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2004年1月5日、6日
5日9時、日本財団へ今年初めての出勤。
職員90数人に、年頭の挨拶。
10時から、採用試験。皆、英語ができるし、私だったらとても答えられないようなむずかしいことを聞かれて、それなりに答えている。大したものだ。
6日は朝、執行理事会。
午後4時、日下公人氏とイラク問題について『VOICE』の対談。
1月10日
日本民謡協会の新年宴会に三浦朱門と共に出席。これだけ多数の和服の美女たちにお会いできる機会というのはそうそうたくさんあるものではないから、ずっときょろきょろしていた。
しかしステージの上で歌っている方がある時に挨拶に来て、話しかけられるのには困った。私はこういう時、ちゃんと礼儀正しく聴かせて頂くことにしているのだから。
1月14日
出勤日。今日からしばらく来年度の予算説明を聞く日が続く。朝10時から午後5時までずっと聞くのである。この仕事は、毎年始める前はかなりうっとうしく感じるのだが、1つ1つ聞いて行くとだんだん現実の重さに引き込まれるのが不思議である。400億に近いお金の使い道を決めるのだから、妥協も手抜きもいけない。
1月15日〜17日
ひたすら毎日新聞の連載小説『哀歌』を書き続ける。その間に画家の石川ヨシ子さんのお宅へ行き、製作中のガラス絵による「十字架の道行」について、白柳誠一枢機卿ともお会いし、その置き場所についてご相談。
1月18日
夕方、カトリック医師会東京支部の講演会に講師として出席。決まっていらした講師が健康上の都合で止められたのでピンチヒッターである。講演会のピンチヒッターは、かなり時間的に無理でもお引き受けすべきだ、と私は昔から決めている。会場で、いっしょにアフリカへ行った安田浩子さんなど、懐かしい数人の方に会えた。
1月19日
今日は前橋で講演会。外国へ行くと、その前後は全く講演ができないので、講演会はできる時期にかたまってしまう。群馬経済同友会の主催の会場には、亡くなられた恩師、高木貞敬先生の奥さまが会いに来てくださった。
1月20日、21日
続けて予算説明を聞き続ける。これで大体個別の案件まで、頭に入る。腰痛がない時でほんとうによかった。
1月22日
海上自衛隊幹部学校で講義。22年間続けてこうした講義をさせて頂いたそうで、感謝状を頂く。ほんとうは去年11月4日に授与されたのだが、その日、文化功労者の認定式があって1日動きが取れなかったので、今日渡して頂いたのである。私は自分のした講演を忘れたいたちなので、「え?22回も?」とはじ入った。
講義が終ったら、『週刊新潮』に出ていた総理の「『機密費枯渇』で中止になった自衛隊、部族長へのプレゼント」という記事は「全くのでたらめだそうです」と教えられて笑った。
1月23日
佐藤恵美子さんとご主人、石倉螢子さんと三浦朱門と私とで、海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員の三浦智子さんの骨折入院の快気お祝いの会を、近くの中華料理屋さんで開くことにした。
三浦朱門は誘われただけでも感謝しなければならないのに図々しい。
「ボクはただでいいんだよね」
「誰もそんなこと言ってません」
「ボクは財布を忘れて行こう」
佐藤恵美子さんのご主人も似たりよったり。
「僕は財布は持って行きますが、中にほとんど入っていませんから」
どうして都会の不良青年の成れの果ての男たちというのは、こうステキでなく振る舞うのが好きなのだ?
