|
2004年9月1日 今日から夏休みが終って仕事。この年になってまだ小学生のように「夏休みは終り」などとしみじみ思う暮らしをしている。 執行理事会の後、日本財団評議員会と理事会を昼食を挟んで行う。午後日本財団が招聰している中南米の日系留学生たちに会う。ブラジルから3人、ボリビアとパラグアイとコロンビアから1人ずつ。元々日本にいた日系人が2人。皆日本語も上手、医学その他の専門がはっきりしている。日本財団のお金をできるだけ日本で使えば、お金の洩れがなくて済む、というのがけちな私の考え方。 留学生には、「あなたたちは必ず祖国に戻って、あなたたちが日本で学んだものを役立ててください」と頼んだ。
9月2日〜6日 家で新聞連載を書き続け、約1月以上、夏に家を空けていた間の古新聞に目を通し、淋巴マッサージを再開。
9月7日 出勤日。電光掲示板原稿選定ミーティング。午後4時から商船三井に行き、鈴木邦雄会長にカタールまでアルビダ号に載せて頂いたことの御礼とご報告。 夜は海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)の会合。イエズス会の堀江神父さま(東チモール)、サレジオ会の倉橋神父さま(ボリビア)、シスター・入江(チャド)のお三方来てくださる。堀江神父さまからは東チモールの「熱帯基本農法」を学ぶ青年たちが使う作業所兼倉庫の建設のための5千ドル(約55万円)を認可。他にブルキナファソのシスター・黒田の農場の給水塔関係の整備に100万円など計715万円を決める。
9月8日〜10日 栃木県の板室温泉の大黒屋へ。何年ぶりかの温泉行き。電車で行こうと思っていたのに、朱門は車で行くという。途中で一休みしても4時間ほどで着く。私は那須の辺りをよく知らないのだが、空気がおいしくて日の光がさんさんと降り注いでいる。 板室温泉はいわゆる湯治場の面影を残しているので、団体客の騒がしさとは縁がなくて川音があたりを包む。9日には長いドライブをして途中ですっぽん料理を食べた。
9月11日〜13日 11日は、横浜の山手カトリック教会の講演会。12日は午後、劇団四季のミュージカル『南十字星』を観た。この人気劇団にケチをつけるとすれば、もう少し劇団員に、デブ、ブス、チビ、デカがいればいいということ。中肉中背の美人美男の俳優さんばかりだと、人生に厚みがでない。 13日は、横浜市立大学付属病院へ、知人のお見舞い。
9月14日 お客さま多数。イスラエル大使、エリ=エリアフ・コーヘン大使は、日本で柔道を教えておられるとのこと。どこへ行くにも護衛が厳しくてたまらない、とぼやいておられた。 午後、厚生年金会館でUIゼンセン同盟第3回定期大会セミナーで講演。 急いで日本財団に帰って、今年度のアフリカ視察のメンバーとの初顔合わせ。今年は、ブルキナファソ、南ア、ジンバブエ、マダガスカルの4ヶ国。毎年同じことだが、この旅行では危険が皆無ではないこと。ことにマラリアを防ぐことは誰にもできないこと。めいめいが肝臓に負担を掛けることを承知の上で予防薬を飲むか、飲まずに蚊に刺されずにやると心に決めるか、どちらかを自己責任で選ぶこと。氷もまた下痢の原因になるので、国を出たらオン・ザ・ロックとは18日間縁を切って頂くこと。とにかく僧院に入ったように禁欲的に生きて、過労を避けて自分を守ること、などを繰り返す。 費用を切り詰めているので、もちろん添乗員などつけない。荷物は隊員全員がポーターのように運ぶことも言い添える。 打ち合わせの後、今まで7回この旅行に加わった人たちの大同窓会。省庁とマスコミと財団と同じくらいの年頃の人たちが、100人近く「苦労と発見の旅」の貴重な体験を共有した。そのつながりが、この和やかな再会の現場の盛り上がりに感じられる。
9月15日〜20日 健康診断、お見舞い、なかなか顔を合わす機会のない孫との食事、淋巴マッサージ、連載の執筆。代り映えのしない毎日である。唯一のお客さまは、韓国の「プレーヤー」という会社からソン・ワンモ監督の一行が私の原作『天上の青』を映画化することで見えたこと。この作品は連続殺人を書いたもので、犯人は一審の判決を受けたまま控訴せず死刑を受けている。宅間守の事件が起きる33年も前のことである。
