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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: イラクからのお客さま  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 2004/06/18  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   イラクの自衛隊を外部から援助することが可能なのかどうかよくわからないが、およそアメリカの主張する民主主義や解放など信じてもいないイラクの人たちに、自衛隊を送った日本の実像を知ってもらうことは悪くはないだろう、と私は考えて、早くから一つの希望を出していた。それはサマワかその付近の小学校で、女子生徒を教える女性の先生たちを日本に招待することであった。
 それには実はたくさんの難関が待ち受けていた。イスラム社会には、女性だけで外国を旅行する習慣がないから一どうしたら彼女たちを社会的合意をとりつけた上で国外に出せるかわからない。さらに最近の混乱の結果パスポートを持っているか、ヴィザをどこで出したらいいか、などの問題がある。
 しかしたまたま日本財団の姉妹財団である東京財団が、サマワから宗教指導者二人と医療関係者三人を招待することになった。その中の若い医師アリ・ターリブさんの母、アフタカール・フワイリさんは小学校で国語(アラビア語)を教える先生だという。それならばアフタカールさんに同僚の女性の先生を同伴してもらったらどうだろう、ということになり、東京財団の佐々木良明氏が打ち合わせにサマワを来訪する時に、女性教師招聰計画も同時に進めてもらうことになった。
 この女性教師招聰計画は、次のような私の考えから出たものであった。おそらくイラクに住む人々は日本のことなど何も知らない。一方こちらはイラクの電気事情(つまりテレビの普及度や停電の頻度)も正確に把握していないし、イラクのマスコミなどというものも、日本的センスではないに等しいだろう。
 しかしどの国でも女性の力というものは絶大である。イラクではおそらく女性部屋というものがあって、家族でもない男性は、よその女性の部屋には入れないだろうけれど、女性部屋のお喋りというものは、まともなマスコミよりもっと強大な伝播力で伝わるものである。女性たちが日本に来れば、彼女たちはその体験を喋りまくり、それを聞いた男も女もまたしゃべくりまくり(だんだん表現が下品になるが)、かくして日本体験はあの恐ろしいサーズ以上の伝播力で広まるであろう、と私は見たのである。

 東京財団でこの企画のために働いてくださった人たちへの感謝はこの際省略することにして、とにかく宗教指導者二人、医療関係者三人、女性教師二人のグループは、5月24日、無事に日本に着いたのである。もっともその時、私はまだミャンマーでの調査旅行から帰っていなかった。
 普通レディース・プログラムといえば、夫たちが国際会議などしている間に、同伴の夫人たちに見学や観光をしてもらうことである。しかしこのサマワの女性教師たちには、最初からきっちりと別の勉強をしてもらってお帰しするつもりであった。つまり、日本の社会のあらゆる場面で、女性が男性と互角に働き、自由に付き合い、民主主義、男女平等などを具現していることをつぶさに自分の眼で見て帰ってもらいたいということであった。
 私は現実的なスケジュールを東京財団の佐々木良明氏と計画した。佐々木氏は日本では珍らしいイスラム教徒で、リビア留学組である。食事や習慣など私は教えてもらうことばかりだった。
 東京財団全体としてのスケジュールを優先した後で、小学校と大学の訪問、宝塚観劇、海上保安庁巡視艇の女性船長訪問、建築現場の女性の重機オペレーター取材、浅草見物、私の自宅での食事会、広島訪問などすんなり決まった上に、さらにもう一つ満場一致ならぬ二者一致で決まったことがあった。それは伊勢神宮参拝である。

 私はその時佐々木氏と笑った。「何てことでしょう。あなたはイスラム教徒、私はカトリック、なのに、二人共伊勢神宮なんですからね」
 つまり日本人の心の故郷というわけである。私がミャンマーから帰国した翌朝、サマワからの女性二人は東京港に停泊する巡視艇「まつなみ」を訪問し、女性の船長に迎えられて港内を一巡する短い航海を体験した。この船は天皇陛下のお召し艇でもあり、国賓などが乗られる船だが、その船長が女性なのである。さらに感動的だったのは、それがこの二人が人生で海を見た最初だったということである。
 26日の正午少し前、私は、サマワからのお客さま、アフタカールさんとナディアさんの二人に日本財団で初めて会った。アフタカールさんは50代、ナディアさんは20代の終わりである。