1月24日
宝塚歌劇を観る。男役の中で、誰が一番男らしく見えるか、と思って眼を凝らしたが、誰一人として男には見えなかった。でも歌って踊れて芝居ができる、ということは、何というすばらしい才能を贈られた人たちなのだろう。
1月26日
東電の荒木浩、南直哉、勝俣恒久、三氏と元東電におられて高瀬ダムを作られた佐藤友光氏と会食。全く仕事の話なしだが「私は送電線の敷設も一度は拝見したかったと思います。一般の人ももっとああいうご苦労を知る機会があってもいいでしょうね」などという話も出た。「人の見えない所で働く方たち」に私は深い尊敬を感じ続けている。
1月27日
予算は一応終了。
今日からはまたいつもの仕事に戻る。日通旅行と、来年春には「聖地巡礼」にイスラエルヘ入ることにして、日程やルートの相談など。
午前11時、コスタリカのリカルド大使来訪。12時、光文社の方々。社員食堂で、職員の昼食風景を見て頂く。
1月28日〜2月1日
久しぶりの三戸浜。
新聞によると、石破防衛庁長官が、イラク派遣の自衛隊員が地元住民らを誤射した場合の責任問題について「『誤射というのは過失犯だろう。過失の場合の行為が殺人罪、殺人未遂、傷害、傷害致死罪に当たる場合はわが国の刑法が適用される。隊員の責任が問われることはあり得る』との認識を示した由」。
そんなばかなことを、と思う。
今やイラクでは、路肩に停まっている車も、追い抜く車も、追い抜かれる車も、危険極まりない存在になった。当然そのうちに撃たれる前に撃つケースが出るだろう。それがいちいち誤射で責任問題を発生することになったら、自衛隊は自分が撃たれる他はない。
イラクは戦場ではない無法地帯である。イラクに自衛隊を送ることは、決して派兵ではない。災害派遣と同じものだ。災害派兵とは言わないだろう。しかしすぐそこに転がっている危険に対処するのに、日本の国内法を持ち込むのか、と改めて考えさせられた。
古いワープロが、最近めっきり機嫌が悪い。時々電気が薄くなる。「頼むわね。新しいのを買うまで」と撫でると、なぜか画面がはっきりして来る。
真鱈の白子がおいしい季節でせっせと買ってくる。蛤もすばらしい。貝から身を出してクラム・チャウダーを作る。いつかヴァンクーバーへ行った時、私は突然クラム・チャウダーという料理の精神を会得したのだ。貧しい移民たちが浜で拾った貝に、手に入る野菜を入れて煮たのがこの料理。だからその精神さえ忘れなければ、何を材料に加えてもいいのだ。
三戸浜の庭にはこの冬なのに、マリーゴールドの生き残りやスイセンも極楽鳥花も咲いている。
鳥インフルエンザ発覚。BSE報道も盛ん。吉野家などが、近々牛丼を出せなくなるので、若者もいい年の男も、牛丼を食べに走っているとか。新聞は「さらば牛丼 Xデーは? 惜別で売り上げ急増」だと『産経』まで書く(2月1日)。ばからしい話だ。牛丼くらい、今でもいつでも、好きな時に自分で5分で作れる。情けない人々。
1月30日の紙面では、民主党は「陸上自衛隊の先遣隊が面会したサマワ市評議会の関係者の肩書について、石破防衛庁長官がこれまで一貫して『議長』と答弁して来たのに、この日になって『議長代理だった』と訂正するなど、答弁の撤回・訂正が相次いだため」罷免要求をしているという。
まあ、民主党も、もう少し日本でない土地のことを勉強することだ。私には族長たちの会合の様子が眼に見える。先遣隊が一番偉そうな人を指して「あの人が議長か」と聞くと、その辺にいた男たちは一斉に「そうだ、そうだ」と頷くのである。しばらく経って、別の偉そうな人が現れるので「あれは誰か」と聞くと「議長だ」というのだ。「どっちが議長だ」と聞くと「そうだ、そうだ」と答えるのだ。要するに言葉も良く通じていないのである。こうした混乱と意思の非疎通程度で防衛庁長官を罷免にするなら、1日に2度や3度は罷免していなければならない。親分の集まりに、正式な議長がいるかいないかで正当性が違うなどと論争することは、全く見当違い。政治家が無知だとほんとうに困る。
