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以前から私は、大型のタンカーの業務を見たいと思っていた。私は昔、商船の組織の仕組みを勉強したことがあったが、小説を1つ書いただけでこの知識はその後眠っていた。 少し役に立ったかなと思ったのは、1995年に思いがけず日本財団に勤めるようになって、新聞記者にイジメられた時だった。 「ソノさんは船のことなどほとんど知らないと思いますが、そういう人が日本船舶振興会の会長になることは妥当だと思いますか」 「妥当だとも思いませんけれど、他になる方がなかったものですから。ただ、私は船のことを全く知らなくはないのです。多分あなたよりは知っていると思います」 こんなような会話もあったことを記憶している。 素人が、その分野を知っているかどうかということはまことに簡単に計れる。つまりその分野で知らないことを、当人がどれだけ意識しているか、また他の玄人の話を聞いてどれだけ素早く理解できるか、というだけのことなのである。比較的最近では再処理済みのプルトニウムをフランスから日本まで無寄港で運んだ「あかつき丸」をモデルにした航海を書いた小説『陸影を見ず』の取材をする時、久しぶりで知識が役に立った。 私が初めて乗った船は、戦標船と呼ばれるオンボロのレシプロ・エンジンの船で、つまりお釜で石炭を焚いて走っていたのである。その船は7ノットしか速度がでないので、煙突の煙が進行方向にたなびいていたのを思いだす。その後私は川崎汽船の「もんたな丸」や、アメリカのプレジデントラインの「プレジデント・ウィルソン号」や「クイーン・エリザベスニ世号」などの船旅も体験した。しかし私は着飾ってパーティーに出ることに恐怖を抱いていたので、客船の旅はあまり楽しくなかった。それでも船のことに関心を抱き続けて来たのは、1人の記録者として、この世界を書く必要がある時には、すぐに役立つ状態に自分をしておきたい、という思いがあったからのように思う。とすれば、最先端の状況をすぐ理解できる程度に、絶えず古い知識の錆び取りをしておくことも必要だと思っていたのである。 大型のタンカーに乗せてもらう機会は今までなかなか来なかった。その理由は、船会社に拒否されたのではなく、もっぱらアラブ社会の特殊性によるものだった。 私はそこそこ小説を書き続けていたので、日本から湾岸まで往復だと4、5週間かかる行程をゆっくり船に乗る時間がなかった。私は身勝手に片道だけ乗せてもらい、船が油を買う国で下船し、その足で飛行場に行って帰りの飛行機に乗ることを考えていた。しかしタンカーが湾岸のどこで油を取るかはなかなか簡単には決まらないことらしかった。ホルムズ海峡を廻ったあたりで原油の相場がわかると、安い所へ廻るのだ、という説明も受けたような気がする。するとタンカーが立ち寄るのは多くの場合サウジアラビアであった。 ほんとうは降りる土地は、クウェートでもバハレーンでもドバイでも、どこでもいいのだが、私はサウジだけは困るのであった。 当時(恐らく今も)、サウジは観光や取材など、いかなる理由でも、女性の入国を認めなかった。サウジで働く人の家族以外はヴィザが下りない。私が便乗を許された船がサウジで油を取ることになると、私は再びその船で日本まで帰るか、海上でヘリに乗り移るか、特殊な高速艇を雇って別の国に行くかということになるのだが、私はどうしてもおおげさなことは避けたかった。
たった1度だけ、必ずサウジ以外の国で油を入れるというタンカーがあって私は便乗を許され、会社にご挨拶にも行ったのだが、信じられないことに、その船はそれから1週間後に、日本に向かって航行中に外国に売られてしまった。 今度やっと私が便乗を許されたのは、商船三井の10万トンのLNG船、つまり液化天然ガスを運ぶ船である。 天然ガスは不純物を取り除いた後、マイナス161・5度まで温度を下げると、600分の1の体積になる。それをその温度のまま球形の「保冷庫」に入れて運ぶのである。そのLNG船のことを、「巨大な魔法瓶を乗せた船ですね」と言った人がいた、という。それは科学的な頭を持った人の言うことだ。私はLNG船のことを「ゴジラの卵船」と呼んでいた。およそ海上で見てこれほど船型に特徴のある船はないだろう。船の長さは297・5メートル。船橋の高さは海面から約45メートル。エレベーターでは12階建てである。問題のタンクは、直径ほぼ37メートル、1個の容量は2万7千立方メートル。そのような球形のタンクを5つ乗せている。だから船は巨大な卵を乗せて走っているように見えるのである。私は視覚型の人間だったのだ。
