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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 「アルメニア」って、どこにある?(上)  
コラム名: 旅日記 地球の裏読み  
出版物名: 月刊ぺるそーな  
出版社名: マキコデザイン株式会社  
発行日: 2004/02  
※この記事は、著者とマキコデザインの許諾を得て転載したものです。
マキコデザインに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどマキコデザインの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ あの「コーチャン」の生まれ故郷 ≫

 アルメニア共和国。この国名がしっかりと私の頭に刻み込まれたのは、1970年代の中頃、日米をまたにかけた疑獄がきっかけだった。疑獄とは田中角栄総理逮捕に発展したロッキード事件だ。これがきっかけでわが国とはおよそご縁のなかった当時のソ連圏の小さな共和国、アルメニアの存在が日本のマスコミに意識されるようになった。というのは、全日空の次期旅客機として、ロッキード社製のトライスターの売り込み工作の総指揮者が、この会社の副社長「コーチャン」で、アルメニア系の米人であったからだ。

 スタンフォード大、ビジネス・スクール出の敏腕ビジネスマン、コーチャンは、事件発覚後、捜査当局に対し、ロッキード→丸紅→田中総理への贈賄ルートの全容を暴露し、その代償として刑事免責をとりつけいちはやく身の安全を確保した。「チャッカリした男がいるもんだ」。国際ビジネスの駆け引きにはウブな多くの日本人は、その変り身の早さにある種の異文化ショックを受け、マスコミは彼の出自を問うた。

 いわく「社会主義のセールスマンと言われるソ連のミコヤン副首相もアルメニア人。アルメニア人は商才に長けており、取引の朽みさはユダヤ人以上だ」とか「アルメニア民族は優れた音楽家を輩出している。べルリンフィルハーモニーのカラヤン、作曲家ハチャトリアンなど。ところで、末尾にヤンがつく姓をもつものは、アルメニア系である」etc。にわかアルメニア論まで登場した。たいていの人は、そんな一過性の話は忘れているに違いない。だが、それ以来、私は遠い異文化のこの国をいつかは訪れてみたいと思いつづけた。あれから四半世紀、ふとしたことから、チャンスがめぐってきた。

 橋渡しをしてくれたのは、セルゲイ・バラサニアン博士という人物だった。アジア地震学会々長の肩書きをもつアルメニア人科学者で、東京で開催された地震に関する国際会議に出席するため来日していたのだ。

 初対面の彼は私にこう言った。

 「日本とアルメニアはともに古い伝統をもつ国だ。だがお互いに異質の国だ。歴史も文化も宗教も、そして地政学的な環境もね。例えば、アルメニア史の特徴は何かと問われれば、海のない小さな内陸国であるが故に、周囲の大国にいたぶられ続けてきた。つまり歴史というものは、アルメニア人に対し苛酷であったということさ。それにひきかえ日本は、海に囲まれた島国であるが故に、他国の侵略なしという、世界でも稀にみる幸せな歴史をもっている。両国はあらゆる面で、正と反の両極に在る。でも、共通点がある。ひとつはアルメニアと日本はともに世界有数の地震国であること。ふたつ目は、それぞれ崇拝する神の山をもっていることだ。」

 日本人にとっては、言うまでもなく霊峰富士山。アルメニア人の信仰の対象は旧約聖書のノアの方舟が着地したといわれる聖域アララト山だという。

 「それはどこにあるかって? 実は、いまはトルコ領になっている。その山を世界で初のキリスト教を国教としたアルメニア正教徒として、晴れた日には欠かさず国境越しに遥拝しているのさ。そんな山岳信仰のことは、アルメニア人にしかわからない。だいたいね、世界でアルメニアがどこにあるのかさえ知ってる人は極めて少ない。コーカサスにあるアルメニアとバルカン半島のアルバニアが区別できないのはごく当り前になっている。オオ、わかった。お前の国はアルジェリア(北アフリカ)かと言われたことさえあるんだ。」

 いちいち話が面白い。ロッキード事件のことなどどうでもよくなってきた。コーチャンの取りもつご縁で興味をそそられたアルメニアという国、バラサニアン博士の話を聞くうちに日本文化とは正反対の極にあるとてつもなく奥の深い未知の山国に思えてきた。その異文化を実地に体験できたらと思うと、矢も楯もたまらなくなってきた。

≪ 世界最古のキリスト教国 ≫

 2003年10月、幸運にもアルメニアの首都エレバンで開催されたWHO(世界保健機関)の会議出席の仕事が舞い込み、エレバンの住人バラサニアン博士と再会したのだ。「アルメニアってどこにあるの?」から、話を進める。所在地は、コーカサスの山中。といってもコーカサスとはそもそもどこにあるのか説明が必要だろう。黒海とカスピ海の間に、北西から南東につらなる日本列島ぐらいの長い連山がある。コーカサス山脈だ。北は、チェチェンのあるロシア領、山脈の南側には、アゼルバイジャン、グルジア、そしてアルメニアがある。この国の地政学的環境は厳しい。4つの隣国に囲まれているが、アゼルバイジャンとトルコとは国交断絶で陸路は閉ざされている。イランとグルジアの国境は開いているが、どちらも不便だ。結局空路で行くしかない山奥の国だ。ソ連時代はモスクワ経由が“空の王道”だったが、ロシアは入国の面倒な国だ。やっと探し当てた便利なルートが、ウィーンから首都エレバンまで、オーストリア航空の3時間半の空路だった。

