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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 半旗・反旗  
コラム名: 私日記 第51回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2004/03  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2003年11月14日

 朝、社会貢献支援財団の横山道雄理事長と台北へ。

 李登輝前総統のお住まいになっておられる公邸に伺う。社会貢献支援財団は日本財団の関連財団で、日本社会で時には命をかけ、或いは長い年月、地道に貢献してくださった方たちを、毎年25人ほど表彰している。私は受賞者を決める選考委員の1人である。

 5人いる委員の4人半が、長年の日本への精神的支援を感謝して李登輝氏を推し決定した。4人半というのは、その中の1人は、李登輝氏のどこがそれに値するのかあまりぴんと来なかったようだが、敢えて反対はしなかった。選考委員会で決定されると、次の段階は理事会の承認、その後に、受賞者に「この賞を受けられますか?」と聞かねばならない。

 理事会から、新聞記者に発表するまでが2時間。当方としては、李登輝氏の秘書に、その時間の間にお電話を差し上げるとすれば、前総統はどこにおられ、どのようにしたら電話にお出になって頂けますか?と下準備をして置かねばならなかった。

 その際、秘書の方には、電話の主旨を伝えておかないと不自然になる。しかし理事会は否決した。私は理事会に出ていないので、ほんとうの経緯はわからない。しかし「事なかれ主義」の空気も濃厚にあったのは本当のようである。

 私は全く迷わず理事会の決定に従うことにしたが、李登輝氏の受賞の何を恐れたのか、実は今もってわからない。反対理由を整理すると、次の数点になるようである。

 第一。外務省が李登輝氏にヴィザを出すかどうかということ。それは当方が悩むことではなく、外務省が考えて決定すればいいだけのことだ。外務省がヴィザを出さない場合どうしますか、と私は言われたが、その場合は私が賞を台湾までお届けするだけのことだから、問題はない。

 第二。授賞式には常陸宮・同妃両殿下がご臨席になる。李登輝氏が出席すると宮様を政治に巻き込むことになり、宮内庁があれこれ言うだろう。このことに関しても答えは明白である。決めるのは外務省なのだ。外務省が李登輝氏の出席を認めたら、宮家はその決定の通りにされるだろう。外務省が李登輝氏の入国を認めなければ、つまり李登輝氏はその場におられないのだから、宮内庁が心配することもなく、宮様のお立場が悪くなることもない。
第三。日本財団はこの決定を何とマスコミに説明するか。これも私がすべて引き受けます、と実は言っていたのである。日本財団は一民間の財団であり、李登輝氏は今は私人である。一財団が一私人に賞を出すことに外国からあれこれ言われる筋合いはない。中国がそれに対して文句をつけて来たら(恐らくそのような愚かなことをするわけはないと思うが)、中国と日本は当然違った国体、別の心情を持っているのだから、私たち民間団体は別に中国の指示を受けることもないのである。しかも、日本財団の過去の中国と台湾への経済的支援額を単純に比べても、中国へは今までに日中基金をも含めて拠出している金額は約118億8000万円、台湾へは地震のお見舞い金を含めて約7億7000万円である。どちらに多く肩入れしているかは明白だろう。私は受賞を理由に李登輝夫妻の訪日が実現し、お好きな「奥の細道」を歩いて頂きたいと願っていたのだが……。

 要は勇気の欠如だと思う。極めて悲しい結果になったが、電話の予約をお願いした理由は李登輝氏のお耳にも届いていたから、私は直接お詫びをさせて頂くのに、1時間ばかり頂けないでしょうか、とお願いしておいた。そのための台湾行きである。

 午後2時に公邸に着いて、夜7時に市内のレストランでご夫妻とご友人夫妻と、日本語だけで夕食を頂いて、パトカーの車列をお見送りしたのは9時を過ぎていた。

11月15日〜26日

 「会社」と称する日本財団に出勤するか、家で毎日新聞の連載小説「哀歌」を書くかどちらかの日々。その間に淋巴マッサージ。

 兄妹のように育った従兄へのお見舞いに好物の蟹を送ります、と約束した。「お兄ちゃん、11月23日の休日に着きますからね」と言ったら、23日の午前11時頃、自分で電話をかけて来て、「蟹はまだ着かないんだけどね」である。自分でもうすぐ死にそうなことを言っているから蟹を送ったのだが、到着の日にちも忘れないし、午前中に着かないと自分で催促の電話をかけて来る。これでは当分死にそうにないぞ、と思ったら、つい小うるさい妹の口調になって、「午前中に着くとは一度も言いませんでしたよ。夕方までに着かなかったら、電話くださいね」とイジワルを言ってやった。蟹は夕方に届いた由。

