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【人間の卑怯さ心に刻むために】
3月末、オーストリアのザルツブルクに滞在していた時、カトリック教会で「枝の日曜日」と言われている日を迎えた。厳密に言うと枝ではなく、原語はシュロを意味するのだそうだが、町の人は猫柳など春の芽吹きの象徴を美的にまとめた花束ならぬ「枝束」を携えて教会に集まる。私はこんな習慣があるとも知らず手ぶらで行ったのだが、入り口に山のようなオリーブの枝が積まれていたのでそこから小枝を一本もらうことにした。
私は冬のオーストリアの生活を知らない。いっせいにレンギョウも白モクレンも咲き乱れる春の喜びは、冬が厳しければ厳しいほど艶やかであろう。そこで初めて春を祝う伝統的な音楽祭の存在も、すべての人の温かい思い出として残るのだろう。
「枝の日曜日」の背景になる物語は、『マタイによる福音書』に出て来る。十字架刑を受ける5日ほど前に、イエスがエルサレムに上って行った時、人々はまだイエスをスーパースターのように扱った。ロバに乗ったイエスの通る道に自分の服を置き、木の枝を切って道に敷いた。そして「ホサナ、ホサナ」と叫んで熱狂的に迎えた。ホサナとはアラム語で「救ってください!」という意味である。
その頃囚人の中に、バラバ・イエスというローマに対する抵抗運動をしていた熱心党員がいた。イエスという名は当時の男の名としてはごく普通のものだったようだ。
当時のローマ総督は、祭りの度にユダヤ人たちの希望する囚人一人に恩赦を与えて釈放する習わしであった。総督ピラトは、人々にイエスかバラバか、どちらを釈放してほしいのかと尋ねる。するとつい数日前にあれほど熱狂的にイエスを迎えた民衆が「バラバを」釈放せよと叫ぶ。
「『では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか』と言うと、皆は、『十字架につけろ』と言った。ピラトは、『いったいどんな悪事を働いたというのか』と言ったが、群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び続けた。」(27・22〜23)
まるで今日の我々の姿を見るような場面である。私たちは常に本質を直視しようとしないで、周囲の空気に同調する。一人で考え、自分の責任において行動する勇気を持たず、無難な人道主義をひけらかす。そしていざとなると他者の責任にする。「枝の日曜日」は、そのような人間の卑怯(ひきょう)さを思い起こし、深く心に刻み込むための日なのである。
掌を返すようなイエスに対する評価の変化、残酷な見捨て方、衆を頼む軽薄、の中で、「現代にはもうありません」と言えるものは一つもない。聖書とは恐ろしく新しい書物である。ただただ甘い花々の色が、このような苦い自我の認識と共に訪れるのが、ヨーロッパの春なのである。
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