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著者: 笹川 陽平  
記事タイトル: マルタ共和国訪問  
コラム名: マルタ共和国訪問  
出版物名: 東北新生園入所者自治会  
出版社名: 東北新生園入所者自治会  
発行日: 2004/06  
※この記事は、著者と東北新生園入所者自治会の許諾を得て転載したものです。無断で複製、翻案、送信、頒布するなど東北新生園入所者自治会の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
 
   本年3月下旬、マルタ共和国を訪問する機会がありました。
 マルタ共和国は、イタリア半島最南端の先、シチリア島の、さらに先に浮かぶ人口40万人弱の島国です。地中海のほぼ中心に位置するところから、歴史上7000年にわたる各種民族の往来と、地中海、ヨーロッパ文明の盛衰の跡を残す国であり、3つの世界遺産を抱える大変興味深い国です。今日のマルタは、海上輸送の中継地点であり、金融のセンターである他に観光産業にも力を入れ、ヨーロッパの新しいリゾートとして注目を集めています。マルタ共和国の総面積は淡路島の3分の2ほどで、マルタ、ゴゾ、コミナの3つの島からなり、中でもマルタ島の東南部分は入り組んだ海岸線の形状から自然の要塞をなしており、古代から現代まで地中海および海洋文明に多くの足跡を残しています。1530年この地を与えられた聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)がこの地に強固な城塞都市を築きあげ、オスマントルコとの壮絶な攻防線を戦ったことは有名な史実です。マルタ騎士団は1789年ナポレオン軍に追われてこの地をさりますが、2年後ナポレオン軍はイギリス帝国に追われ、1800年から160年余り、マルタは英国の支配下に置かれました。2度の世界大戦を経て1964年独立を果たし、1974年マルタ共和国として英連邦の一員となるに至るのです。さらに、2004年にはEU加盟が予想されるなど、ヨーロッパの一国としての地位を固めつつあります。

 私は世界の国々を訪ねる時には、その国のハンセン病の状況を把握するよう心がけています。今回の訪問では、笹川記念保健協力財団の山口和子理事が同行し、一緒に視察いたしました。マルタは島国であり、地中海世界に極めて特異な歴史を残してきた国です。この国がハンセン病にどう対処してきたのかという歴史に対する関心がありました。同時に、今日、世界で広く展開しているMDT(複合化学療法)によるハンセン病制圧活動に先駆けて、マルタ型MDTとでも言うべき処方によって、ハンセン病を根絶したとされるこの国のハンセン病のその後の経過と現状にも関心がありました。
 マルタ島東南部で、古くから開かれた都市、スリーシティやヴァレッタ(現在の首都)を視察しながら印象に残ったことは、ヴァレッタの港の真ん中にあるマヌエル島に1643年に開設されたという検疫所でした。マヌエル島はヴァレッタの海岸からほんの40?50メートルしか離れておらず、今日では橋でつながっているので、それと気づかないうちに島に渡ることができます。島の東側には要塞が聳えており、その下の海岸線に沿っていくつかの柱がアーチでつながっている特徴ある建物があります。この建物が今から360年前に建てられた検疫のための施設‘ラザレット,であったのです。地中海の要衝であったマルタにはこの地を通過する船で運ばれる人、物、動物によって疫病がもたらされました。特に中世のヨーロッパは繰り返しペストのまん延にさらされたことはよく知られており、当時すでに聖ヨハネ騎士団の本拠地であったマルタが、本島から海を隔てた島に検疫所を設け自らをまもる体制を築いたのは当然のことでした。‘ラザレット,といっても、この場合はハンセン病患者のみの隔離施設であった訳ではありません。ラザレットは辞書をひくと、ハンセン病院、隔離病院という訳語に次いで検疫所という意味付けが与えられています。隔離による検疫の場は象徴的に‘ラザレット,と名づけられていたのです。

 この国の近年のハンセン病の歴史を見ると、200人を超える患者登録があった時期もあり、今日の世界保健機関(WHO)の制圧基準である‘人口10,000人あたり患者1人,と比較して、かなり高いまん延率であったことが分かります。マルタの医療の歴史には17?18世紀を通じてマルタにおけるハンセン病患者の報告が記録されていますが、19世紀の後半になって、多数のマルタ人が北アフリカから帰還したことと、1878年ロシア・トルコ戦争に関連して、当時の英国が6,000人に及ぶインド軍をマルタに駐在させたことが、マルタでのハンセン病のまん延に拍車をかけたとされています。これはまた世界の各地でハンセン病患者の増加が問題となりはじめていた時期と重なります。当時マルタを統治していた大英帝国は、他の英領諸国の場合と同様に、何らかの隔離と収容が必要と考え、1893年に規制の法令を公布し、隔離に適した施設の確保にのりだします。1899年に内陸部のイムギェレットにあった‘救貧施設一プア・ハウス,に隣接してまず男性の収容施設が開設され、1912年に女性用の施設が完成し、ここにマルタのハンセン病隔離の形が整います。1918年の統計では、ハンセン病患者は人口1万人あたり4・72人とありますから、現在の制圧基準の4・7倍の数値であったことになります。

