らかな顔で人と会わなければならない。大統領などという職業は、とうてい普通の人間に勤まるものではない。東チモールが国家としてどのような生き方をめざすのか、かつて私が独立直前にディリで会った優秀な大学生は当時答えられなかった。今なら彼らは「何と答えるでしょう」と伺ってみたが、「私は大学を出ていないので」というだけでそれ以上の答えは得られなかった。
 白柳誠一枢機卿にもひさしぶりでお会いして、ぼそぼそと「その後のご報告」もできた。

 12月11日、12日
 家にいて整理という持病につき合う。何でもできるだけ捨てる。戸棚がばっさり空になると、たとえようもなくいい気持ち、という、何とも不思議な病である。

 12月13日
 財団で執行理事会、評議員会の後、新規採用応募者の面接試験。いつも思うのは、このごろの若者には羞恥、謙遜、若さを意識した健全な不安というものがなかなかない。あまり根拠のない自信に満ちている。「わかりません」「不勉強で考えたことがありませんでした」というような返事はほとんど聞いたことがない。私だったら全く答えられないようなむずかしいことを堂々と答えられるのだから、立派なものだ。しかし知識はあるが叡知がない、と言うべきか。
 夕方、英訳されている『天上の青』という私の作品についてのインタビュー。
 7時からは、このごろとみに腕ならぬ声をあげている六本木男性合唱団の例年の発表会。私が詩を受け持った三枝成彰氏作曲の『レクイエム』も歌われるので、出席。何より嬉しかったことが2つ。アサヒビール元社長でこの『レクイエム』の生みの親である樋ロ廣太郎氏が来てくださったこと。つまり三枝さんをけしかけ、私に歌詞を書かせた「張本人」である。病後でまだ少し発音はご不自由だが、「樋口さん、これから不良ジイサンにおなりくださって」と言うと、実にいいいたずらっ子のような目付きをなさった。
 もうお一人、元バチカン市国国際諸宗教事務局次長の尻枝正行神父さまも病院から来てくださった。初め自信がなくて行こうか止めようかずいぶん迷っておられたらしい。
 病院から「9時までには帰って来てください」と言われていたらしいが、私が「そんなの、ネグっちゃえばいいんですよ」といつもルール破りの犯人は私である。後で聞くと無事に帰られて、ずいぶん自信もつけられたらしい。
 春の「障害者の聖地巡礼」にも来てくださる気になっておられる。「あのグループには若くても怖いオバサンがいっぱいいますから、しっかり歩く練習をなさっておいてください」と脅かしておく。春の、イタリアのウンブリア地方やフランスのピレネーの麓のルルドを、神父さまのお供をして歩けるかと思うと、今から楽しみである。

 12月14日
 日本財団で理事会。夜は四川飯店で評議員会も合同の感謝の忘年会。

 12月15日?19日
 三戸浜で過ごす。新聞の連載小説が終った解放感がまだ続く。17日には『週刊ポスト』のインタビュー。
 蜜柑は大豊作。しかしタヌキだかハクビシンだかが毎夜、蜜柑を食い荒らす。

 12月20日
『毎日新聞』の連載でお世話になった方々と会食。とにかく生きて、大体予定通りの筋と回数で終ることができました、とお礼を申し上げる。新聞小説は、これでもう80パーセントの成功なのである。(こういうのを自画自賛という)

 12月21日
 日本財団で、会議とお客さま。
 4時から5時は新聞記者会見。沖ノ鳥島には来年、もう1度大潮の日を狙って船を出すことを報告。
 夜は自宅で海外邦人宣教者活動援助後援会の会議。食事は塩ジャケと豚汁とお漬け物。

 12月22日
 昼は国立劇場で歌舞伎。『勧進帳』を見ながら、この芝居がなぜいつ見ても新しいのか、と考えていた。これは今も世界のあちこちで続く命を賭けた国境脱出劇なのだ。だから息を詰めて見る。

 12月23日
 天皇陛下のお誕生日。三浦朱門と参内。緒方貞子さんや、ながらくご無沙汰していた方々に1度にお会いできた。
 両陛下、宮様方もお元気そうにおでまし。午餐会は、伝統的な日本食である。尾頭付きの鯛、大きな紅白のかまぼこ、羹など。ご飯は必ず二膳。この習慣には、初めびっくりした。多くて頂けなければ折りに入れて持ち帰る。私の母なども必ずお客さまにはご飯のお代わりを差し上げようとしたものだ。たっぷりと差し上げる、ことがごちそうの本質であることを「ダイエット」時代は忘れかけている。
 帰りに二重橋前には、次のグループ、外交団の車が何十台と停まっていた。お誕生祝いと言っても、私たちと違って天皇ご一家は何度も大勢の客をお受けになり、どんなにお疲れになろうとも、柔らかい笑顔を絶やさず、大変な任務をこなされるのだ。

 12月24日
『週刊ポスト』の編集部の方々と年末の夕食会。この日しかお互いに空いていなくて、こうなったのだが、クリスマス・イヴである。パパたちはケーキを持って家に帰って、子供たちと夕食をなさるべきだったのだろうに、と申しわけなく思う。

 12月25日
 朝、義姉のいるフランシスコ・ヴィラの早朝7時からのミサに出席。その後、食堂でいっしょに朝食を頂いて帰る。

 12月26日
 休み。あっというまにいろいろなものが片づき、手間の省けるようなシステムを作る。私の目下の情熱は「いかにして怠けて楽に暮らせるか」なのである。その合間に原稿書き。料理。淋巴マッサージ。
 今朝方、スマトラ沖でM8.9の地震。死者数千人という。この世の天国のような海岸だという宣伝を見て、私も行きたいと思いながらまだ行ったことのない土地だ。何というクリスマス休暇になったのだろう。

