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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: ハランを潤す  
コラム名: 私日記 第54回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2004/06  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2004年3月16日
 雑誌『諸君!』のために、東京財団の佐々木良明氏と対談。今イラク問題のテレビを見ると、いつも同じような顔ぶれがコメンテーターとして出ている。誰でも見方は必ず偏っているものだから、もう少し他のアラブ通が出てもいいと思う。佐々木氏はその中のお一人。
 氏も私も日本人的ではなく、どちらかというとアラブ人に感化されたような精神構造の持ち主なのだが、対談はおかしくて笑うところばかり。

3月17日
 初めて汐留の再開発地のビルに入った。共同通信社の論説委員の方たちの研究会で「最近イラク私見」のようなことを語るためである。私はそれより汐留に行けたことが嬉しくてたまらない。汐留だけでなく、新丸ビルも六本木ヒルズにも行ったことがないのだが、実はこういう流行おくれがほんとうの東京者のものぐさなのだろう、と思う。

3月18日〜21日
 自宅でひたすら書き、26日に出る旅のカバンを詰める。はずだったのだが、荷物の方は一向にほったらかし。考えるとだんだんうっとうしくなる。何しろ前半はトルコのアタチュルク・ダムとその近辺のクルド人地区の調査をするのだから、一番汚いスニーカーとヤッケ。その後で日本財団が約3800万円を支援しているザルツブルグの復活祭音楽会にスポンサー側の一人として出る時には、礼儀上、おめかしをして着物を着ることになっている。ホテルとオペラハウスの間を歩くのだから、寒ければミンクのショールも要るだろう。同行の日本財団の玉澤正徳さんはタキシードが要る。心密かに「お座敷着」とか「チンドン屋さんの衣装」とか呼ぶようになっていた。

3月22日
 南アフリカ共和国のヨハネスブルグでエイズの人々を助けていらっしゃる根本昭雄神父が、今度読売新聞社から医療功労賞海外部門の表彰を受けられることになった。そのお祝いの会が帝国ホテルで行われるのに、海外邦人宣教者活動援助後援会でいっしょに働いている伏屋ひろ美さんと列席。
 根本神父は、ヨハネスブルグのフランシスコ・ケヤーセンターで、エイズ患者といっしょに暮らしておられる。そして海外邦人宣教者活動援助後援会は毎日1人以上出る死者を収容するための霊安室の建設、次いで20床(10室)の入院病棟の建設、ベンツのミニバス、四駆などを買わせて頂いた。生きる人たちのためには皆お金を出すが、死ぬ人の最後の日々のためにお金を出す団体は少ない。神父には寄付金を生かして使って頂いたのである。
 海外部門のもう一人の受賞者遠藤マツエさんも、東チモールで働いておられる看護婦さんのシスターで、カトリックの宣教者たちがこうして着実に海外で働いておられる姿を見られるのは嬉しい限りである。

3月23日
 日本財団へ出勤日。
 執行理事会、辞令交付、トルコの実業家の来訪、『月刊OLマニュアル』インタビュー、イギリスのエドワード王子のご訪問などを受ける。王子とは、イギリスと日本の王室と皇室のお果たしになる役目などお話しする。高ぶらず自然体の爽やかな紳士である。帰りがけにエレベーター・ホールで、おつきの人までが日本式のお辞儀をしてくすっと笑う。アメリカの元大統領がおいでになる時には、SPが10人前後やって来て「オール・ザ・プレジデンツ・メン」という映画の題を思い出させられるが、イギリスの王子はおつきも少数、仰々しい警備もなくて、お幸せそうだ。
 午後遅くには、まもなく沖縄で来訪する阿嘉島臨海研究所の大森信所長来訪。財団のお金が珊瑚礁保護の研究の一助に使われている。
 夜、歌川令三常務理事が任期満了でやめられるので、その送別会。私は日本財団で働くことになった時、固い職場だったので、元毎日新聞社におられた歌川さんの存在で、ずいぶんほっとしたものだった。口ではちょっと軟派的でありながら、内実は崩れないことが大切なのだ。

3月24日、25日
 『毎日新聞』の連載『哀歌』を書き続ける。ゲラと呼ばれる校正刷りまで出してもらって確かめてから出発するのだ。一カ月分先まで書こうとしていたが、それは無理とわかった。