 翌日、猛烈な肩凝り。「気が早くて仕方のないおじいさんなのよ。あれは奥さんに見捨てられて『そんなに蟹が気になるなら、あなた自分で電話なさい』と言われたのに決まってるわ」とマッサージを受けながら言ったら、「年寄りを苛めるから、ばちが当たって肩が凝るんだよ」と説教された。


11月29日〜12月1日

 久しぶりの三戸浜。今年は文旦が当たり年である。ちょっとした薬罐くらいの実が30個くらいは採れる。ただし外側の皮が風で傷ついたりしていて、とにかく器量が悪くてとても市場には出せない。味は大変いいのだが。

 11月30日、イラクで日本人外交官、奥克彦参事官と井ノ上正盛書記官の2人が、イラク人運転手と共に狙撃され死亡したニュースが入った。イラクの自衛隊派遣は「安全を見極めて」と何度でも言っていた政府の偉い人たちがいたのだが。

 1日月曜日朝、三戸浜から日本財団に電話して、社屋上の国旗を3日間半旗にするように頼んだ。


12月2日

 朝朱門が「僕はイラクで亡くなった方への記帳に行くつもりなんだけど、仮庁舎ってどこかな」というので、「あら、私も行くの。だったら財団の車に乗せて上げます」ということになった。

 芝の外務省仮庁舎に着くと中近東の大使館員と思われる弔問客が多い。全国紙の新聞記者が名刺を出して、「外部の方ですか?」と私に聞くので「日本財団の曽野綾子と申します。うちは昨日から半旗です」と言った。

 財団の会議で弔問に行ったことを報告し、新聞記者とのやり取りを、交わした言葉通り話したら、

 「その言葉はまずかったんじゃないですか?」ということになった。そこは自衛隊のイラク派遣反対の新聞社だから「半旗」を「反旗」と書かれているかもしれない、と皆が笑うのである。改めて「さっき申し上げたハンキとは半旗のことで、反旗じゃありませんから」と言うのも大人げないので止めたが、どうなったことだろう。私はいつも話し方がへたなのである。

 午前中大陸棚の調査について、海上保安庁から谷室長。民間の一機関がしゃしゃり出ることではないが、大陸棚の問題は大きく国益に繋がることだから、財団としてお手伝いをすべきことがあったら方向を探りたい、とお伝えしてあった。海賊問題にしてもそうだが、日本財団は、国と民間を自由につなげる任務を持つだろう。

 夜、私が文化功労者にして頂いたことについて、関連財団の方たちが、8階の食堂でお祝いをしてくださった。たくさんの方にお会いできて、こういう晴れがましいことが、一生に一度か二度あるのもびっくりしていいものだ、と思う。
 
 聖地巡礼でボランティアをしてくださった全国モーターボート競走会連合会の若い方は、ローマで教皇庁のカメラマンが撮ってくれた教皇さまとのツーショットの写真を持っていらっしゃった。写真を覗き込みながら、一瞬、時間を超越した。


12月3日〜8日

 『新潮45』と『毎日新聞』の連載を書く。それに年末なので『小説新潮』の短篇「おっかけ」も仕上げた。1人で、時々立って行って料理をしながら小説を書いていると、全くストレスがなくて済む。

 ここのところ、イラクに関する評論は、どうも私の感じと違う。相変わらず「イラク国民」と平気で言う人がいる。イラクは部族国家連合で、我々の言う国家とは全く異なる。それぞれ利害を異にする部族が寄り集まっているのだから、お互いが不平の塊になっても自然だ。識者の中に「国連主導」ならいいという人もかなりいたが、イラクの人にとって主にキリスト教国で成り立っている国連が、何が公正なものか。国連の権威どころか、国連は異物であろう。総理や官房長官などは「安全を確認して」と言われる時、そんなことはできないものだ、ということをどうして思わないでいられるのだろう。安全はこの世のどこにもない。ましてやイラクにおいてをや。

12月9日

 午前中、日本財団の前の日本たばこ産業株式会社(JT)のすばらしい前庭を拝借して、日本財団が続けている障害者支援の、特殊車輌の贈呈式。今年で日本財団は、車椅子が乗り込める車だの、送迎用のミニバスだの、訪問入浴車だので計1万台を贈ることになった。費用は、使用団体が4割から2割負担で、財団が足りない分の8割から6割を払う。すべて競艇ファンの贈り物である。JTの本田勝彦社長に前庭を貸して頂いたお礼を申しあげに行く。