9月21日 夫の姉、私の妹夫妻、弁護士の友人、私たち夫婦と孫、で、青山で会食。夏の間ご無沙汰をしていたのでこの際一挙に……という感じである。孫は大学へ入ったら、偶然義弟の学生になったので、食事の後、先生と飲み直しに行った。
9月22日 日本財団へ。お客さま数人。午後2時半からアフリカ勉強会に半分出席したところで、朝日新聞の企画報道部の松本一弥氏来訪。
9月23日 9時、羽田発札幌へ。毎年行っている「身障者との巡礼友の会」で北海道へ。空港でたくさんの顔見知りと会って千歳に着いたらバスも用意されていた。 会合の前に、札幌大学の鷲田小彌太教授とお会いする。この先生にお酒が入ったら「儂は小彌太だ。小彌太は儂だ」と「泣くな小鳩よ」の節で歌ってもいいことになっている。そうでなければ、こういう大知性の前では皆が恐れ多いと感じているからマジメだ。 今日は教授が、私の本のまとめ方について出版社に知恵を貸してくださったその御礼を申し上げ、出版社と手順の打ち合わせをした。実は明日先生のすばらしい眺めのご自宅で、大園遊会をしてくださるはずで、私も当然出席のつもりだったのだが、三戸浜の家に故障が出たので明日急に行って見なければならなくなったので、お伺いできない。そのお詫びも申し上げねばならない。とにかくもう直ぐアフリカに発つので、すべてがぎりぎりの時間になっている。 そもそも新聞の連載を持ちながら、電話の通じにくいアフリカヘ行くこと自体が非常識なのだ。連載の担当者は紳士的だから黙っているが、内心「こんな時にアフリカなんか行くもんじゃないんだ」と思っているに違いないのである。 友の会には長崎からも来てくださった。ご主人を亡くされた方も、元気を出して参加された。スペインのサンチァーゴ・デ・コンポステラで車椅子ごと転倒した方も来てくださった。その時私は病院へ同行し、医師は明け方近くまでかかってCTスキャンを撮ってくれた。診察代は、すぺて無料だった。 1人、夜9時50分発の飛行機で帰京。
9月25日 ヴァチカンの尻枝正行神父さまが日本でご入院中と聞き、おかずを作って朱門とまず杏林大学病院へ。2日ほど前にご退院と受け付けの人が言うのでサレジオ会の修道院へ廻った。すると庭を付き添いの方と歩いておられる姿が見えたので嬉しくなり、しばらく応接間でお話しして帰った。 病状には波があるようで、さっきまではそんなによくなかったという。しかし来年ご一緒に巡礼に行きましょう、と言うと「ルルドヘはまだ行ったことがないから」と喜んでくださったので、「神父さま、来年までしっかり歩いてください。コワイ小母さんたちがたくさんいて情容赦なく歩かせますから」と脅しておいた。尻枝神父さまを旅にお連れするという目的ができたのは、夢のように嬉しい。
9月26日 テレビ朝日映像の撮影の方たちが、皇后陛下の古稀番組を撮りに来られた。
9月27日 旅行に備えて、破傷風の注射。担当医の先生は、「破傷風はどこにでもあるよ。大田区のここらへんにもある」と楽しそう。
9月28日 9時半、公益ボランティア案件説明。 10時過ぎ、文科省。 10時45分、ベトナム前国家副主席、グエン・ティ・ビン女史。 12時半から、日本財団の2階の「虎ノ門道場(DOJO)」で、日本財団が東京財団の援助で第二陣としてご招待したサマワからの女性教師4人と、バグダッドからの教師と政治家のお2人がパネル・ディスカッションを開いた。私は一行にここで初対面。聞きに来られたお客さまに6人のご紹介をして、すぐに国土交通省へ。新任の北側一雄大臣に、独立行政法人・特殊法人などの責任者が急遽呼び集められてご挨拶する会に出るためである。 集合場所に行くと、挨拶の順序を示された紙の通りに廊下に並ぶ。これを「待つの廊下」というのだそうだ。日本財団は特殊法人の部に入れられていて、奄美群島振興開発基金理事長の後、軽自動車検査協会理事長の前である。50人あまりのご挨拶組の中で女は私1人。お顔見知りが「なあに待ちませんよ。