3月26日
 朝まだ荷物を詰める作業を続けて、11時にやっと家を出た。日本航空でイスタンブールまで約14時間。何でパリより長くかかるの?という感じだったが、飛んでみて初めてわかった。ウクライナのキエフ上空で「左折」する。それからが長いのだ。同行者は日本財団の玉澤さんと笹川平和財団の松長明氏。トルコ語の専門家である。
 少し重いのだが、聖書を持って来たので、機中で『創世記』を読み終えた。オデッサ上空で真紅の落日を見る。
 イスタンブール空港で海上保安庁の筒井直樹氏と再会。かつて「世界の貧困を学ぶグループ」の一員としていっしょに南米に行った。今はイスタンブールの日本領事である。休みを取って、奥地に私たちといっしょに来られるという。チャンスと許可がないと入りにくい土地だから来て頂けてほんとうに嬉しい。

3月27日
 朝5時半ホテルを出る直前、同行のクルド人のアハメットさんに会った。ホテルの経営者であり、やる気満々の人物なのだそうだ。
空港でモツァレラ、トマト、キュウリをはさんだサンドイッチを食べて、ガジアンテップ行きの飛行機に乗る。2時間近い飛行なのだが、着陸のほんの10分ほど前に雪を頂いた山の峰を見た。タウルス山脈である。地上は小麦畑、ポプラ、リンゴ畑、タマリスクの繁み、白モクレンの花満開。
 ガジアンテップから車でシャンリウルファヘ行く。このあたりは農業、牧畜業、ドイツなどへの移民、が三つの産業とのこと。
 途中、ユーフラテス河の河岸のレストランで昼食。雷魚のスパイシー・ロースト。羊飼いのサラダ。パン。トルコではイスラム教の戒律でお酒を飲む習慣がないから、私にはいい土地である。甘い飲み物も好きではないのだが、その代りにアイランというヨーグルトを水で溶かして塩味をつけたものはどこにでもある。私はアイラン党。
 2時、ガジアンテップ着。ハラン・ホテルに入る。
 面白いホテルだ。あらゆるものがもったいなくできている。スイッチボードは曲がり、かなり広い部屋なのにトランクを拡げる場所がない。お風呂場には丸い浴槽まであるのに、お湯の量はチョボチョボ。辛抱強く溜めるのはいいとして、一定量になるとどこからか水漏れがしてあたり一面水浸し。しかしともかくお湯の出るホテルなんて私にはぜいたく。
 午後、近くの市場(スーク)にアハメットさんが連れて行ってくれる。もっともアハメットさんの「近い」は中東で悪夢のような言葉の一つだ。近いと言っても30分。近い、近いと言いながらどれだけ歩かされるかわからない。キリムと呼ばれる敷物屋。きらきら光る生地を売る店。銅細工屋の横町。敷物は、動物と人間を区別する重大な印だ。まかり間違っても牧畜民の出の人を、我が家のような絨毯なしのむき出しの床の部屋に通してはならない。オレを羊と見なしたか、と怒るからである。
 私は素早くステンレス製のトルココーヒー沸かしの鍋を250万リラで買う。恐ろしい高額の買物だと思ったが、日本円で200円ほどだという。店の主人は観光客と見て銅製の高いのを勧めたが、私はうちで使うのだからと断乎としてステンレス。こういう鍋は普通日本では見かけない。
 それから公園に行き、四角い池にきれいな小川のような流水が流れているのを見た。私の眼には鯉としか見えない魚が折り重なるほど泳いでいる。アハメットさんは「ほら、有名な話だ。アッシリア王ニムロドがイブラヒム(アブラハム)を火刑にしようとした時、それを救うためにモーゼが魚に変えた、その魚だ」という。だからこの魚は聖なる魚で、決して食べないという。鯉こくにすればおいしそうなのに、と思っていたが、口にするのを止めた。
 モーゼはよくいろいろな奇蹟を行ったが、魚に変えた、という話は私の記憶にない。イスラム教に登場する人物が旧約聖書とはかなり違う筋だということがわかっただけでも収穫である。

3月28日
 午前中ハランヘ行く。途中、ずっと水路が続いている。これが明日行くアタチュルク・ダムによって溜められた水を利用した灌漑水路である。
 ハランはアッカド語で「街道」という意味だという。ウルファ(古くはエデッサと呼ばれた)の町から南に35キロ。今は小さな泥色の村で古い城跡が一つある。
 古来、通商の要衝でアブラハムも一時ここに逗留したと聖書は記載している。村へ入ると、日乾し煉瓦を卵型に積み上げた独特の屋根を持つ民家が目立つ。入って見たいなあ、と思っていると、果たして人の心を知るように一軒の茶店ができていた。

