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≪ 煙たなびく苫屋こそ、我が懐しき…… ≫
日本に入ってくる原油の5分の1はUAE、つまりアラブ首長国連邦産だ。だから北海道と同じ面積のこの湾岸の小国と、ある日突然、国交がなくなったら日本の産業はパニックに陥入る。1971年、英国のあっせんで7つの部族国のスルタン(土候)が話し合って1つの連邦国家を建設した。それがUAE(UNITED ARAB EMIRATES)だ。その中で150年分の埋蔵量を持つアブダビ首長国は前号で紹介した。この読み物は、そこから目と鼻の先にあるUAEで2番目に金持ちの国、ドバイ首長国の見聞だ。
アブダビからドバイの市街まで130キロ。厳密に言えば隣りの国なのだが国境のバリケードや検問所があるわけではない。片道3車線のハイウェーを飛ばしているうちに、いつの間にかドバイ領内に入っていた。高速道路の両側に異様な風景が展開する。所々に白いガードレールの代りに高い緑色のフェンスが作られている。このフェンスの切れ目には金網が張られている。
「あれは、ラクダ除けのネットです。高速道にラクダが入ってきたら大変だから……」。案内役のシュリヤナッツ・デヤン君が教えてくれた。彼はドバイのガイドの免許を持つ英語のうまいセルビア人だ。
「野生でなく放牧してるんだ。ベドウィン族の砂漠の乗用兼運搬用であり、食肉でもある。ラクダ1頭の値段は子供だったら300から400ドル。大人なら2000から3000ドル」。
持参したガイドブックに、ドバイはラクダのレースが有名だと書いてある。
「そう。でもラクダの投票券を買って当たっても、現金の配当はない。賞品をくれるんだ。イスラム国は賭け事は禁じられている。競走用のラクダは高いよ。1頭で10万ドル以上もする」。
賭け抜きのラクダがどうしてそんなに高いのか。
「王族が1等になったラクダの持主に、賞金をくれるんだ」
コーランを調べたら「狩りに出かけて賭け矢をすることまかりならん」とあった。イスラム国の賭け事禁止はここから出ているらしい。日本のパチンコが出玉を現ナマではなく金券代りの賞品と交換する建前をとっているのと似ているではないか。
ラクダのネットが張ってある高速道路の柵がどうして万国共通の白の標識ではなく緑なんだろう。ダヤン君の解説がふるっていた。
「UAEのアラブ人たちが金持であることを自慢したいからだ。砂漠のアラブ人にとって昔から緑は豊かなることの証だった。オアシスに生えるナツメヤシの木や木漏れ日の下で栽培される野菜や牧草がそれだ。この国はハイウェーを樹木で囲むだけでなく、砂漠のいたる所に回転式の散水機を備えて野菜だけでなく草まで生産している。人工栽培の牧草を飼料にして牛を飼う大牧場もある。ドバイのミルクの90%は自給だよ」。
現代のドバイ人が緑の恩恵に、ふんだんに預かれるようになったのは、言わずもがな石油のおかげだ。石油以前のドバイの人々はどんな暮らしをしていたのか。ドバイの下町の古いスークの隣に1971年に開設されたという博物館がある。港を守るため19世紀に建設された石造りの砦をそっくり転用したものだが、なかなかの見ごたえだ。
中庭にインドから運んだ木材で作った実物大の小さな漁船と、ナツメ椰子の葉とわずかな木材で作った苫屋があった。
1960年代初めまでは、庶民の住宅として実在したそうで、天井には天然のエアコン用の“風の塔”がついている。博物館内にはドバイの苫をしのぶジオラマがある。半裸のハダシで荷物を運ぶドバイの労働者、海岸の漁村に苫屋が並び、漁民が魚を箱詰めにする風景などなど。「石油成金になっても昔を忘れぬように」とカネに糸目をつけずに製作した展示物だけに一瞬実物に出会ったような錯覚に陥入る。そして日本の小学唱歌の歌詞を思い浮べたのだ。 「我は海の子 白波の騒ぐ磯部の松原に 煙たなびく苫屋こそ 我が懐かしき住家なれ」。もう日本人が歌わなくなった100年以上も昔の日本の風景だ。だが、ここに展示された「煙たなびく苫屋」の苫は、ドバイではついきのうの出来事、1960年代の情景だった。この国の近代化の何と速かったことか。「おそらく世界最速の近代化」ではなかったか。そう思って博物館の売店で、「ドバイとはどんな国か。その足跡」なる本を求めた。
この国の歴史、長い話を短くするとこうなる。ドバイの首長の一族が内陸からやってきたのは1830年代であった。UAEの副大統領兼首相もやっている彼の名はSheik Maktoum Bin Rashid Al Makatoum。「BIN」は息子、「AL」は○○家をさす。マクトウム家のラシドの息子シエイク・マクトウムという。彼の父シエイク・ラシドは真珠採りと漁業を細々と営んでいたドバイを、インドと欧州の貿易の中継基地に変身させた。ドバイを関税ゼロの自由港とし、海外から集まった金をインドに密輸出したのを手始めに綿や香料などの海のシルクロード貿易の主要商品中継港となった。
1950年代末には、すでに湾岸の大産油国となっていたクウェートから借金して、ドバイの町を流れるクリークを深く、広く改修する工事を開始した。1963年完了、クリーク周辺にはビルが立ち並び、博物館の展示と同型の煙たなびく苫屋は、ついに取り壊された。
中東の小香港と命名されたドバイ首長国の沖に石油が出たのはその3年後であった。
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