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日本周辺の海底資源採掘権拡大にむけ、大陸棚調査が本格化し始めました。1994年に発効した国連海洋法条約に基づき、200カイリを超える大陸棚については、地形や地質が陸地と地続きであることを証明しなくてはなりません。2009年5月に設定された国連への資料提出期限まであと5年、排他的経済水域200カイリ以遠への大陸棚の採掘権が確保できるかどうかは、国益にかかわる重大事なのです。一説によると、7兆円から9兆円もの海底資源が存在するといわれています。
科学技術が急速に進歩発展、火星に探査機が降り立ち、鮮明なデジタル映像を茶の間で見る昨今、驚くことにわれわれの住む地球の海底の地形はほとんど解明されていません。「大洋水深総図」という名の海洋図があります。簡単にいえば海底地形図です。大陸棚調査は大陸、島嶼(とうしょ)の沿岸域の海底調査ですが、水深総図は地球の全海底を網羅しています。地球の3分の2を占める海に元栓があるとします。その元栓を抜き、海水を完全に排した状態を地図と同様に細かな等高線で書き表したものといえばお分かり頂けるかもしれません。
こうした「大洋水深総図」は直接的な利害へのかかわりが薄いだけにとかく日陰に置かれがちでした。とはいえ地球の海の深さや海底地形が人々の興味を全く引かなかったわけではありません。16世紀のバスコ・ダ・ガマやマゼランによって始められた水深総図への夢は、20世紀に実現します。1903年、一級の海洋学者であり優秀な船乗りでもあったモナコ大公・アルベール1世は私財を投じ、自らも測量に携わって第1版の水深総図を作成しました。
19世紀中葉に始まった科学技術での数々の発明は人々の知的好奇心をかきたてました。SF小説の祖、ジュール・ヴェルヌが「海底二万哩」を著したのが1869年。青年に達したばかりのアルベール1世が潜水艦ノーチラスの船長ネモの活躍に触発され、海洋学とくに海底への思いを募らせたことは想像に難くありません。かくいう私も13年前、当時の日本の最新潜水艇「しんかい2000」に乗り込み、相模沖2000メートルでの潜水体験をもったことがあります。潜水、滞在、浮上の3時間はえもいわれぬ異界で、いまなおその感覚は忘れられません。
現在使われている水深総図は1984年に完成した第5版で、アルベール1世の手による第1版の縮図1000万分の1から100万分の1にまで精密化されています。調査方法も往時からの鉛鐘投下に加え、コンピューター化された水中音波測量や観測衛星が活用され、水深測定の精度は飛躍的に進歩しています。現在、国際水路機関とユネスコ海洋委員会が共同で作業を進めている第6版作成には日本の海上保安庁海洋情報部も参加しています。とはいえ実測海域は多めに見積もっても全体の3割、少なく見積もると1割程度であり、完成まであと20年はかかるといわれています。
難問は作図専門家の老齢化に伴う後継者不足と人材育成です。幅広い海洋にかかわる学問的知識に加え、データを解読し海底地形を的確に描ける職人芸的想像力を有する人材は希少です。日本財団では、4月から水深総図作りの専門家育成のお手伝いを始めます。開発途上国を中心に毎年、海洋学の博士課程を修了した若手研究者7人を選抜、1年間、欧米の海洋研究所や大学で水深総図作成の技法を身につけてもらおうというものです。成績優秀者にはさらに2年間、高度な研修機会が与えられます。より精緻な「大洋水深総図」の作成には観測点が多ければ多いほどいいのです。あらゆる国からの協力、特に開発途上国からの協力が不可欠であり途上国に人材を求める理由です。
辛口毒舌をもって知られた評論家、故山本夏彦は人類初の月面調査を「何用あって月世界へ」と評しました。「何用あって海底の地形図を」との評もあるでしょうが、月、火星、宇宙への探査熱が再燃している昨今、私たちが日常を営む足下の地球、しかも3分の2を占める海の全貌を知ろうとすることの意味合いも深いはずです。夢やロマンの源泉は好奇心です。すべての大洋が観測され、「大洋水深総図」ができるにはあと100年かかるといわれています。
「好奇心はそれ自体存在理由がある」(アインシュタイン)
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日本財団理事長・笹川陽平氏のコラム「新地球巷談」は今回をもって終了します。今夏、加筆の上、出版の予定です。
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