 私たちはそれからすぐに上智大学に向かった。学長のウィリアム・カリー神父は、事前に私が訪問のお願いをした時「それならうちで食事をなさい」と言って下さったので、私は喜んですぐにご厚意を受けることにしたのである。カリー学長はアメリカ人だというから、私はそのご招待に、深い意味を感じた。私としてもさまざまなアメリカ人がいることを彼女たちに知らせたかったのである。
 私は今までに何度も修道院(男女にかかわらず)という所で食事を頂いたことがある。レフェクトリーと呼ばれる食堂には大勢のコミニュティのメンバーがおられて、私たちは誰でも親戚が来たように自然に温かく受け入れられるのが普通だった。しかし上智のイエズス会という修道会は男子修道会である。数十人の男性の中に、急に男性とは同席しない習慣の女性二人を連れて行ったらどうなるだろう。その上イスラム教徒たちにはハラルと呼ばれる食物規制がある。つまり豚は食べない。牛、鶏、羊などの肉もイスラム教のお坊さまが祈られた後、頸動脈を一挙に切って、完全に血抜きをしたものでなければ口にしない。
 この食物規制は、一神教としては一番古いユダヤ教に実によく似ている。ユダヤ人はエビ、カニ、タコ、イヵ、豚を食べない。彼らはハラルの元となったと思われるコーシャーと呼ばれる宗教上の規則に則って屠った血抜きの肉しか口にしない。つまり日本人の言う「血の滴るステーキ」は食べないのである。
 佐々木氏によると、イカ、タコは食べないけれど、エビ、カニはいいはずだというので、我が家の食事会の献立は、その範囲で考えることにした。
 上智に着くと、この女性客たちはまず正午の祈りをしたいと言い出した。手と足を洗い、どちらがメッカのある西の方角かを聞いた。宗教的行事はすべてに優先するから、私たちは客間の一室をお借りして、彼女たちの祈りを待った。それから上智でもきっとかなり考えられた上でご用意頂いたと思われる昼食をご馳走になった。
 上智大学では、昼休みでたくさんの学生を見た。ミニスカートの短さが眼を覆うほどの学生もいる。学生たちは、長衣にスカーフをつけた二人のイラク人などにはあまり注意を払わない。英会話のクラブ活動では連絡事項を指示する時に日本語を使っている。それも英語ですればいいのに、と私は思った。私の母校聖心では、学生自治会の議事はすべて英語だった。

 それから私たちは浅草の仲見世を歩いた。途中で串団子と焼きたての人形焼きを買って食べながら歩いた。二人は甘いものが大好きのようであった。ほっと安心したのは、お寺に入ってから、どうやって仏さまを拝むのかと尋ねられた時だった。偶像崇拝を禁止し、アッラー以外には決して頭を下げないというのがイスラム教徒だと思っていたからである。
 浅草の後で、私たちは月島の前田建設工業が建築中の高層ビルの現場に行った。そこに鉄骨をつり上げるクレーンのオペレーターの名手の女性がおられた。男ばかりの中で働いているその方は小柄な女性だったそうで、同行者もびっくりしていた。アフタカールさんとナディアさんが保安帽をかぶってはしゃいでいるのを見てから、私は安心して一足先に自宅に帰った。何しろ夕食会の準備をしなければならなかったからである。
 その夜の食事には、二人の男性がいた。東京財団の佐々木氏と、夫の三浦朱門である。私は少しは日本の文化を押しつけることにした。日本では自宅に客を呼ぶ場合には、夫も必ず同席する。アラビア語のできる佐々木氏は解説者として必要、と言い張ったのである。しかし初め二人の男性は、いつもイタズラをする困り者の小学校の男の子みたいに、テーブルの端っこの席に「まとめて坐らせて」おいた。
 ところが次第に話が佳境に入ると、佐々木氏の語学がどうしても必要になる。アフタカールさんもナディアさんも自然に身を乗り出して、佐々木氏と会話をする。
 食事でおかしかったのは、やはり貝類はどうしても上がらないので、私が急遽おろしたての本場のパルマのチーズを添えたスパゲッティ・トマトソースと、うちの畑で採れたばかりの新じゃがいものフライに新鮮な庭のパセリをまぶしたものを用意したことだった。私は一応、お口取りからお茶碗蒸など、お出しする料理の順序を決めておいたのだが、この二つは、どこに挟み込んだらいいかわからない代物である。どうでもいいや、できた時にドーンと出そうということで折り目正しい(?)順序も無茶苦茶になったが、結果としては、これが一番評判がよかった。
 一般にアラブ人は、たとえ海の傍に住んでいようと、基本的に放牧民(牧畜民)の文化の中にいるから、毎日毎食、同じものを食べることが普通なのである。イラクのお隣のイランでもシリアでも、とにかく毎日毎食、ケバブ(焼き肉)にバターライスだった。ホテルの食堂だろうが、一流レストランだろうが同じだ。だから私はひそかにお醤油の小瓶をハンドバッグに忍ばせて焼き肉に振りかけ、瞬時に日本料理化することを試みた。欲しがる同行者には,二振り100円」で分けることも考えた。
 しかしお菓子と果物は、何でも好評である。イラクでは男がコーヒー、女が紅茶と決まっているそうで、それに大ぶりのスプーンで三ばいは砂糖を入れる。日本のペットシュガーの一包みはどうしてあんなに少ないのだ、と言われて、私はまことに賛成であった。

