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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 「アルメニア」って、どこにある?(下)  
コラム名: 旅日記 地球の裏読み  
出版物名: 月刊ぺるそーな  
出版社名: マキコデザイン株式会社  
発行日: 2004/03  
※この記事は、著者とマキコデザインの許諾を得て転載したものです。
マキコデザインに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどマキコデザインの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 「イワシの頭も信心から…」 ≫

 この読み物を書くきっかけを与えてくれたのは、アルメニア人の世界的地震学者、セルゲイ・バラサニアン博士なる人物だった。「アルメニアって、どこにあるんだ?」。たまたま来日した彼に私は初対面のあいさつ代りに、ぶしつけとは承知でそう切り出した。案に相違して彼はニコッと笑った。「オオ。いい質問です。アルメニア、アルバニア、アルジェリアの3つの国を区別できる人間なんてこの地球上にあまりいないからね」。こんな会話がご縁となって、地理的にも文化的にも、日本とはおよそ正反対の極にある未知の山国、アルメニアを訪ねることになった。この号は、アルメニア共和国紀行の続編だ。

 バラサニアン博士が作ってくれた綿密な「共和国周遊日程」の2日目、彼と私は世界で初のキリスト教国となったアルメニアの先人たちの足跡に触れるべく、正教の総本山エチミアジンに出かけた。首都エレバンから20キロ、もうトルコ国境に近い。アルメニアの総面積は2万9000平方キロ、関東地方よりやや小さい地域に、380万人の人々が住んでいる。

 「小さい国だよアルメニアは。でも歴史が沢山つまっている」。そう言う彼が、私をここに連れてきたのは、特別の理由があった。旧約聖書の創世紀の洪水伝説、「ノアの方舟」が着地したのが、アルメニア人の心の故郷アララト山であることを、私に納得させたかったからだ。

 カトリックで言えば、ローマのバチカンに匹敵する宗教都市エチミアジン。その中心に、アルメニア聖グレゴリウス派正教会の総本山、エチミアジン大聖堂がある。その祭壇に向って右側の宝飾館に、連れていかれた。

 「よく見なさい。これです」。十字架にかけられたキリストの脇腹を刺したとされるローマ兵の槍先と並んで、ノアの方舟の木片と称するものが、聖遺物箱に飾られていた。「あなたはこれを本物だと思うか」。そう聞いてみたい衝動をこらえた。聖書に書いてあることは、すべて現実にあると考える人々を、ファンダメンタリストという。科学者である彼は、そのあたりをどう思っているのか。それを知りたかったのだがやめた。神が存在するのか、しないのか。所詮はその人が信ずるか、信じないのか問題に帰着する。キリストとは“縁なき衆生”である私がそれを彼に問う資格はない。イワシのアタマも信心から??と言いたいところだが、いや滅相もない。「アルメニアの人々にとっては感慨深い遺品なんだね」。聖なるノアの方舟の木片を前に、私はそう答えるのがせい一杯だった。


≪ 地震問答「アルメニアは何故地震に弱い」 ≫

 大聖堂でもらった案内書によれば人口10万人のこの街の正式な名称は「聖エチミアジン教区」で、紀元4世紀に建設され、大昔はアルメニアの首都でもあったと書かれていた。「アルメニアの京都か奈良です」。アジア地震学会会長でもあるバラサニアン氏がそう言った。アルメニアは日本と同様、地震の名産地?であり、12月7日は地震犠牲者追悼の日で、この国に年に10日ある国民祝祭のための休日のひとつだった。1988年のこの日、マグニチュード7.1の地震で、死者2万5000人、被災者55万人を出した。日本の基準ならさほどの烈震ともいえないが、多くの建物が崩壊し人が死んだ。日本の木の文化と、この国の石の建築文化の違いだろう。この博士、日・ア両国の地震のとりもつ縁で、なかなかの日本通だったのだ。博士によれば、太平洋岸の日本から、アジアの西、アルメニアのあるコーカサスにいたるほとんどの国は地震国だという。ノアの洪水から、いつの間に地震の話になった。

 「地震がなぜ起こるか知ってるか。それはプレート(地球表面に近い地殻を形成する厚さ100キロほどの巨大な岩板で、12個ある)のなせるわざさ。アルメニアの地震は、アラビアの造山運動で、ユーラシアープレートが押されることによって起こる。このプレートは毎年に1センチづつ動いている。1997年にはわずかマグニチュード4.3の地震で、エレバン市内は2000もの建造物がひび割れとか崩壊で使いものにならなくなった」。