1人5秒ですから」と教えてくださるし、「日本財団は国からお金もらってないんだから、こんなところへ来ることはないのに」とおっしゃる方もあって和気あいあい。 私は大臣に私の本をお祝いに持って来た。『アメリカの論理・イラクの論理』という本である。礼儀として封筒に入れていたのだが、新任ご挨拶で札束渡したと誤解されると困ると思い、わざとむき出しにして、名前を名乗ってお辞儀をしたのち、おつきの方たちの傍の机の上に置いて来た。小説家は全く非常識で困る、と誰かは思っているだろう。 急いで財団に帰り、ジンバブエ大使、スチュアート・ハロルド・コンバーバッハ大使をお迎えする。直前に国際部から「至急、お耳に入れておきたいことがあります」と言われた。ジンバブエ本国の観光省から、ジャーナリスト1人に、600ドルずつ取材費を払うように請求して来ているという。
私は大使にそのことを告げて「それはあまりにもむちゃでしょう。私たちは、新聞は合計で数百万部、ラジオも数千所帯、テレビも日本をローカル局で結んでいて、途方もつかない大きな影響力を持ったグループです。その人たちからお金を取るとは何事ですか。そんなやり方は数十年前のアフリカか中国みたいです」と言ったが、表面はおだやかな空気だった。 しかし会見が終って急いで家に帰り、6人のイラクからのお客さまに家庭の夕食をお出しするために、お料理の最後の点検をする頃から、私は次第にジンバブエ行きを取り止めたい、と思うようになった。こういう金は、大統領か観光大臣かが自分のポケットマネーとして取り込むだけだからである。 イラクからのお客さまは6時半に着かれたが、私は前回のひそみに倣って、すぐに浴室にお通しし、隣にたった一間ある和室に白布を敷いて置いたので「そこで礼拝をなさいますね」と言うと、長着にヴェール姿のサマワからの4人はすぐその通りなさったが、バグダッド組の2人は、ヴェールもかぶらず、ファッショナブルな洋服で礼拝にも加わらない。「保守的な人たちと私たちは別よ」と言っているようで水と油である。 前回の体験では、海老も貝も一切食べない方たちだったので、私は意欲を失い、今度はスパゲッティ・トマトソースとサラダと揚げジャガイモ。それにハラルと呼ぱれる食物規定を守ったトルコ料理屋の焼き肉など、無難なものしか用意しなかった。 しかしイラクの女性政治家とお隣になった夫はもともとイタズラ好きだから、日本人の雲丹だの、タラコだの、いかの塩辛だのの好みに対する話をすると、「是非食べてみたい」と言われたのをいいことに、私の見えないところで、自分から冷蔵庫の中のこうした肴類の瓶詰めを数瓶持ち出し、総て試食させたのだそうで、隣のテーブルは真正イスラム教徒からみたら、百鬼夜行のありさまになったわけだ。 とにかく私がわかったのは、バグダッドとサマワは全く違う国のごとく、人々の生活態度が違うということであった。 しかしうちはお2人の自衛隊員も加えて10人近くのお客さまで、てんやわんや。我が家の前にバスのお迎えが来たのもこれで2回目であった。
9月29日 一晩寝ても、ジンバブエ行きを止める方向に心が動いているので、同行の的場順三日本財団理事にも了解を求め、南アの知人にも中止のファックスを打った。誰もが、中止に大賛成であるのに、むしろびっくりした。直ぐに飛行便のキャンセルをして(何しろ22人分である)、やっと南アにもう1日、マダガスカルに2日余計にいることにスケジュールを再編成した。 心はそんなことでどたばた。体は1日、旅の支度でくたくた。蚊取り線香、懐中電灯、ゴム草履(私はビーチサンダルと言うのが嫌いだ)、水のゴム栓、手桶(これがアフリカでは威力を発揮することがある)、殺菌お手拭き(大学で教えている息子はこれを「ティッシュ・ぺーパー症候群」と呼んでばかにする)、電池、歯磨き、石鹸、シャンプー、シャワー・キャップ、食器一式、味の素の小瓶、醤油の小瓶、切り干し大根とすしの粉(これで即席ハリハリ漬けを作る)、荷造り用紐、鋏……その他、南極越冬隊とはいかないまでも、ミニ遠征隊くらいのものは用意しなければならない。もっとも日本財団の隊員は、自動車の牽引用ロープ、アメリカン・スコップ、シスター方から頼まれた薬などを用意しているのだから、大変なのは私の比ではない。 とにかく日刊、週刊、隔週刊、月刊などの連載を或る程度書き溜める必要もある。