 午後、読売新聞社でお正月用のテレビの録画撮り。5時過ぎ、アークヒルズ・クラブで亡くなったソニーの盛田昭夫氏夫人の良子さんと会い、2人でお鮨を頂いてから、六本木男声合唱団の公演に行く。三枝成彰氏の指導の下で、経済人、医師、政治家、芸術家などあらゆる職種の歌好きのメンバーで作られているグループだという。三枝成彰作「レクイエム」が歌われたので、その歌詞を書いている私も呼んで頂いたのである。白柳枢機卿、駐日ヴァチカン大使にもご挨拶。

 専門家の三枝さんの耳にはいろいろと文句もあるだろうけれど、素人の私は大したものだ、と思う。帰りに盛田さんを送りがてら、音響の博物館みたいに整えられたご自宅の改築後の姿を見せて頂いた。白髪の主、盛田氏の閣達な声が聞こえて来そうな夜であった。


12月10日

 国立劇場で『二蓋笠柳生実記』を見る。テンポが早く娯楽性があっておもしろい。尾上菊五郎さんが演じる二枚目で色男の主人公、柳生但馬守の三男、又十郎は、ひ弱なだめ男から次第に剣術が強くなる変化を見せる。ほんとうにこういう人間の変化はよくあるものだ。

 夕方、ヤマト福祉財団に小倉昌男氏に評議員をお務め頂いたことのお礼を申し上げに行ってから渋谷の「シェ松尾」へ。ひさしぶりに『週刊ポスト』編集部のサムライたちとお会いしてイラクのことなど。


12月11日〜15日

 自衛隊のイラク派遣に関する共同通信社のインタビュー、海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会、毎年集まる「お勉強のよくできる往年の不良少年の会」にお呼ばれした他は家で原稿書き。

 海外邦人宣教者活動援助後援会が決定した案件は、ネパールの教育施設に30万円、ボリビアの障害者施設に275万円、シエラレオネのシスター・根岸の働いておられる学校に生徒用の椅子100個、泥棒を防ぐ塀の建設、内戦の時に兵士たちに性的危害を加えられた少女たちに学業を再開させるための小さな寄宿設備、車椅子のファツマタ・アグネス・バングラという高校生のスカラシップなどに、338万円。カメルーンのピグミー族とカコ族の子供たち計38人などの学費や教師の給料に173万円。南アのホスピスに患者送迎用の四駆を買う代金として483万円。コンゴ民主共和国のブカブに小学校を建てるための資金450万円などで、計1749万円を決定。

 「往年の不良少年の会」は、別に正式名称ではないのだが、話しぶりを聞いているとどうもそういう感じである。現代の新鮮な話題と過去の笑い話がおもしろい取り合わせ。


12月16日

 日本財団への出勤日。5時からTBSラジオの録音。中村尚登さんとのアフリカの旅の話。ラジオは落ち着いてしんみり話せるから大好きである。


12月17日

 午後、お台場の「船の科学館」においてあった二式大艇を、防衛庁に返還する儀式があった。

 二式大艇は4発、高翼単葉の飛行艇である。1943年から作られたもので、巡航速度時速333キロ、航続距離は実に8334キロという当時としては考えられない性能を持っていた。アメリカはこの飛行機の性能のよさを知っていて、戦後アメリカに持ち帰って研究していたが、1978年スクラップにされる直前に「船の科学館」が引き取り、大規模な移送、復元、保存を続けて、30年近くお預かりしていたものである。

 今回、自衛隊の鹿屋航空基地資料館を安住の地にしていただけるという。午後1時半から石破防衛庁長官も来られて譲渡式典。海上自衛隊軍楽隊も出演してくださった。二式大艇に乗られた方やその奥さまも数人出席して頂けてほんとうによかったと思う。

 その後記者懇談会。大陸棚の調査は緊急に必要なものと思われるので、日本財団は全面的に必要なサポートをする用意があることも言う。海賊に対する情報センターを始めた時もこんな感じだった。

 夜、日本財団の理事・評議員の忘年会。おいしいお魚の清蒸しが出て、一番目上に差し上げるべき頭のところが眼についたので、隣席の小倉昌男氏に、「持って帰ってくださいます? 電子レンジはお使いになれますね」

 と伺って包んでお持たせすることにした。小倉夫人の玲子さんは私の大学時代の同級生だったが、12年前に亡くなられた。ご主人はそれ以来お一人暮らし。お元気に活躍されておられる姿を見ると、つい玲子さんのことが思い出されて所帯くさくなった。


12月18日

 午前中に連載の資料をカバンに詰めて、午後の全日空便でシンガポールヘ。飛行機の中は静かで、ずっとアフリカの虐殺に関する資料を読み続けられた。


12月19日〜30日

 ナシム・ヒルの家では、毎日原稿を書き、遅めの昼ご飯を外に食べに出て、夕食は私が和食を作り、夜は推理小説を読む。リサ・マークルンドの『爆殺魔』、パトリシア・コーンウェルの『業火』の2冊。どうしてここへ来ると本までたくさん読めるのだろう、と思う。

