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インド西部に位置するマハラシュトラ州。1億400万人が住み、国内で2番目に多くの人口を抱える州。その州都ムンバイ(ボンベイ)市の中心部から車で広大な農村地帯を抜け、さらに人里離れた道を1時間半ほど走るとパンベルという地方都市にたどり着く。この都市からさらに奥に入ったところに「シャンティバン・ネレ」という広大な土地に建つ施設がある。ここはかつてハンセン病の患者の収容施設と更正施設の役割をしていたが、現在はハンセン病の回復者やその家族だけでなく、山岳部族も含む住民のための総合的な地域社会開発活動の拠点となっている。現在もハンセン病患者を収容する病棟が存在するが、診療所は一般の患者も対象とし、医療関係の施設だけでなく、回復者や、障害者の社会復帰を助けるための職業訓練施設、農村開発の人材育成施設、部族の子供たちの小学校、小規模金融の窓口など様々である。また、職業訓練のほかにハンセン病についての教育、農業指導など様々なプログラムが行われている。施設で製造された鞄や靴、織物などは、製品としてその場で買えるだけでなく街でも販売され、回復者や障害者の収入として還元されている。ここで働いている人たちは、毎日仕事ができるという充実感に満ち溢れた顔で、私たちの訪問を歓迎してくれた。施設内では、患者や回復者に対する偏見は全く感じられない。私たちの訪問を回復者や部族の子どもたち280人が熱烈歓迎してくれるなど、住民と回復者が一緒に普通の生活をし、全体がひとつのコミュニティー(共同社会)を創造している。 マハラシュトラ州の人口密度は国内で最も高く、約36%が貧困層である。ムンバイ市の中心街を車で走ると物乞いをするハンセン病患者にしばしば会う。また、街中には幼い子どもを抱えながら、道端で生活している人の姿も多数見られる。市内にはアジア最大のスラムである「ダーラビー」があり、60万人の居住者がそこで生活をしている。ハンセン病対策については、州保健省をはじめとする行政機関、NGOなどが協力し、制圧活動を一般的な保健サービスに統合する体系づくりが確立されている。このような努力とMDT(多剤併用療法)の導入によって有病率は1981年の人ロ1万人あたり62.4人から現在2.75人にまで激減した。しかし、都市部に比べ地方では病院などのインフラ整備の遅れによりいまだに有病率が高いのが悩みである。
制圧の鍵を握る国、それがインド 私は11月11日から20日までインドを訪問した。特に有病率が高いと言われている北部7州のひとつであるウエストベンガル州の州都コルカタ(カルカッタ)市、インドの首都ニューデリー、西部マハラシュトラ州のナグプール市とムンバイ市を訪れ、各州のハンセン病施設を視察し、政府関係者との意見交換、担当者の現場の声などを聴く機会をもった。世界保健機関(WHO)ハンセン病制圧特別大使の私にとって昨年(2002年)12月から5回目のインド訪問である。インドは人口世界第2位の10億2000万人を有し、ヒンドゥー、イスラム、仏教などの宗教に加え、多くの民族、100以上の言語が存在する多様な社会を構築している国家である。この国の日本との関わりは古く、1952年に日印国交樹立以来、友好的な関係を維持、促進してきており、世界でも親日的な国のひとつである。このインド国内に世界のハンセン病患者の7割が存在している。人ロ1万人にハンセン病患者1人以下というWHOが設定した制圧を達成していない6カ国のうちのひとつで、2005年の制圧に向けて最大の鍵を握っている。またハンセン病最古の記述のひとつが見つかった国という歴史的にも深い関わりがある。 教育の普及の遅れや貧困などの影響、力ースト制度などの社会的、宗教的な要素も絡み、ハンセン病患者となることは、「前世の悪業への罰」などと思い込まれ、昔からこの病気に対する根強い偏見が存在してきた。そのため患者は社会から隔離され、体調に異変があってもすぐに病院に行くことができず、また「完治」しないという誤解と無知が病状を悪化させてきた経緯がこの国の患者の多さを物語る。