8月12日の11時過ぎに、私はシンガポールの港からランチで40分ほど走って島の南西の錨地に停泊中の「アルビダ号」に乗り込んだ。出港は翌日なのだが、その日のうちに乗るように言われたのである。 船に近づくと、2人の人が手すりに立って、日本財団の山田吉彦・海洋グループ長と商船三井の石部陽介さんと私の3人を迎えてくれている、と見えたが、それは実はよくできた案山子であった。海賊よけである。マラッカ・シンガポール海峡は有名な海賊海で、停泊中も、スマトラ島とマレー半島との間の狭阻な部分をぬけるまで、ずっと海賊防備の見張りが立つのである。 海は静かだが、ランチから舷門に乗り移って、16メートルの高さにあるボートデッキまで45段を一気に上ることになる。それもまあ何とか問題なくできた。私は高所恐怖症がないのである。 この船の乗組員は32人。船蔵和久船長ほか日本人のオフィサーは8人。三等航海士と三等機関士の2人のオフィサーと、甲板長、操舵長以下の部員は全員フィリピン人で22人である。昔は事務長とか、無線局の人たちが3人はいたと思うが、そうした役職は今はもうなくなった。 私が与えられた部屋は、Eデッキのオーナーズ・ルームという広い部屋である。窓は船尾を向いているので、私はほっとした。前方か、右舷左舷に向いていたら、窓から光が洩れるのを厳重に防がないと航行に差し支える。 この船は1998年の末に坂出の川崎重工業で竣工したものである。カタール・プロジェクトに属する10隻の日本船籍船の1隻で、2021年まで、毎年600万トンの液化天然ガスを電力3社とガス2社に供給する。とにかくカタールのラスラファンという積み込み港と日本のどこかの港の間を15日かけてひた走り、目的地に着くと24時間の間に積み荷(この場合は液化天然ガス)を積むか降ろすかして、翌日すぐ出港する、ということの繰り返しである。乗組員はカタールでも日本でも、上陸しない。ガスをタンクに注入している時が1番仕事が多く、危険の防止に神経を使う。 同行の山田さんが一等航海士の枝次さんに、 「外出着をお持ちですか?」 と聞いていたのはなかなか含蓄のある質問であった。 「持っていません。外出しませんから」 「制服のシャツは何枚お持ちですか?」 「2枚です。1枚洗って、1枚着て……」 厳しい生活が爽やかに語られている。2人ともおもしろそうに笑っていた。
私たち便乗組の3人は、出港した夜、すぐ海賊の見張りに立った。後方海面は強力な投光器で煌々と照らされ、高圧放水のためのホースは、ずっと水を出しっぱなしである。私は見張りの苦労を偲ぶために夜通しお付き合いするつもりだったが、間もなくやめた。そんなことがあっては大変だが、海賊の出ない見張りというものに は深い退屈という苦痛がある。エンジンは煩い。煙突の煤は降って来る。空気は思うさま湿気ている。どの入り口もがっちりと中から金属の板を複数のボルトで留めており、私たちも中に入る時にはさんざん階段を上がり下りして特定の入り口しか使えない。海賊は船の構造を知らないからもっと大変であろう。合わない仕事である。 遠くに稲妻が激しい夜であった。
私は旧式のワープロをシンガポールの家から船に持ち込んだ。新聞連載を抱えていると、書いた端から新聞社にファックスで送らねばならない。まだマラッカ海峡も出はずれないうちから、「申しわけございませんが」とファックスの送信を頼んだ。 船はインド洋上のインマルサット衛星の「守備範囲」にいた。しかし電話は通じない。「本当にインドは、衛星も怠け者で」と私は軽薄に悪口を言った。 「もしかすると太平洋上の衛星が受けるかもしれません」 やってみてもらったらすぐ通じた。なぜか「押してだめなら引いてみな」という言葉を思い出した。それと同時にインド洋上の衛星の悪口を言ったことを深く悔やんだ。 「あなたは美女です。もう悪口は言いません」 と私は謝った。衛星はほんとうに気まぐれな美女のような気がした。
船内の生活は折り目正しかった。航海中には朝8時の朝食の時、当直以外の人たちは顔を合わせる。作業をする時にはつなぎが用意されていたが、食堂に作業衣を着て来ることは禁じられていた。 食堂には2つの丸いテーブルが用意されており、真ん中に中華料理屋にあるようなくるくる廻る部分があり、そこに調味料から、梅干し、ふりかけなどあらゆる日本人好みの食品が置かれていた。調理関係は4人のフィリピン人がやっていたが、毎食ほとんど日本料理だった。フィリピン人の船員たちには、別に彼ら好みのメニュー が出されていた。 コック長は、お赤飯でも茶碗蒸しでもカツ丼でも何でも作る。手巻き寿司の日さえある。料理はフィリピンの船員養成学校でちゃんと習って来ているのでなかなかの味である。 日本人は、自分の好きな銘柄のタバコとビールをちゃんと無税で買って倉庫に保管している。もっともタバコは、談話室のような所でしか吸えない。自動車と同じシステムの焔の出ないライターがそこだけにある。危険物を積んでいるので(私は往路はタンク内は空かと思っていたが、カタールに着くまでにタンク内を予冷しておか ねばならないので、やはり危険なガスを一部積んでいるのである)やたらな場所ではタバコも吸えない。甲板を歩く時は、放電機能のある特殊な作業靴をはく。