 今回の私のマルタ滞在は1日だけでしたので、ハンセン病について知る機会は残念ながら極めて限られたものでした。幸いなことに、かつてこの国のハンセン病対策委員会のメンバーでもあったヴィクトル・グリフィス教授(マルタ大学医学部名誉教授?外科学)にお目にかかりましたので、先生の資料と記憶を辿りつつマルタのハンセン病について貴重なお話しを聞くことができました。
 上述したマルタ島内の隔離施設の他に、北に隣接するゴゾ島にも1937年に隔離施設が作られ、前者は後に聖バーソロミュウ病院に、後者は聖心病院と名称を変えて存続しました。しかしながら、この国では1940年以降のハンセン病治療薬の開発と世界の動向を反映して、すでに1953年には隔離を定めた法律を原則的に廃止しています。その後ハンセン病は外来治療が主流となり、いずれの隔離施設も1970年代には閉鎖されました。最初の隔離施設があった‘救貧施設,は、今でも聖ビンセント・デ・ポールと呼ばれる高齢者の介護施設となり、1,000人に近い高齢者が入所しています。同施設の敷地内にあったハンセン病隔離病棟はすでに撤去され跡形もないということです。

 外来治療に転じて数年後の1957年の統計は当時の人口314,369人に対して患者数152人で、決して少ない数ではありません。当時、治療薬はDDSのみで長期にわたる治療が必要とされていましたが、次第に各地で薬剤抵抗の例が報告され、専門家の間で新しい化学療法への模索が続けられていました。その1つの試みとしてマルタ方式のハンセン病根絶計画がありました。1972年、マルタ政府保健省の主導、マルタ騎士団とドイツ救らい協会、ドイツのボルステル研究所の支援で行われた根絶計画は、DDSにリファンピシン、イソニアジッド、プロチオナミドの3種の抗結核薬を組合せた「イソプロディアン一RMP」と名づけられた複合療法でした。当時マルタ保健省に登録されていた患者201人とその後診断された患者を含め、合計261人が6ヵ月から最高7年間、それぞれ個人の病状に応じて服用し、全員が治癒したというものです。この計画はその後27年間にわたり追跡調査され、1999年12月に終結しました。マルタ側でこの根絶計画の中心となったデパスクアーレ医師は前述したグリフィス教授の弟子の1人で、教授は私との会談に先立って、電話でその後の経過を確認してくれていました。それによると、今日マルタのハンセン病の記録に残っているのはほぼ100名前後、全て治療は完了した人々で、新しく発病した人は6年前の1人を最後に皆無である、ということでした。マルタのハンセン病は文字通り根絶された、と理解されています。
 登録に名前の残る100人が現在どのような状況で生活しているのか。最後の新患者となったのはどのような人で、現在どのような状況にあるのか、残念ながら確かめることは出来ませんでした。
 1974年にマルタ島の聖バーソロミュウ病院(ハンセン病院)とゴゾ島の隔離施設がそれぞれ閉鎖されたとき、帰るところのなかった22人は、タル・ファルハ・エステートと呼ばれる、マルタ島の内陸部にある陸軍の兵営地の中に移転し、この地にそれぞれの住居と耕作のできる土地のほか年金と医療へのアクセスを得て暮らしている、と聞いていました。事前に保健省に問い合わせても、マルタ騎士団のマルタ支部に照会しても、的確な返答を得ることが出来ませんでした。私のこの要望を聞いてグリフィス老教授は、すでに30年も経っているので、どのような状況かは分からないが、昔何度か訪れたことがあるので一緒に行ってみましょう、と快く同行を承諾して下さいました。私たちはタル・ファルハ・エステートをめざして、夕日に黄金色に輝くマルタ特有の街並みを後にしました。小さな街を通りぬけて20分近くも走ったでしょうか。タル・ファルハという道路標識を見つけました。それに従って進むと、曲がりくねった狭い道の両側に茶色の石垣とつづく一画に出ました。どこにも家屋らしきものは見えません。中は崩れた石や廃材の他は一面に生い茂った潅木と雑草に覆われています。ふと気がつくと、細い道のとある石垣の下段に、タル・ファルハ・エステートという文字が見えました。グリフィス老教授の記憶は正しかったのです。私たちは今まさに夕日が沈まんとするタル・ファルハの真ん中で、タル・ファルハ・エステートがもはや存在しないことを確認することになったのです。マルタのハンセン病の歴史は‘最終章,が書かれることなく、人々の記憶から忘れ去られて行くのでしょうか。ハンセン病の歴史を残すということの意義を改めて感じさせられた、急ぎ足のマルタ訪問でした。
 



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