 「たったのM4.3で? その程度の地震なら、日本では毎月ある」「そうだ。日本の建物の耐震設計は世界一だ。そういう国民から見れば不思議だろう。だが、アルメニアは昔ながらの石積みの家やソ連時代、安普請で建てられたビルが多い。出来高本位の社会主義のノルマ制のもとでは、およそ耐震設計なんて頭になかった。これが始末が悪い。地震は自然現象ではあるが、神が人間に罰として与えた惨事でもなく、国家の危機でもない。人災なんだ。アルメニアの災害の94%は、地震によるものだ」。宗教都市、エチミアジンの大聖堂前で交わしたアジア地震学会会長との地震問答だ。

≪ アルメニア正教由来 ≫

 この国のキリスト教の由来に話は戻る。エチミアジンとは、アルメニア語で「1人っ子の降臨」という意味とのことだ。つまり、イエスが救世主として神にこの世に遣わされた故事をさしている。この国が、国教としてキリスト教を採用したのは紀元301年、ローマ帝国のキリスト教化よりも79年早い。

 いったいどうして、コーカサスの山奥の国が世界初のキリスト教国になったのか。現地で求めた旅のガイドブックによれば、こんな言い伝えがある。

 その頃、ローマの属国であったこの地には、トルコ経由ですでにキリスト教が入っていた。当時のアルメニア王ティリダデス3世はゾロアスター教徒で、親分筋のローマ帝国で禁止されていたキリスト教を毛嫌いしていた。王は、この地で布教中の使徒グレゴリウスを捕え、洞穴に閉じこめた。それから何年かののち、ローマから迫害を逃れてやってきたキリスト教徒の処女を手ごめにしようとしたが、拒絶されつい殺してしまった。これがもとで王は発狂寸前となった。その時、王の妹の夢枕に神があらわれ、「グレゴリウスだけが王の病をなおせる」とのお告げ。14年間の幽囚の身だった彼は、洞穴から呼び戻され、王の病を治した。王は前非を悔いて改宗、民衆も王に右へ習えし、世界初の国をあげてのキリスト教国となった??と。

 この話はいかにもありそうな筋書きで、私にとってはたいしたことではない。だがこのときの正教の総本山の見聞によって、永年にわたる謎のひとつが解けたのは、旅の収穫ではあった。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教の聖地と呼ばれるエルサレムに、4つ目の宗教の聖地としてアルメニアというのがある。8年ほど前、エルサレムを旅して以来、それが気になっていた。なぜ小国アルメニアがエルサレムに聖地をもっているのか。答は、アルメニア正教の方が、ローマカトリックよりも老舗であったからだ。

 「そう。古い伝統をゆえに、わが正教はエルサレムに聖地をもっている」。博士が相槌を打つ。エレバン市内のマテナダラン古文書保存所で、5世紀の製本だという、現存する最古の新約聖書を見せられた。新約聖書は、主としてローマで布教するため使徒パウロやペテロたちによってギリシャ語で書かれたのが原本だが、この聖書はアルメニア語だ。博士によれば、キリスト教を布教するためにアルメニアの表音文字が発明され、ギリシア語を翻訳したとのことだ。ギリシアとロシアのアルファベットの中間のような文字だが、文字の導入は社会主義時代この国の宗主国だったロシアより、500年も早い。

 アルメニアは美人の産地だと、この国発行の旅行ガイドブックに書いてある。世界で美人の普遍的基準があるわけではないので、この国の人々が自画自賛するのは結構なことだ。逆に「わが国は美人が少ない」なんて宣伝している国があれば、それこそ私の旅の大テーマになるのだが、そういう国に行ったことはまだない。美醜の観念はその国の固有の文化に属するものなのだが、あえて言わしてもらうなら、いわゆるアルメニア美人は、目、鼻、口が大きく、はっきりしすぎているので、私にはどぎつく映る。