9月30日 午後早々に家を出て、代官山ヘソニーの盛田昭夫氏を偲ぶ写真展が開かれているのを拝見に立ち寄った。私はほとんどパーティーというところに出ないのだが、たくさんの方のお顔を写真の中に発見して懐かしくなった。殊に嬉しかったのは村上元三夫妻の素晴らしい姿を見つけたことである。村上夫人の和服姿は粋筋の方のようだが、彼女は聖心女子大学で私の1年上級生、堅気の家庭に育った。それなのに、こんなにものぎれいに着物を着る。元3先生からみたら、うんと若い恋女房だったのに、先生より早く亡くなられて約束違反だろう、今はどうしておられるかと思うと、少し涙が出た。 盛田夫人の良子さんとお喋りして、「来年後半には遊びますからね」と約束した。 今日は日本財団の創立記念日。 3時半からまず社会貢献支援財団の今年の日本財団賞受賞者を発表する記者会見。その後、日本財団の記者会見に移り、その後にイラクの女性たちの記者会見があった。短い滞在なのに、マスコミの面前に引き出される時間が多過ぎて気の毒である。
夜はドイツ大使館で、上智大学のクラウス・ルーメル神父の米寿のお祝いが行われた。88歳まで日本に生涯を捧げられた神父には、もう故郷には近い血の繋がりのある方もおられないだろう。まるで父か祖父の米寿を祝って上げているようなドイツ大使夫妻の優しさが身にしみた一夜だった。この祝賀の宴のために、今日1日、私は和服を着ていた。
10月1日、2日 まだ入れ残した荷物と書き残した原稿で戦争のような心理。その間に淋巴マッサージ。やっと体を少し休める。身欠き鰊を買っておいたのにとうとう煮なかった、と悔やむ。
10月3日 アフリカヘ出立の朝。また朱門が成田まで迎えの車で送るという。この人はこういう「ちょっとイヤがらせをする趣味」なのである。女房がいないと困るのではない。料理はボクの方がうまいと豪語している。きっと喧しいのが1人いなくなるのが嬉しくてたまらないのだろう。 総勢22人は次のようなメンバーである。(敬称略)
藤巻浩之 国土交通省河川局 小林正朝 海上保安庁福岡海上保安部 荒木規仁 厚生労働省健康局 日下英司 防衛庁運用局 吉永康朗 毎日新聞編集制作総センター 古澤記代子 産経新聞編集局 原田一樹 TAC(TBS系列に流しているラジオ製作会社) 鈴木 浩 暮らしの映像社 木村博美 フリー・ライター 的場順三 日本財団(理事) 鈴木富夫 出版倫理協議会(議長) 秋山昌廣 シップ・アンド・オーシャン財団(会長) ムウェテ・ムルアカ アドバイザー・通訳 熊瀬川紀 カメラマン
財団からは、私を含めて7人。途中、遅れて南アから参加の安倍昭恵さんは、安倍晋三幹事長代理の夫人で、私費で来られる。 私は飛行機のなかで、ボブ・ウッドワードの『攻撃計画ブッシュのイラク戦争』を読み続けた。最近にないおもしろい本である。ボブ・ウッドワードは『ワシントン・ポスト』の記者で、ウォーターゲート事件をスクープした。ブッシュ、チェイニー、ラムズフェルド、ライス、パウエル、フランクスなどに綿密で冷静なインタビューをしている。 人間のやることだから、どうしてもどこかに比重が不当にかかっているだろう。しかしこの中には公的に記録されたものも多い。私はこの時期に、自分はイラク問題をどう見ていたか、と思いながら読んでいる。 その中で、NSA(国家安全保障局)長官のマイケル・V・ヘイドンという人物のことも気にかかる。彼が「暗い世界観を持っている」ということ。若い頃カトリックの教育を受けたということ。「正義の戦い」の概念がどうトマス・アクイナスやアウグスティヌスと結びつけられたか、私には不明にしてわからない。原文を見なければ、と思う。 夕方無事パリ着。無味乾燥な乗り継ぎ客用のホテルに入ったが、私はいつもパンだけはおいしいと感じる幸福人間である。(以下次号)
|
|
|
|