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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 豊岡訪問記  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 2004/12  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   人生で予測がつかない、ということは、人間を悲しみや喜こびのどん底やらてっぺんやらに落したり持ち上げたりする。と同時に哲学的にも動物的にもする。
 今年の日本の秋はまさにそんな感じだった。
 10月20日に17日間のアフリカ旅行から帰って来た時、ヨーロッパの航空会社のスチュワードが、「今年の日本には台風が3つも来たそうですね。今また九州に近づいている」と言い、私は「3つっぽっちじゃないでしょう」と言ったが、2週間以上、日本のニュースの全く入らない土地にいたので、これが幾つ目の台風かわからなかった。
 ただ私の心にひびいたのは、私がアフリカで遊んでいる(本当はそうでもないのだが)間に、私の職場の日本財団では、「公益・ボランティア支援グループ」と呼ばれているチームがどれだけ「出動したか」ということだった。日本財団は極度に職員の数をおさえて、機構が肥大しないようにしている組織だから、動ける人数も、男性3人、女性2人、と決して多くはないのである。
 帰国後も私は、彼らの現場を訪ねる閑がなかった。帰ってくれば、公私共に仕事が溜っている。私は間接的に、彼らの「出動状況」を聞いて、「よくやっています」という報告を受けている外はなかった。
 しかし数日で私はやはり不安になった。28日には、呉の海上保安大学校に、日本財団がかなり大規模なシミュレーションセンターを寄贈した。これで出動し実弾を使わなくても、不審船などへの対応ができる。不審船にはまず当てないで警告の意味の威嚇射撃をする。正確に命中させない射撃には、正確に命中させる技術がい
る。そのシミュレーションセンターのオープニングヘ出席する途中に、兵庫県の豊岡なら行けそうだとあたりをつけた。豊岡は土砂災害で水浸しであった。堤防も決壊した。とにかく呉へ行く道で、1日早く家を出れば行けると計算した。
 しかしこういう予定の立て方もいやなものであった。「視察」というものは、むしろしない方がいいし、来てくれない方がいい。私は充分に現場の意向を聞いてもらうことにした。4、5時間行っても、じゃまになるだけだろうという気がするので、その場合は遠慮する、と現場に連絡した。すると、それで構わないから来てもらいたい、という返事が返って来た。
 豊岡へ行くには、大阪の伊丹空港で乗り換えて、JACという会社のプロペラ機で30分、コウノトリ但馬という空港で下りる。そこからタクシーで来て下さいという。但馬空港だけで充分で、何もコウノトリなどとつけることはない、と私は思った。小さな飛行機の乗客の3分の1はマスコミ、ほかに私と同じように最初から長靴をはいている人が1人いたが、彼は本ものの土木屋らしかった。
 空港にはタクシーが1台もなかった。空港には、必らず待ちタクシーがいるものと思っている私たちの常識はまずくつがえされた。大阪のテレビ局が既におさえてあるタクシーが1台だけいて、その運転手さんが親切に町から1台無線で呼んでくれたので、私たちは15分ほど後にやっと移動の脚を見つけることができた。私は明ら
かにマスコミと思われる1人に「お乗りになりますか?」と声をかけた。その人は毎日放送だと名のったが、やはりタクシーがなくて困っていたので、私たちは合乗りででかけた。その時知ったのだが、その日総理がヘリで豊岡に入ったので、警察もタクシーもそちらに人手を取られていた。
「普段はタクシーいるんですか?」
 私たちが尋ねると、
「普段もいないね、客もそんなに降りないからね」
 ということだった。奇妙な空港である。私のその日の訪問の目的地は豊岡市だけでなく出石町も含まれていた。豊岡は円山川が、出石町は出石川が、それぞれ10月20日の午後11時35分頃決壊したのだった。私が成田に着いた日の夜である。暗闇の中で、何が起きたかわからないままにどんなに不気味だったことだろう。私たちは出石町の橋のたもとで車を降りることになった。毎日放送の人にせめてここまでのタクシー代を払おうとしたが、どうしても受け取らなかったので、御礼を言って別れた。
 橋のところで、私たちは財団から既に救援活動に入っている2人に会った。手拭いで頭を包み、ポンチョを着て、汚れた勇姿という感じだった。