今度は海辺に4日いられた。素晴らしい冬の富士と星の輝きを見た。
2月2日
イラク派遣の制服の自衛隊員や物資を輸送することを、JALとANAは断ったという記事が『産経新聞』に出る。
自衛隊が、オランダ軍に守って貰ったり、自国の飛行機で隊員を送れないことは不本意なことだろう。戦闘部隊ではない証拠か。戦闘部隊なら、補給や輸送を民間に依託することはないだろうから。
ただJALもANAも、基本は営利会社だから、断っても仕方がない。今までJALが常に危険な任務に就いたのは、機長の心意気だったと聞いている。今の人たちにはそれがなくなったと思う方がいいだろう。
2月3日
日本財団へ出勤。執行理事会。電光掲示板ミーティング。
日本財団としては、イラクの戦後復興、民主化への道(途方もなく遠い道だが)に、少しでも協力するために、とりあえずサマワ周辺、ついでできるだけイラク全土から、小学校の女性教員を8日間程度日本に招くプロジェクトを始動するつもりである。そのために午後、東京財団所属のアラビスト、佐々木良昭さんに私の部屋に来て頂いて、細部を協議した。
人選はイラク側で人選委員会を作って決めてもらう。日本に行って堕落した生活を送ったなどという噂を立てられないために、女性の引率者を作り、夜も必ず2人部屋に泊めること。学校、塾、工場、その他、女性が堂々と厳しく働いている場所を見せる。最後に伊勢神宮と京都に連れて行く。佐々木さんはイスラム教徒、私はカトリックだが、共に伊勢神宮のファンで、冗談もよく通じる。近々、手配のためにイラクに行って頂くことにする。
陸自90人、千歳基地よりクウェートに出発。
2月4日
このごろ司法制度改革の1つとして裁判員制度ができることを取り上げている。私は司法制度審議会の委員の中で唯一の素人で、裁判員制度には初めから反対であった。個人的な意見を書く答申でもそのことは明記して提出した。素人が集まって、どんな決定ができるというものだろう。人数が多くなるだけ、意見の決定を纏めるのが困難になるということは、どんな審議会でもよくよくわかっていたことだ。
第一この裁判員は、自分で事実関係を調査できない。与えられた資料だけで判断する。しかし私の体験でも、ほんとうに新しい判断は、自分の足で、自分のお金を使って調査してこそ初めて見えてくるものだ。
たいていの良心のある人はやりたくない任務だ。やりたい人は、人を裁けるという立場に酔っている。なってほしくない人がなりたがる結果になるだろう。
サマワで自衛隊の先遣隊が犠牲祭の羊を生活困窮者に贈った。『産経新聞』によると「サマワ市社会福祉局を通じて」と書いてあるが、ほんとうにそんなものが機能しているのだろうか。分ける権利は族長が持つだけだろう、と思うが。この羊は、市場で買って来てすぐ贈っていいのだろうか。こうした犠牲祭用の羊は、どんな町方の人でも、2週間程度、形式的にも自分で飼わなければならないはずだ。だからその期間になると、突然町のあちこちに大袋に草を入れて売り歩く子供たちが現れて、私はずいぶん不思議に思ったものだ。それは牧草などない町の中の家で、玄関の前などで一時的に羊を飼う人たち用の餌なのである。その2週間なしで、市場で買って来た羊が、ただちに犠牲祭用として認められるか、ちょっと興味がある。
テレビでは、野生の猿を追い払う作戦についての番組をやっていた。英字新聞では鳥インフルエンザを媒介する渡り鳥の特集をやっている。ツバメ、チドリ、シギ、カモメの一種のアジサシ、シラサギ、などだという。
私の週末の家などは、野生動物との共生に迫られている。ムクやカラスに柑橘類を突っ付かれ、兎と狸が畑に出る。トビ、カモメ、コウモリも多い。病原菌を持っていないという保証はない。過度の自然保護、動物愛護、が人間を圧迫するが「動物善人、人間悪人」という図式が強固にひとびとの頭の中にできてしまっているから、どうにもならない。