 翌日が伊勢神宮である。私は佐々木氏に「男性たちといっしょでよろしいの?」と心配していた。すると宗教指導者もいっしょだし、私を含めた女性グループは男性たちの五メートル後方を歩いたらいいと聞いて、私はすっかり安心してしまった。私の娘時代は、まだ女性は男性の後を歩くという教育を受けていたから、馴れたものである。
 イラクの男性も、決して女性と握手などというみだらなことはしない。胸に手を当ててお辞儀をする。私たちも日本式お辞儀でいい。イランでは男性は女性の顔も正視しない、と言われた経験もある。
 私が伊勢神宮まで同行したのは、イラクの方たちの参拝の状況を心配したからであった。もちろん「見物」しかしない日本人もいないではないだろうけれど、失礼があってはいけない。その場合せめて事情をお話して寛大なお許しを頂くためであった。
 日本財団からは森田文憲理事に同行をお願いした。森田氏のお祖父さまは神宮皇学館の館長をしておられたし、氏
自身も神主である。イラクからのお客に何か失礼があったら、伊勢神宮さまに森田氏からもお口添えを頂こうという心づもりもあった。
 お神楽を奉納する時、私たちもこちら側に陪席させて頂くわけだが、イラクからのお客たちはまずその静謐と荘厳にうたれたようだった。外宮の拝殿の前では私は森田氏に改めて囁いた。「森田さん、改めて正しい参拝の仕方を見せてくださいますか」
 私自身、何度も日本財団で神事に列席したが、礼の仕方も柏手のうち方も何年経ってもさまにならなかった。森田氏がまずきれいな作法で拝礼され、私はその数歩後でハンドバッグを地面において、見習って拝礼した。その後でちらと横を見ると、イスラムの数珠を手にしたアリー・アルマイーリ師が、静かに我々と同じような仕方で頭を下げておられた。
 私はこの時ほど驚いたことはない。このような自然ななりゆきになったのは、伊勢神宮の方々の寛大によるものである。柔らかく許し受け入れるという、人問に共通した美徳が、言葉は通じなくても砂漠に生れた人々の心の扉を大きく開いたとしか思えなかっ

 五十鈴川のほとりで、手を洗った時も感動的だった。ユーフラテス川はあの辺では珍しい大河だが、とてもこんな澄んだ豊かな水量はないだろう。五十鈴川の中には点々と「トレビの泉」風に10円玉や1円玉が投げ入れられている。いやだなあ、と私は顔をしかめた。しかしイラク・グループは、ゆったりとした態度で手や顔を私たちよりももっと馴れた様子で洗っていた。いかにもこんな清潔で豊富な水に触れられることを楽しんでいるようだった。そしてふと気がついてみると、イラクの女性たちは、男性たちの五メートル後方を歩くどころか、私たちの前方を、同行の血縁ではない男性たちと楽しそうに喋りながら歩いていた。
 しかし彼らが感動したのは、圧倒的な神宮周辺の森の深さだった。新緑はこんもりと生き生きと、それぞれの個性的な緑の色を吹き上げるように合奏している。イラクの人々はこんな緑、こんな水を今までの人生で見たことがなかっただろう。自爆テロを志願すれば、死んだ後の天国でご褒美として味わえると約束されたまさにその緑と清流が、眼の前に拡がっているのである。
 旅の初めの頃、エレベーターの扉が開くと、私は当然お客さまたち全員、特にお坊さまのアリー・アルマイーリ師を先にお出しすることを守ろうとした。するとヨーロッパの生活もよくご存じのハッサン・アルダジェール病院長が、アリー・アルマイーリ師の太ったお腹にぱっと手を当てて、女性を先に出すものだ、という風に制して私に先に行くように言われた。アリー・アルマイーリ師は間もなくレデイ・ファーストというアメリカかぶれの「悪習」を、余裕をもって受け入れた。決して女性とは握手しないはずのハッサン・アルダジェール病院長は、私が一足先に伊勢から東京に帰る日には、自分から握手の手を出された。
 私はこうしたお客の受け入れを「一粒の種子」だと思っている。私たちは、ただの一言も、民主主義礼賛も、男女平等共働の意義も、植林の必要も、勤勉の尊さも、異なった宗教がお互いに寛大に共存し合う自由も、海山の幸を何でも豊かに口にする幸福も、宣伝しなかった。ただ黙って充分に見てもらった。女性たちにとって一番有意義だったのは子供たちに囲まれた小学校訪問だったろうし、一番楽しかったのは100円ショップの買い物だったかもしれない。しかしそれらを総合した上で、何が人間にとって幸福かを彼女たちは彼女たちなりに、ゆっくりと考えて、私が浅ましく意図したように「しゃべくって」くれるだろう。できればこの計画を、私は続けて行きたいと考えているのである。(2004・6・7)
 



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