≪ 日本の顔、アルメニアの顔 ≫

 アルメニア人は、インド、ヨーロッパ語族で、顔の彫りが深く、髪は黒く、目は青い。ここに紹介したアルメニア美人像は、前号に登場したこの国の美術家協会会長、アラム・イサベキアン氏の作品「アンナの像」だ。この美人像、目や眉毛が強調されてはいるが、実像に近い。街を散策し、痩せぎすで鼻と口がこの肖像画よりももっと大きい女性に出会うと、珍しいを通り越してなにやら噛みつかれそうな気がしてちょっぴり恐くなったりする。

 アルメニアに常駐する日本人はわずか4人、その1人、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の女性駐在員、白戸純さんにこの話をしたら「それは言えます。私も同感。もう少し丸味があったら…」と。この国ご自慢のアルメニア美人も日本人の審美眼では、そう見えてしまうのだ。

 参詣人でごったがえす日曜日のエチミアジン大聖堂前での出来事だ。このアルメニア正教の総本山には、アメリカ、英国、ロシアなど世界の様々な国から巡礼者が訪れる。その意味では国際色豊かな観光地なのだが、アングロサクソンとかスラブ、あるいはゲルマンなど異民族の巡礼者で賑わっているのではない。ほとんど全員がアルメニア系外国人だ。このあたりの事情は後述するが、実は、この国は全アルメニアの半数もの人々が国を逃れ、世界中に散らばっていった歴史をもっているのだ。移民を余儀なくされた彼らはどの国に住んでいても、故郷を思い続け、ツアーを組んで巡礼にやってくる。それはアルメニア人が、いかに民族としての固い絆をもっているかを示すもので、ユダヤ人のシオニズム思想と一脈通ずるものがある。ほとんどアルメニア民族一色の正教の門前町で、私という日本人の存在は、彼らにとってはまさしく「エイリアン」そのものであった。

 アルメニア人にとって日本人の顔はどう映るのか。修学旅行で、大聖堂にやってきた高校生の一団と遭遇した。彼らは2人、3人、5人と列を離れ、2人の日本人(私と同行の歴史学者、松長昭氏)を遠まきにした。好奇に満ちた視線が、われわれに注がれる。やがてカメラをもった1人が、案内役のバラサニアン博士に何やら耳うちした。一緒に写真に入ってくれといっている。記念撮影ののち何人もの高校生から握手を求められた。彼らにとって日本人の顔は、なにはともあれ珍らしい。4日間の旅程でこの機会を含めて3回、われわれ一行はアルメニア観光客の記念撮影のモデルになった。


≪ 虐殺記念碑の丘を登る ≫

 エレバンの国立劇場の裏山に「アルメニア人虐殺博物館」がある。「虐殺」とは1915年から16年を中心に、トルコ東部の霊峰アララト山麓一帯に住んでいたアルメニア人が(オスマントルコ以前は、この地はアルメニア領だった)、オスマントルコ帝国による迫害を受け、150万人が殺され、80万人が国外に追放されたとされる事件だ。ヒットラーのホロコースト、スターリンの大粛清、カンボジアのポル・ポトの大虐殺、ルワンダのフツ族によるツチ族の虐殺、旧ユーゴのミロシェビッチによる「民族浄化」など、20世紀の世界の虐殺史のいわば走りであった。トルコ政府は現在もなお事実を認めず謝罪も行なわれていないという。

 丘の上の虐殺の記念碑をめざして、急坂の参道を登る。ここに来るたびに大学生時代を思いだすのだというバラサニアン氏。

 「1970年代の中頃まで、モスクワはアルメニア人に対し虐殺の記念碑を作ることを許可しなかった。革命直後のソ連共産党は、第1次大戦後のトルコに対する西欧の占領にクサビを打つため、アタチュルクの独立運動を支援した。その際、トルコ独立軍と虐殺については目をつむるという政治的取引があったんだ。だからソ連時代は、虐殺はないことになっていた。1975年、大学生であった私は、モスクワに対し記念碑を許可せよと叫ぶ大デモに参加した。そして要求を勝ちとった」。