 中に入ると恐ろしく涼しい。屋根の煉瓦が強烈な日差しで気化熱を奪われるので、室内の気温が下がるのである。中ではアラブ人の一家が、ラクダの毛で織ったというショールや、出土品まがいの土器の破片や、シリアから持って来たというキラキラのラメ入りの服などを売っていた。聖書にもこの土地では織物を売っていたと書かれているから、当時と社会状況は全く違わない。甘い紅茶を飲んで帰る。
 昼はウルファの城の見える高級レストランヘ行った。アハメットさんが行きたかったらしい。といっても一人前2000円くらいだろう。私は羊のシュニッツエル、レンズ豆のスープ、焼き茄子、アイラン。
 その夜はアハメットさんの叔父さんの家に招かれた。靴を脱いで絨毯の上に座るのだからとてもくつろぐ。背中には壁に沿って長いクッションがおかれている。叔父さんはリューマチで人前に出ない。叔母さんと従兄弟たちが入れ代わり立ち代わり出てきてくれるが、女性は決してこうした席に座らない。この人たちはトルコ人ではあるがクルド人で、叔母さんはトルコ語を喋らない、と松長さんが言う。イスタンブールにも行ったことがないこの一家は、従兄弟の子たちまで辿ると1000人くらいは親戚がいる。トルコの地方はもちろん、シリアにもイラクにもいる。だから親戚を辿れば、超国家的に商売でも移動でも、もっと危ない仕事でもなんでもできるはずだ。
 ラフマジュンというパプリカやトマト・ソースを載せたピッツァをごちそうになって、後まだもっと出るのだそうだが、私は少し疲れたので歳を口実に先に失礼してしまった。「近い、近い」と同じで「もうすぐ、もうすぐ」がアハメットさんにかかるとあっという間に1時間2時間になることがわかったからでもある。それでもホテルに着いたのが9時半。

3月29日
 朝、ホテルの二階で、初めて国際水力発電協会総裁のドーガン・アルティンビレック氏、第三世界水資源開発センター代表のアシット・ビスワス氏、夫人のセシリア・トルタハダさんに会う。ビスワス氏はインド人、トルタハダさんはメキシコ人の飾らない学者夫妻である。
 トルコはユーフラテス河に5つの大ダムを階段状に作った。それぞれのダムのバックウォーターが後のダムにつながるような作り方である。ことにその中でも1992年にトルコ人だけの手で完成したアタチュルク・ダムは、堤の体積からだけいえば8450万立方メートルを積んだ世界第4のロックフィルダムである。
 この水で昨日行ったハラン平原の高地などを広く灌漑して野菜栽培などを可能にしたはずだが、世界の環境団体はそれが違うとさわいでいる。
 高温の土地にダムを作れば、すぐ水が蒸発して後に濃厚な塩分が残る。それが土地を不毛のものにする。ことにトルコの場合は、蔬菜よりも儲かるワタを作るようになったが、ワタはひどく水を食う作物で、ワタ栽培に傾けば間もなく土地は塩だらけの荒野と化すであろう、という。
 だからダムを作るな、というのは簡単なのだ。その場合水不足で悩む人たちを、誰かが助けるならいいのだが、それをしようとする人はいない。ビスワス氏たちの第三世界水資源開発センターは、それが果たして事実なのかどうかという調査をしており、日本財団はその調査にお金を出している。私はつまり調査人たちの仕事を理解するための調査に行ったのである。
 約2時間の講義を受けた後、アタチュルク・ダムに行く。トルコのダムサイトはどこも厳重に立ち入り制限がなされていて、自由には入れない。日本も少し防備を考えるべきではないだろうか、などと思う。
 ダムの管理棟で再び講義を受けてダムサイトヘ。春霞む湖である。対岸で一人の農夫がピスタチオの畑を耕していて、紀元前300年頃の、すばらしいローマ時代のモザイク画のある遺跡を見つけた。それが今水没線の下になるというので、「トルコ人にしては珍しく昼夜兼行で」移転作業をしている、とアルティンビレック氏は笑う。
 その後、管理棟で食事。どこでも焼き肉ばかりだったのだが、ここではやっと違うフランス風のお料理が出た。
 電気と水があるということは、本来はすばらしいことなのだ。電気の燃料があれば森林が切られない。水があれば三毛作も可能で、稲藁も燃料としてカマドで燃やせる。金ができれば牛が飼えて、牛糞は肥料になるし、燃料にもなる。畑も、悪者のワタばかりではなく、ワタとゴマと蔬菜というふうに、組み合わせて作るらしい。その結果経済がよくなると、移住も減って、子供たちが教育を受け易くなる。
 環境団体は悪いことばかり言い、ダムを作った人たちは、塩害の問題は残るとしてもいい点はたくさんあると言う。とにかく結果がいいだけのものも、悪いだけの話も、現世にはないだろう。その暖昧さに耐えて少しでも現実に近づくことが、現代に生きる者の使命だと私は思う。

