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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 体の凝る人  
コラム名: 昼寝するお化け 第298回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 2004/04/23  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   石破防衛庁長官が自衛隊の今までの姿について「自閉隊」だったと発言したことが先日、非難の対象になった。石破長官は自民党衆議院議員のパーティーの席上で「自衛隊は自閉症の子供の自閉と書いて自閉隊」と説明した。つまり自衛隊の存在は、認めてくれる人だけが認めてくれればいい、という感じで、イラク派遣までは外部には一切の期待を持たなかった、ということなのだろう。

 3日後に記者会見で石破長官は「以前に読んだ書物や論文から引用したが、(自閉症の子供を持つ親など)関係の方々につらい思いを抱かせたのは誠に不適切だった」と詫びた。

 自閉症という言葉は、医学的に使われる場合には「広範かつ重篤な全人格的発達障害の中核的存在」だと日本大百科全書には書いてある。ただ私にはこの表現はむずかしくてよくわからない。広辞苑では「現実離脱を呈する病的精神状態」で「現実との生きた接触を失うもの」なのだそうである。

 むずかしい医学的な定義とは別に、文学の世界には「自閉的」という表現や意識が昔からごく普通にあったと記憶する。その認識は「医学用語」ではないから人さまざまだろうが、自衛隊が社会からいろいろな理由で身を引き、理解されようがされなかろうが致し方ない、という立場に長いこといたという点では、石破長官の表現がそんなに悪いとは思われない。

 ハリネズミのように全身を緊張させて言葉遣いに気をつけていなければならない政治家はお気の毒だが、政治家は自分から成りたくてなった人たちばかりだから、同情することは全くないとは思う。しかし日本人の幼児的言葉狩りの気風は、やはりマスコミの中で育てられているように見える。

 私は一見社交的なように見えているが、性格は生れつき全く自閉的であった。円満でない家庭で育ったので、そのトラウマだともいえるらしいが、昔は虎だの馬だのという解釈は聞いたこともなかった。幼時から人(両親をも含む)と接する時は、叱られて暴力をふるわれないように、体中を固くしていたから、一人でいる時だけがほんとうに休まった。自閉志向は生れるべくして生れていたような気がする。だから疾病として認めなければならないという自閉症(今はその言葉を使わなくなったという)が、どうも病気とは思えない時もあるのだが、それはまあ素人の独善的な考えなのだごろうから、深くふれるのはよそう。

 自閉的生活の中で、私はいろいろなことを考えたりしたりした。本も読んだ。空想もした。現世を忘れるには、こうしたことが有効だった。死も、子供の時から毎日いやになるほど考え尽くした。

 人間は他人にはなかなか理解されないものだ、ということも身にしみて体験した。だから理解されなくても、恨まないようにしようと思った。ただ誰か一人くらいは私の心の中を洗いざらい知っていてくれる存在が欲しかったので、私は洗礼を受け、神とだけは語ることにした。

 私はこの自閉的な性格を元に仕事を選んだ。私にとって「不特定多数」の人は、恐怖の対象である。何とか人付き合いをせずにできる仕事はないかと考えたら、それは小説を書くことだった。

 世間には、小説家というものはよく編集者を集めてパーティーを開いたり、夜は係の編集者を誘ってお酒を飲みに行ったりするものだ、と思いこんでいる人もいる。文壇のパーティーにこまめに顔を出さなければすぐ「業界から脱落する」と思っている人もいる。

 しかし私は夜の町へも行かず、世話になる編集者を集めてパーティーも開かず、記念会と名のつくものには年に一回出るか出ないか、である。それでもまあ、どうやら好きな小説は書いて行けるのだ。

 8年半前、日本財団の会長になった時、私は自分に言い聞かせた。
 これから人に会う時は、軍隊とか修道院とか刑務所とかで命令された場合と同じで、避けられないのだ、と覚悟すればいい。

 それでも人間は卑怯なもので、私は次第に「偉い人に会う役目」は他の人に押しつけることにした。少しでも社交的な場に出るとがっくり疲れてしまう。偉い人はほとんど本音を語らないから虚しくなる。そんな空虚な時間を使うのがもったいないのである。

 しかし長年作家をやって来ていたので、現場で取材をすることには馴れていたから、私は自分にとって気楽な現場の仕事に廻ることにした。世間にはお互いに名前など知らなくても、魅力的な人はたくさんいる。行きずりの人が私の心に人生を語りかけ、深い思い出を残してくれる場合は多かった。

 財団ではお客さまに会い、年に何回かは数百人の方と会う会合にも出る。覚悟しているから何でもない、と思うことにした。それに私は現実的人間だった。好きなことだけして人生を送れるわけがない、と自分に言い聞かせるのである。

 「ひきこもり」と言われる状態は「精神的な未熟さをもちながらも『怠け』とは異なった半病理性の状態とも言える」(日本大百科全書)のだそうで、これまた、私にはよく理解できない説明である。病気は確かにすべてを許される条件の一つだが、ひきこもれば食べる物が全くない状態でも、半病理性症状は出るのかどうか、素人はいろいろと勘ぐってしまうのだ。

 ほんとうの病気は別として、私のように、人とつき合うのが苦手だと思っている人は、程度の差こそあれ、世間にはたくさんいる。しかし多くの人が部分的に妥協して人と接して生きている。そして礼儀と優しさから、人に会う時だけは、できるだけ相手のいい聞き手になり、たとえ心の中はどんなに苦しい日でも、明るく応対しようと試みている。

 それと同時に、自閉的な性格の人たちは、自閉的でない人にはわからない人生を送っているという自覚もあるだろう。

 かつて吉行淳之介氏は喘息でない人は人に非ずという感じだった。喘息をわからない人には、繊細な人間の心のひだもわからないだろう、ということなのだろう。

 自閉的な人には、多分自閉的に生きている人の美学と誇りがあるのだ。自閉的誠実というものもあるだろう。偏ってはいるだろうが、喘息と同じように、独自の世界がある。多分自閉的性格に付随した自負、複雑性、繊細さ、などを全く理解しない人が、石破長官の表現を苦々しいものに感じたのだろう。

 最近、私は淋巴マッサージで積年の体の凝りをほぐしてもらっている。そのマッサージ師が時々私に聞くのである。
「昨日どこかで人に会ったの?」
「どうして?」
「だって体中こりこりだよ」
「そんなに簡単に弱みを見透かさないでよ」
 



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