 12月27日
 スマトラ沖地震の死者は8700人に。まだまだ数は増えるだろう、と言う。
 午後、NHKで『世界潮流2005』という番組の録画撮り。

 12月28日
 旧約学者、中村青生氏夫妻来訪。
 夜、太郎(息子)夫婦、関西から来る。

 12月29日?2005年1月4日
 だらだら正月。
 暮れにすばらしいマッサージ機を買った。誰かが交互にその上に乗っている。少し風邪気味で、朱門は暇さえあればごろごろして本を読んでいる。しかしこれが最高の幸福なのだというから、外交官にも、政治家にもなれない性格である。
 何の計画もなく、孫が両親と過ごすことが必要なのだから、一切の計画なしで、暮れもお正月もなくいっしょにいることがいいと思う。ただ孫は自分の部屋でギリシア語の勉強をしていた。
 1月1日は朝、長年勤めてくれた藤野英嗣・千利子夫妻がブラジルに帰る日だったが、うちでお雑煮とお節を食べてから、成田空港に発った。
 私たちは家族としては、フランス料理とイラン料理に行った。イラン料理では太郎がぱらぱらの長粒米のバターライスをおいしがっていくらでも食べる。おかしな味覚の一家である。

 1月7日
 目黒の海上自衛隊幹部学校で講演。
 私の考えるイラクについて語る。日本の論調はどちらかに偏りたがる。日本の自衛隊が立派だということと、アメリカのイラク政策が間違いだったということとは、全く別のことだ、と私は考えている。
 1月末の選挙が、我々の考えるような民主的な結果になど、なるわけがない。せめて自衛隊は、選挙が行われた後、すぐ撤退すべきであった。引き際を決めることは進出を決めるよりむずかしい。

 1月10日
 資生堂の池田守男夫妻にお招ばれして出版倫理協議会議長の鈴木富夫氏と資生堂パーラーで会食。昔の銀座を知っているのは、三浦朱門くらいになった。
 昔、三浦が父親に連れられて資生堂パーラーに来ていたら(この父親というのは、『セルパン』という雑誌の編集者で、イタリア語の学者であった)、そこにまだ若い日の大宅壮一氏(大宅映子さんの父君)が入って来た。三浦の邪推によると大宅氏は高級なこの店ではお茶を飲まず、トイレだけ借りに立ち寄ったという感じだった。しかしそこに三浦親子がいるのを見ると、氏はつかつかと寄って来て、
「三浦君、もし吉屋信子(一世を風靡した有名な少女小説作家で、私なども夢中で読んだものである)と双葉山が結婚したら、どうだろう」
 と言い残すとすたすたと出て行ってしまわれた、と言う。大宅壮一氏の時代には、ほんとうに常識外れのスケールの大きい個性的な知識人がいたものだ。

 1月11日、12日
 出版関係の数人のお客さまがあっただけで、もっぱら予算の続きを聞く。気がつくと4時間近く、休憩もなく、立ちもせず椅子に坐りっぱなし。
 12日夜には劇団四季の『オペラ座の怪人』を見た。ふと気がついてみると、私は浅利慶太さんにいつも二通りの挨拶をしている。「今日はお招き頂いてありがとうございました」と「ありがとうございました。おめでとうございます」である。後者が自然に口をついて出る時には、私は今日のお芝居が大好きだったということだ。今日は「おめでとう」で、舞台装置がいい。私は舞台芸術というものは、すべて強烈にデモンストラティヴであるべきだ、と思っているので、今回のような表現が大好きなのである。しかし私は評論家ではないから、あくまで好きか嫌いかでしか言えない。

 1月13日、14日
 三戸浜。富士山が清冽に見える。風も穏やか。蜜柑は鈴なり。木の傍でもぎったキンカンの実を立ち食い。唇がひりひりする。
 夕方、落日の頃、空のあちこちで雲を引きながら音もなく飛んでいる飛行機の動きを長い間眺めた。空全体が向こう傷だらけという感じだった。

 1月15日
 帝国ホテルで日本民謡協会の新年会。朱門がこの協会の役員をしているので、私も着物で出かける。第1の目的は、着物姿の女性を一ヵ所でこんなに大勢見られる機会はあまりないので、それが楽しみなのである。
 この夏の民謡民舞世界大会を、マレーシアのクアラルンプールで開く予定について、近くの海でたくさんの方たちが亡くなっているのに歌ったり踊ったりはどうでしょう、という自粛ムードがあるという話を聞いたが、是非開催しておあげになるべきでしょう、と申しあげておいた。マレーシアの近隣諸国は、出稼ぎの人たちをも含めて、観光産業を失ったら他に大した産業がないのだから、それこそ妻や娘をセックス産業に出す他はなくなる。残ったレジャー施設にお金を落としてあげることが、1番まっとうですぐ結果の出る救援方法だと私は思っている。

 1月16日
 義姉、瑪里の誕生日なので、オレンジと黄金色のリーガルベゴニアの大鉢を届けてもらった。
 終日、近々出版される2冊の本の校正刷りに眼を通す。すると肩がこるので淋巴マッサージをしてもらう。するとお腹が空くので、夕食の時、新鮮な太い蓮根を厚く切って、さっと揚げて大根下ろしをつけて食べた。この頃蓮根ばかり料理している。

 1月17日
 毎日新聞出版局の阿部英規氏に、『哀歌』上下2巻分の校正刷りを戻す。すばらしい校正者で見落としている部分をよく洗い出してくださっている。感謝の他なし。                             (以下次号)
 



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