3つのメッセージを強く訴える 私は、このたびの訪問で、中央政府の保健大臣、州知事、州首相など、要人と面談する機会を得た。特に中央政府のスシュマ・スワラジュ保健大臣との面談はとても興味深いものになった。女性である保健大臣は若い頃にハンセン病のコロニーに毎日通い患者のお世話をしていた経験があり、ハンセン病であるがゆえに精神的、身体的な苦しみだけでなく、社会からも見放されている人を救いたいと思う気持ちは、保健大臣としての立場ではなく、人間として重要な問題と位置付けていると語った。私が、来年は毎月インドを訪れ、重点的にハンセン病制圧活動を行うことを伝えると、大臣は「次回はぜひご一緒にハンセン病の各施設を訪問しましょう」と誘って下さった。 私は、各国の要人などと面談をする際に必ず3つのメッセージを伝えるようにしている。それは、(1)ハンセン病は治る病気である(2)診断と治療は最寄りの保健所で受けられ、治療薬は無料(3)ハンセン病は恐れる必要のない病気であり、偏見・差別は全く不当である、という3点だ。多くの人々が病気に対する理解を深め、日常の習慣として皮膚の異常を注意して、早期に、自発的に診断を受けることが習慣となり、これらの3つのメッセージが当たり前となり、意味を失うまで繰り返し伝えることが大切であると考えている。また、エイズや結核などの対策は世間から注目され、国民にも受け入れられ易いが、ハンセン病は人類の歴史のなかで、最も古くから一般社会において偏見と差別を受けてきた病気であり、また治療が無料である世界で唯一の病気でもある。政府としても制圧に対して更なる努力が必要であり、国の指導者や保健大臣などが正面から取り組むことの重要性を訴えてきた。 期間中に、かねてから訪問を希望していたワルダー市にあるマハトマ・ガンジーのセワグラム・アシュラム(修道場)とムンバイ市にある当時生活していた住居を視察した。ガンジーは非暴力の抵抗を通して、イギリス統治から3億5000万人の民を解放した。富も地位もない1人の偉大なるインド人、ガンジーは生前「インドが生命の躍動を感じるなら、断じてハンセン病患者をこのまま放任状態にしておくべきではない」と語り、ハンセン病をなくすことが大きな願いであった。ガンジーが凶弾に倒れた1月30日(1948年)は、インドにおいて「ハンセン病を救う日」に定められ、ガンジーの精神を今に引き継ぐための催しものが行われている。ガンジーの偉業を改めて認識するとともに、その偉大なるガンジーが生前尽力されたハンセン病対策について、その遺志を少しでも成し遂げるために必ずハンセン病を制圧することを誓った。
人権問題としての制圧活動は始まったばかり 今年(2003年)8月にハンセン病史上初めて国連人権小委員会で患者、回復者、家族が直面する社会的差別の問題を世界に訴える機会を得た。歴史的な第一歩がスタートしたわけだが、私は今後も国連をはじめとする国際機関に対して、人類の負の遺産であるハンセン病の偏見に基づく差別を人権問題として取り上げるよう積極的に働きかけるつもりだ。私の友人で、ハンセン病患者・回復者を中心とした国際ネットワークであるアイデア(IDEA)のインド会長であるP・Kゴパール博士は「人類がハンセン病に対して勝利を収めたと言えるのは、回復者が一般の人々と変わらない生活ができるようになったときである」と語る。 長年の悲願であった病気としての「ハンセン病制圧」まであと一歩のところまできた。父でもあり日本財団の創始者でもある笹川良一が制圧活動に乗り出し30年以上が経ち、やっとひとつの目処がたってきたが、偏見に基づく差別を伴う「人権問題としての制圧」活動は、今始まったばかりである。今後も私はライフワークとして2つの制圧の実現に向けて全力で闘うつもりである。そのためにも日本の回復者の方のお力もお借りして、活動を広げていきたいと考えている。
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