 彼は感慨深げにそう語った。

 記念碑が建設されたのは、プレジネフの時代だった。アルメニア人の執念が、クレムリンを動かしたわけだ。これがきっかけとなり、80年代には欧米のアルメニア人社会に虐殺の世界的認知とトルコ政府の謝罪を要求するテロ組織「アルメニア解放秘密軍」が登場、欧米在住のトルコ外交官暗殺、トルコ航空事務所焼き打ちなどが起こった。ソ連崩壊後は、アルメニアは共和国として独立したが、世界世論の力で、虐殺の事実をトルコ政府に認めさせる運動を続けている。いったい何が大虐殺を生んだのか。確執の背景には、イスラム教徒トルコ人とキリスト教徒アルメニア人との宗教対立があるが、それだけでは説明がつかない。「直接のきっかけは、第1次世界大戦でオスマントルコ軍がコーカサス戦線でロシア軍に壊滅的敗北を喫したことだ。当時、アルメニア国とトルコは交戦状態ではなかったものの“親ロシアのアルメニア故にトルコ軍は敗れた”との思い込みがトルコ人の間にひろがった。哀れなのは憎悪のマトになったトルコ領内のアララト山麓に住むアルメニア人で、民族追放と抹殺の大キャンペーンの餌食にされたのだ」。バラサニアン氏の解説である。

≪ 「神も、ときには意地悪をする」 ≫

 アルメニアは、石の文化の国である。街を歩くとビルの建材に使われている石の美しさにはっとさせられる。国土は火山性の高地で、浅い土壌を掘り起こすと石の屑にぶつかるという。バラ色の石で建てられた家もある。山には岩を削った洞窟がいたるところにある。エレバンから南東に30キロ、青と黒の玄武岩のガルニ神殿跡から、山道を6キロほど登ると、道は行き止まりだった。巨大な玄武岩の壁が行く手をはばんでいる。壁の中には洞窟の修道院があった。13世紀、1人のアルメニアの石工が、一念発起して岩を掘り抜いて、聖堂、僧房、廟などを建設した岩の芸術品、ゲガルド修道院だ。信心深い石工は15歳でこの大事業を思いたち、完成したのがなんと90歳だった。菊地寛の小説「恩讐の彼方に」出てくる青の洞門のアルメニア版だ。大分県にある耶馬渓のトンネル青の洞門の話をご存じか?仇をもった侍が仏門に帰依し、仇討ち以上のことをしようと決意、人助けのために30余年を費やして岩を開削し、危険な難所を安全なトンネルに変えたという実話だ。ところがこちらの奇特な石工のケースは、情けと仇にからむ恩讐とは無縁で、ひたすら救世主に、アルメニア民族の安寧をお願いするためだったという。それにしても信仰とはすさまじいものではないか。

 1人の平凡な男をして、これだけの大事業を一生かけてなし遂げさせた世界で極めてユニークなキリスト教、アルメニア正教とは、どんな宗教なのか、バラサニアン氏の親しい友人、キュレフ・タルガン神父に聞いてみたのだ。

??アルメニアは、ユニークなキリスト教をもっているとものの本で読んだけど…

 「ユニーク(独特)ではない。オーソドックス(正統)だ。アルメニアは6世紀の力ルケドン宗教会議で、キリストは神そのものであるとの単性論をとり、三位一体(父なる神、創造者と神の子キリスト、聖霊は区別はなく一体である)なんてわけのわからんことを言っているローマ・カトリックとは、訣別した。」

??カトリックと正教の違いをもう少し詳しく…

 「カトリックは、神父の権威主義と布教の覇権主義で成り立っている。懺悔をすれば救われるなんてインチキだ。そういう便利さを売り物にする布教の態度が、プロテスタントに宗教改革されてしまった原因だ。アルメニア正教には、宗教改革なんてされる理由がない。アルメニアのオーソドックスは、永遠にオーソドックスなんだ。」

??なぜ、エルサレムにアルメニア人地区があるのか。

 「それは世界初のキリスト教国としてのアルメニアの正統性が、そういう特権をもたらしたのさ」

??アルメニア人の心の故郷、聖なるアララト山は、いまやトルコ領。それを正教はどう説明するのか。

 「政治的な理由はいろいろあろうが、宗教者の観点からみれば、アルメニア人がおごり高ぶっていたからだ。だから神がお怒りになり、いたずらしたのさ。ただしあの山、トルコ人にとってはどうでもいい山なんだけどな。」

 中世の時代、いまのトルコの東の部分はほとんどアルメニア人国家だった。イラク、シリアに国境を接し、まさしくメソポタミアの源流を制していたのだ。いまは源流と言うには、ちょっと北に寄り過ぎてしまった。神もときには意地悪をする??。バラサニアン氏の感想である。
 



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