 川を渡ったところから、もう一般の車輌は入れない。元々狭いところへもって来て、道は壊れ、泥は押し寄せ、被災ゴミは山積みにされている。そのあたりから、数軒の家がそのまま傾いている光景が見えて来た。水田に建てたように見える家で、ボランティアたちが何とかして傾くのを止めようとしたが、状態は改善されず、そのうちに持ち主から「もうけっこうです。ほったらかして下さい」という意味の挨拶があったという。建物の周囲で立ち働く男たちの中の1人が、その家の主人だという。自分の家が床の間も押し入れもそのままの恰好で、ただつっ転ばしたように傾いている光景など想像したこともなかったろうし、その有様はその人の一生に悪夢のようについて廻るだろう。人間はただ理由もなく、運命の前に黙して立たねばならないこともあるのだ。
 日本財団がいわゆる民間のボランティアの間に入って働くようになったのは、1995年の阪神淡路大震災からである。2年後の1997年に、ナホトカ号の海難があり、福井県三国町の海岸では流出油災害を体験した。皆が砂浜や磯に集って、ヒシャクやスコップで黒い重油の塊を取り除いた。いわば2つの大きな、新らしい形の災害を通して、民間のボランティアの活動も、多くのノウハウを蓄積して行った。
 心根は美しいが、同情心に溢れた人々が何百人何千人と災害現場に入っても、その人々のマンパワーを、適当に適切な場所に振り分ける組織がなければ、好意が生きない。日本財団のボランティアは、ボランティアに来てくれる人々に有効に働いてもらう機能のために働くべきなのである。
 そうした組織のために働く有能な集団がすでにできているようであった。もちろん地元の市町村の役所や役場が働くのは当然である。その他に各地の社会福祉協議会が働くが、一番実力があるのは各地の青年会議所のメンバーのようであった。
 青年会議所というのは、私流に言うと、大小さまざまな規模の会社やお店の若旦那たちの集団である。彼らには2つの有利な特徴があった。第一にそれぞれの業種の内容に通じていること。第二にはいささかのお金が自由に使える身分であることだった。
 建設会社の若旦那なら、現場の特徴、物の調達方法を知っている。それとこれはいつも私が口にすることだが、被災地というものは全体的にであれ、部分的にであれ、停電しているものだ。社会はその瞬間から民主主義を一時停止して、族長支配の体系にすでに切り替っている。民主主義社会でこそ、人々はルールに従って平等に納税するが、部族社会はそうではない。族長が部族民を働かせもするが、生活も見てやるのである。だからこういう災害時には、財政面で、書類とハンコがなければ進まない役所や社協には、自由に、すぐ裁量で使える金がないから動きが取れない。その点、青年会議所の文化は族長支配的である。「しゃないな、これでも持ってけ」とハラマキの中から札をつかみ出して使うことのできる彼らの父祖の精神的文化の痕跡がまだ残っているから、労力も金も出すのである。
 日本財団には社長やお店の息子はあまりいないように見えるが、財団が会社とお店に代って理由のある金と物は即座に出せるような予算や準備ができている。地下の倉庫には、簡易組立式トイレも数百個おいてある。非常時には、心と金が要る。
 私は市役所前の広場に行った。ここがボランティアの受付センターである。一隅には寄贈された土砂運搬用の一輪車が数十台運ばれて来ていたり、泥まみれの長靴を洗う足洗いの設備などもあった。中央の大型テントで待っている二、三十人の人は、ここで住所氏名などの登録を済ませ、ボランティア保険に加入してその書類のできるのを10分程度待っている人たちである。
 それが終るといよいよ作業の持ち場が割当てられる。現場が使っている地図は2500分の1という精密なものだ。この地図になると、田中さんの納屋のすぐ隣に佐藤さんの家がくっついている、というようなことまでわかる。その家又は地区の被害状況は逐一報告されているから、そこではどんな作業??床下の泥出しか、家屋の引き倒しか、濡れたゴミを運び出す作業??かがわかる。集められたボランティアは、その作業に適した道具を与えられる。スコップ、バケツ、デッキブラシなどだ。そして10人近くが集ると、案内者がついて現場に行く。
 帰って来ると、作業内容の報告があり、消毒液でうがいをし、牛乳の紙箱をもらう。既にかなり手順が整っているように素人目には見える。その間にも、財団のボランティアは、あちこちの会社や団体と連絡を取って、必要なものをていねいに頼み、調達してもらえるという報告を受けると声に喜こびをこめて感謝の電話をかけてい
る。

 私は今度初めて、軽ダンプという小さな車を見た。昔ダムの現場では、お化けのように巨大な30トンダンプというのを見たが、ここでは2トン車でももう露地は狭くて入らない。軽ダンプの後捨てタイプは回転の場所がないと使いにくいから、左側の横捨てタイプの開発が必要だ。一般の土砂と違って被災ゴミは比重が軽いから、たくさん積める。今は荷台の両脇にまず畳やドアを立てて、雑運搬が一度にたくさん進むように財団の職員は指導している。しかし新らしい軽ダンプの側板が非常時には2倍の高さになれば積める量も違う。そこに非常用と書いておけば、普段の作業時に積載量をごまかすこともしないだろう。水を多く含む泥を運ぶ一輪車には、底に水抜きの穴を開けたものがいい。