 朱門は外へ出ると、必ずパパイヤを買う。パパイヤが家にないと落ち着かないらしい。パパイヤは1個100円くらいのもあるから、2人で1日50円分を食べて満足している。

 おもしろかったこと。クリスマスのライトアップが華やかなオーチャード・ロードのあちこちで、雪降りの時間をもうけている。ショッピングセンターなどで、7時と8時と9時というように時間を限って、雪みたいに見えるものを降らせる。「単なる泡だよ」と言う人もいるが、融けかけの雪程度には地面に積もる。通りかかる車は必ず速度を遅めて眺めている。出稼ぎに来ているメイドさんたちなどは雇い主に車で連れて来てもらっている。彼女たちは写真を撮って故郷に帰る時の土産にする。「シンガポールはすごい町です。雪まで降るのですから」などと私でも書くだろう。『南の島に雪が降る』という終戦後の軍人たちの涙流れる芝居も、もう過去のことになった。

 チャイナ・タウンの乾物売り場では「網茸」も買う。これはストッキング状になっているキノコの乾物で、お鍋や妙めものに欠かせない。インドネシアの調味料サンバルも買う。食べ物ばかり買うのは、終戦前後に培われた特殊な精神的貧困病の後遺症である。

 30日の夜行便で帰国。


12月31日

 午前中に家に帰り着き、すぐに淋巴マッサージ。おせち料理を作るというより、数の子など好きなものだけチェックした。玄関には三戸浜でとれた大きな文旦をお供え代りに緑の枝と飾っておいてくれた。何でも家で採れたもの、あるものをきれいに飾って喜ぶ癖がついているが、亡き姑はそれが一番好きだった。「あの人はケチだったから」と朱門は言うがうちで採れました、というと、どこの母でも喜ぶものだろう。

 一家が大過なく過ごさせて頂いたことに感謝する。心がけでそうなったのではない。神さまの贈りもの。例によって、テレビも見ず、読みかけのコーンウェルを読んで除夜の鐘も聞かなかった。


2004年1月1日

 昼までに太郎(息子)夫婦と太一(孫)が来る。夕方までに義姉と妹夫婦も来る。義弟と息子と孫は、ぶどう酒を選んであれこれと論議をするが、私は聞き役。息子が「棚の一番下だけにいいお酒を集めたからお客の時にはそれを出すといいよ。上の段のは、シチューとか果物を煮る時に使った方がいいのだから、覚えておいて」と見るに見かねて仕分けをしてくれた。

1月2日

 太一は家で本を読むというので、太郎夫婦と朱門と私とで、ドライブに出かける。結局、横浜まで行ってしまい、ニューグランド・ホテルで昼食を食べた。もう何十年も来ていないのだが、私はよくこのホテルで小説を書いていたのである。2月1日から東横線が、元町まで乗り入れになり、30分もかからずに中華街まで行けるようになる。

 東京の交通網の発達は信じられないもので、昭10年代半ば、寒風吹きすさぶひなびたホームしかなかった田園調布という駅は、今は完全な地下駅になり、エレベーターもある。1本で銀座にも永田町にも行ける。永田町には何も用事はないのだが……。知人に会うと「お宅のお近くの駅には、エレベーターがありますか?」とわざと聞くことにした。まだ東京にも「ありません」という私鉄の駅が結構あるのだ。差がついてちょっといい気分になる。

 現実的にこうした設備が必要なのは、市民に老人が増えたからである。ちょっとした設備をして、皆が何歳になっても1人で出歩けるようにして、若い者の介護の手を省き、老人の医療を安く抑え、しかも老世代に幸福に生きてもらわなければならない。


1月4日

 太郎夫婦を大阪に送り出してから、国立劇場の新春大歌舞伎、四世鶴屋南北作『浮世柄比翼稲妻』を見にでかける。名古屋山三は二枚目で、彼に惚れたお国は、毒を飲まされて死の直前にあるにもかかわらず、そうとは知らない山三に言われて必死で水を汲んできたり編笠を渡したりする。三浦朱門は観劇中にぶつぶつ言う。

 「女房が死にかかっているというのに、水を持って来いの、編笠を取ってくれの、そんなことくらい、自分でやれ」

 「色男は何を言ってもいいのよ」

 「あんな能無し、色男なものか」

 「家事が何もできないのは、東大法学部出だからなのよ」

 もっともこういう会話は、周囲に聞かれたら困るのである。
 

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