茨城大学農学部の原田実里さんの他殺死体が見つかったことで、ニュースはずっと騒がしく報道しているが、日本人は基本的なことに少しも触れない。それは日本人は極めて不用心だということを指摘していない点である。
異性の友達を下宿に泊まらせ、しかも被害者自身は午前1時にまた1人で出て行った、と残された男友達は証言している。それがほんとうとすれば、どんな繁華街でも、若い女性が1人でその時間に歩いているということはまともではないから、外国だったら、付け入ってもいい、と思う男がいて当然な状態なのだ。そういう点でも、これは世界的な非常識だということを、若い娘たちに教えない。それが自由や独立だと若者たちが勘違いすると、親たちもそんなものか、と引き下がっている。
十条の陸上自衛隊補給統括本部で講演。
夕方、秘書の省子さんの車で三戸浜。家に着いてから急いで、豚肉、むきえび、エリンギ、白菜、日本葱で、焼きそばを作って食べる。これから数日、三戸浜にいられる。
2月5日
朝4時半、ふと外を見ると、満月に近い月が富士山の方角に沈むところだった。月に向かって海に金色の道がついていた。死者が死後、登って行く道だと思う時がある。午前6時、相模湾の向こうの山に月没。(日没とは言うが月没とは言わない。何と言うのだろう。月の沈むのを眺める人が極めて少ない、ということか)
午前中、アメリカで制作されたと思われる「代理出産」の再放送をNHKの「プライム・タイム」で見る。この番組を見て、子宮を貸す女性たちに対する考え方がかなり変わった。乳母が一定期間他人の赤ちゃんにお乳を飲ませて育てるのなら、生物学的両親から預かった胎児を胎内で育ててもそんなに変わらないだろう。
2月6日
日本財団に電話をかけて、お台場の「船の科学館」においてある北朝鮮工作船の展示が、いよいよ15日までになったので、国会議員の方々に改めてご招待のファックスを流すように頼む。「月曜日に一斉に流します」とのこと。
2月10日
出勤日。執行理事会。お昼にムウェテ・ムルアカさんが一番下のお嬢ちゃんと日本人の奥さん同伴で来られた。
2月11日、12日
休日。1日だらだら暮らす。
12日にコンピューターを発注。
2月13日
日本財団天理教青年会本部インタビュー。元海上幕僚長、佐久間一氏他来訪。日露戦争100周年記念事業について。
午後、海上保安庁政策懇談会に出席。
北朝鮮工作船の見学者はどっと増え、今日は民主党の菅代表ほか9人が見えられた由。
2月14日
千曲市で一般市民と市議会職員のための講演会。
ここ数日で工作船の国会関係の視察者は28人に達した。やはり通知を出してよかった。
2月15日
午後4時半「船の科学館」へ。最後のお客をお見送りしながら、関係者にお礼を言いに行った。去年5月31日から今日まで、1人の方がちょっと足を踏み滑らせただけで、1件の事故もなく目的を果たした。現場に張りついていた方たちに「おめでとうございます」「ありがとうございました」の2言だけが言いたかったのである。
入り口のコンテナー型の事務棟で、日本財団広報部の福田英夫さんが電話を受けている。通算で何人入ったか、というマスコミからの聞き合わせらしい。
「はい、162万6299人です」と言っているから、横からかなり大きな声で、「私も入ったのよ。だから6300人よ」と言ったにもかかわらず、彼は訂正しない。4時より遅く来て、船尾で関係者に改めてお礼を言い、工作船と共に暗い冷たい海に沈まなければならなかった乗組員の冥福を祈っただけでは、勘定に入れてくれないらしい。
しかしこれが日本財団の真骨頂だ。愚直なまでに正直正確無比、であるべきなのだろう。ちょっきり300と言ったら、どこか嘘臭くなったろう。「船の科学館」の関係者は関係者で、「おかげさまで、今日1日で9808人の見学者が入ってくださいました」と言った。ここにも微笑ましいほどの正確な端数がついていた。
その後で、養老孟司先生との対談のため、東京駅の傍の八重洲富士屋ホテルに向かった。
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