 私は出石町立小坂小学校も見せてもらった。校舎も水につかり、体育館の床は一度は水によって浮き上りふやけて再び着地したので、今は何も被害がなかったように見えるが、壁の近くの床が坂になってしまっている。子供たちの教科書も流れてしまった、というが、私はあまり同情しなかった。戦争中の子供たちも教科書を焼いた。人生にはそれくらいのことはある。それより私が驚いたのは、先生方が低学年の子供たちが自分の名前を書いた戸棚に残して行ったものの泥を、学校の再開に備えてていねいに洗ってやっていることだった。子供たちはお客さま扱いで、きれいになった所へ帰って来る。それではこの災難をもろに受け止めて強くなることができない。子供たちはまず自分の私物の後始末をし、自然の力はどれほど大きいかを体験すべきだろう。最近の学校は教育の機会を、みすみすこういう形で捨てている。
 人生の問題の多くは、問題点が明瞭になれば、それで一歩前進したと見ていい。災害地ではさまざまの問題が改めて浮上している。
 ニュースに映った避難所では、食料が足りない、ということだった。しかし私が訪ねた頃には、問題は食料が余っていて、捨てることもある、ということだった。
 被災地の人々は、もちろん見ず知らずの他人の家の床下の泥を、黙々と排除してくれているボランティアに深く感謝している。しかし同時にいかなる親切な人でも、他人が介入する生活は疲労が伴うのである。だからボランティアという名のよそ者は、事件の直後では入る余地がないし、2週間経ってまだ片づけが終っていないような場合は、お互いが疲れているのだから、その時は「後はゆっくりおやりなさい」という感じで撤退するのがいいのだという。これも財団のベテランの、これまでのところの感想である。送るにも引き揚げるにも、微妙な、人間関係の潮時があるようだ。
 文字通り「非常時」になると、奇妙な偽ボランティアも出るという。三味線しょって草履をはき、避難所の体育館などに紛れ込んで給食をもらう。こうした偽者は災害地から災害地へと渡り歩いているという。
 私のように外側からしか物を見られない者には、又それなりに疑問が生じる。
 一たん地震を体験すると、もう怖くて建物の中で寝られない、という気持はよくわかる。しかし車に寝て、エコノミークラス症候群で死ぬほどの疲労が積み重っているなら、なぜ、学校の教室を開放してもらって寝ないのかと思う。「とにかく建物の中は怖いんです」という説明を受けたが、それなら体育館の中も同じような気がする。テント村の向うに無傷の(ように見える)鉄筋の建物が見えていて、それでテント生活は寒いとか、車の中で寝ると心筋梗塞になるとか言っているのを聞くと、私はどうも理解できないのである。もう1つの疑問は、日本人の生活には親戚というものの存在が消えたのだろうか、ということだ。昔はこういう時には、必らず少し離れた土地の親戚の家に避難させてもらったものだ。いくら親戚とは言っても長くいられたらかなわない。しかし仮設住宅ができるまでの間、「1ヶ月くらいの間なら六畳一間は空け渡すから」とか「よかったら納屋の一部をお使い」とか言ってくれる親戚は必らずいた。今の人たちの生活では、政府が親戚の代りを務める。

 被災者が、いくら故郷に近いとは言っても、豪雪地帯で冬を過すことにも無理がある。政府は恒久的な避難村を、千葉県や静岡県などの温い所に建てておいてもいいように思う。
 しかし私だけで他の人があまり感動していないことがあった。それはこれだけの大きな災害を、日本人は全部自力で復興しようとしていることだ。2、3日は不自由でも、必らず食料は届く。牛までヘリコプターで救出する。全国から土木、電気、水道などの技術者が集って、復興のために時間も労力も惜しまない。豊岡の泥につかった地域はまだ伝染病も出ていないが、クレゾールの匂いがふんぷんとしていた。こんな上質の国民でかためた国がどこにあるか、と私は思う。
 私はすべてのいいことも悪いことも、それを人生に組み込んで行くことが好きだ。テレビの画面には茫然自失している無気力な高齢者の姿ばかり映ったが、どこかには自分を失わなかったたくましい老人もいた筈だ。新潟中越地震で、泥の中に4日間もいて救出された2歳の皆川優太ちゃんのような子供のためにも、日本をもっと住みいい土地にしたいと、災害地では自然に思うのである。
                                                           (2004・11・6)
 



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