 帰りにすぐ近くに水没地の人々が移転した村があるというので訪ねた。モスクの下の集会場も絨毯敷き。ここでも男ばかり2、30人。高齢者ほど威張って中央に座り、若者たちはお茶を配る。
 生活は以前と比べてよくも悪くもない、と人々は言う。補償はもらった。洗濯機、テレビ、すべて持っている。今ほしいものは、と聞くと、ほとんどすべての人が「新しい自動車」だと答えた。トヨタは部品が高いので買えない。フランスの車を買った、とイヤミまで出る。若い世代の夢は、ヨーロッパに出稼ぎに行って一旗揚げることである。
 アハメットさんは人々の中ににこにこしながら座っていて、アルティンビレック氏は、完全に正確に通訳していたよ、と教えてくれる。いずこにも友はいるものだ。

3月30日
 ガジアンテップの近くの工業団地を訪問。団地長はオフィスの水槽で巨大な金魚を飼っている。しかも色が黒、金、赤、赤白と凝っている。
 ここではワタを糸にし、布を織り、イタリー、スイス、ドイツ等に輸出する。ここで既製服を作ってイギリスのデパートに出している工場もある。労賃は月200ドルという最低保証がある。ワタ工場は1980年まではたった1つだったが、今では73もできた。
私は最後のパイプを作る工場の見学をさぼって車の中にいた。子供が一人、私と運転手さんのためにコカコーラを持って来てくれた。優しくてよく働くなあ、だけどこのグラスを返すのはどうしたらいいのだろう、と考えていると、やがてその子が再びお盆を持ってグラスを取りに来た。そしてそのついでにお金をねだった。だめもとのような感じだった。

3月31日
 8時ホテル発。シャソリウルファ空港へ。アンカラヘ向かう。途中大きな塩湖を見た。とにかく塩っぱい土地にでも生える樹木を植えなければだめだ、と思う。
 アンカラのホテルは、アハメットさんが仲間の元外交官とやっているアンゴラ・ホテル。城内の小さな趣味的な宿で、日本大使館でさえ「それはどこにあるんでしょう」と聞いた由。元外交官は知的で骨董趣味もあり、わざと室内を太い梁や古色蒼然とした家具で揃えている。宿賃は朝飯つきで5000円。
 ソ連崩壊後、ロシアが独立を認めた国々から、トルコに留学生が来ている。その人たちにトルコが出している奨学金が、インフレですっかり力を失い、留学生たちは生活がむずかしくなった。その不足分を日本財団が出している。その午後は彼ら奨学生たちに集まってもらって、茶話会を開くことにした。私がまず30分ほど現代の日本人の厳しい暮らしについて講演。通訳は松長さんも保証するアンカラ大学の日本文学科の杉山先生。その後、質疑応答。
 アゼルバイジャンからは数人の優秀な学生が来ており、「自分たちはここでは可能性を信じていられるが、国へ帰ると再び親類関係が大きくものを言う社会に閉じ込められる。日本人はどうして近代化を可能にしたのか」といい質問をするので、私は玉澤さんに「あなた、自分のことを話しておあげなさいよ」と小声で言った。
 玉澤さんが、ラグビーばかりして勉強しなかったこと、アメリカの大学に行った後、就職することになったが、父親が、自分で考えなさいと何も手を貸さなかったこと。他の組織と違い、日本財団は自由に人材を見極めてくれたのでそこで働こうと思ったことなどを英語で語った。彼に就職の手伝いをしなかった「父」が防衛庁長官や農水大臣を務めた人だったと聞いて、学生たちは改めて深く考えなおしたようだ。
 夜は杉山先生もお誘いしてお魚料理屋に行った。黒鯛の塩焼きに持ち合わせのお醤油を大切に一滴ずつ振りかけると、日本の味になる。松長さんと筒井さんはこの国で初対面だったのに、旧交を温めなおしているという感じだ。

4月1日
 朝アンゴラ・ホテルに阿部知之大使をお迎えしてごいっしょに朝食を取りながら、見て来た南東部の状況のご報告。ほんとうはこちらからご挨拶に伺うべきなのだが、すぐに空港に行ってチロル航空でウィーンに向かわねばならず、大使のおいでをお迎えしたのである。それにこの面白い宿は一見の価値があると思ってくださるかもしれないし。昨夜は寒くて眠りにくかったので、セーターを重ね着して寝た。
 アハメットさんは張り切って、地元産の金色に輝く蜂蜜や、羊飼いのチーズをテーブルに並べた。パンは熱々の焼きたてを出してくれるつもりらしい。大使に差し上げるレンズ豆のスープは昨日から用意している。もっともこの国ではスープといえばレンズ豆だ。人参か何か他のスープを作ろうとは思わないのだろうか、と私は根性の悪いことを考える。
 



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