インドネシアとマレーの言葉でプラウは島のことだ、と毎日海図を見続けているうちに私は推測するようになった。マレー半島とスマトラ島との間の、海賊海峡を抜けて、プラウ・ロンドと呼ばれる島を出はずれると、海は広いインド洋になる。「少し揺れるかもしれません」と予告された。 長さが300メートルに近い船にとっては縦揺れはほとんど問題にならない。しかし横揺れはけっこう体に感じる。ことにスリランカのドンドラ岬、インドの最南端コモリン岬を過ぎるとアラビア海に入り、船は北西に針路を変える。今はモンスーンの最後の時期で風が吹くから、この海域に入ると船は横波を受けてローリングを感じるようになる。
私は自分が酔うかどうか全くわからなかった。ローリングは大体12、3度で治まるが、部屋の中ではなかなかおもしろい体験をした。部屋の中を歩くだけで、坂を登ったり、突然、下り坂になったりするのである。それでも私は酔わない。三半規管がイカレテいる人も酔わないと聞いたので、私は多分そうに違いない、幸運だなあ、と思うことにした。結局瞬間的に20度までの記録がでたが、その時には力ーテンがザアザアいいながら勝手にレールの上を右往左往した。 私は全く知らなかったが、アラビア海の北部にオマーン湾があり、それからホルムズ海峡を通過して湾の中に入る。この湾を、私たちは「ペルシャ湾」と言ったり「ガルフ」と呼んだり「湾岸」という言葉を使ったりしている。しかし商船三井からもらった地図を見るとただ「ザ・ガルフ」としか書かれていない。政治的配慮もあるのかもしれない。私は紀元二世紀のアレキサンドリアを舞台にした短篇を書いていた頃を思い出した。当時の人々が地中海を何と言っていたか、その時調べようとしたのである。彼らはただ「海」と呼んでいたようである。「湾岸」も同じだ。 湾岸に入って、非常に印象的だったことは幾つかある。1つはオマーンの飛び地が1つの突出した岬になっていて、その部分の海峡が1番狭い。その辺りで、全く積み荷を積んでいない空の高速艇が5隻ずつ全速力でイランに向かって本船の前を横切ったことが2度ある。お急ぎの船客を乗せているのでもない。積み荷もない。そ れなのにそのまま競艇場にひっぱってきてもいいほどの高速艇である。ということは、帰りに積み荷の臨検を受けそうになると全速力で逃げられる船、ということだ。 もう1つは、はるか遠くの空に微かな春霞のようなものがかかり、その頃から巨大なタンクの上にアラビアの砂が飛んで来たことである。「近くに適当な雲があったら、ちょっとそっちへ行って雨で洗い流してもらうんですけどねえ」と当直の人が言う。 陸まで数10キロあるにもかかわらず、ハエとトンボも飛んで来た。彼らの飛行継続距離はどれだけあるのか。
湾岸の夜、船橋から広大なウィングに出ると、海はただ吠えに吠えていた。いつもそうなのかどうか私にはわからない。口笛のような音から、やや甲高い女性的な細い叫びや低い岬きまで、それは生きて轟く気配の大合唱だった。
11日目の早朝、いささかサマセット・モームの小説に登場しそうな熟練した水先案内人が乗り込み、船の下腹には強力な4杯のタグボートが取りついて押したり引いたりした。巨船は約1時間かかってラスラファンの人気のない岸壁で静かに停止した。 私はやっと地上波を捉えてシンガポールの家に携帯電話をかけた。 「今、ラスラファン。カンカン照り。サウナみたい。草木1本ない。その上排ガスを燃してせっせと暖房してます」 私は電話口で言った。人々は声もなく完全な係留のために働き、間もなくマイナス161・5度に冷やされたタンク内に液化天然ガスが入れられるのである。 ほんの16万人ほどしかいないカタール人は、その3倍以上も外国人の居住するカタールで、自分たちが純粋のカタール人であることを示すために、必ず純白の長着と白い被りものをつけている、という。 (2004・9・7)
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