 機中で、持参した英語の旅行案内書、「Lonely Planet」で、この国の歴史についてざっと目を通す。その著者が冒頭の言葉として「歴史そのものがアルメニア人をして、不孝な境遇におとしめた」と記しているのには驚かされた。でも、古代は栄光に満ちあふれていた。古代のアルメニア領は、旧約聖書にもあるメソポタミアの上流のアララト周辺の豊饒の地で、紀元前1世紀、強大なアルメニア王国が築かれた。紀元301年、時の王、ティリディウス2世が、キリスト教を国教とし、世界歴史上初のキリスト教国となった。その後、ササン朝ペルシアとアラブの支配を受けたが、撃退、首都の「エレブニ」(いまのエレバン)は、「千と一つの教会のある町」とうたわれるほどの発展をとげた。

 歴史の逆風が吹き荒れたのは、11世紀のビザンチンによる征服が始まりだ。このあと13世紀のモンゴルの侵入、17世紀には、トルコ、ペルシャと強国の支配がつづいた。とくにトルコの支配は過酷で、キリスト教徒のアルメニア人は迫害を受け、追放や虐殺が相次いだ。それが多くの離散アルメニア人を生む原因になったとこの本には書かれている。1918年オスマントルコの第1次大戦敗北を機に独立を宣言するが、ロシア革命間もない赤軍の侵略により瓦解。1920年、アルメニアにソビエト政権が樹立された。以後70年間、ソ連の一共和国の地位に甘んじた。1991年の独立達成後、隣国のイスラム教国アゼルバイジャンとの間に、ナゴルノカラバフをめぐる領土紛争が起こり、いぜんとして四面楚歌の地政学的環境にある。

 首都エレバン、地図で調べたら天敵、トルコの国境まで30キロに位置していた。9月と10月が、最高の旅行シーズンだと旅行案内書にある。「そうだ、良いときに来たね。爽やかで、しかも穏やかだ。緑も花も一番きれいな時期だ」とバラサニアン博士。エレバンを一望のもとにおさめられる丘に案内された。アリンベルドの丘である。

 最近発見された楔形文字を刻んだ粘土板を解読したところ、紀元前783年、古代の王がここに要塞都市を築いたと書いてあったという。「つまりは、エレバンの発祥の地さ」と言う。雲が晴れて待望のアララト山が、姿をあらわした。国境のすぐむこうのトルコ領内にそびえる標高5165メートル、真白に輝く聖なる山だ。


≪ ノアの方舟とアララト山信仰 ≫

 「29日ののち、ノアは方舟のドアを開いた。水が引いていた。さらに8日後、地面は乾いていた。神はノアに外に出てよろしいとのたもうた。ノアと妻、そして息子たち夫婦は、多くの動物や、亀やトカゲや爬虫類や鳥とともに地上に降り立った。神はノアと3人の息子たちにこの地で子孫を繁栄させるように命じた。爾後、ノアの3人の息子夫妻は地球上のすべての人々の祖先となった」

 創世記には、たしかにこう書かれている。ただし、方舟の漂着地が、アララト山のふもとだったとは、旧約聖書には書いていない。

 「いや、状況から見てそうなんだよ。30年ほど前に、ノアの方舟とおぼしき木片がアララト山で発見された。明日、その実物を見せてあげる」。敬虔なるアルメニア正教徒であるバラサニアン博士は語気を強めてそう言った。異教徒である私にとっては、方舟がどこに漂着しようと所詮はセム族の伝説上の話なのだが、彼らは宗教史の中の現実ととらえている。自分が人類の祖先ノアの本籍地に住んでいるのか、それとも傍流中の傍流である極東の島の住人であるかは、アルメニア人にとっては重大問題で「月とスッポン」以上の違いがあるのだろう。

 エレバン発祥の地のエレブニの要塞には遺跡の品の数々が展示されていた。この遺跡は、トルコ人の虐殺をのがれて1915年米国に移民し、ラスベガスのカジノ王となったキルゴーリア氏の援助で修復されたとのことだ。展示品の中に、直径3メートルはあろうと思われる超大型の素焼きの瓶があった。1500リットル入りのワインの容器だという。「3000年前のものだが、1万人にワインを供することができる世界最大のワインの瓶」。バラサニアン氏に、アルメニア語の展示説明を読んでもらったら、そう書いてあった。ここに限らず、エレバンには英語の表示が極めて少ない。

 この国を訪れる観光客の大部分は、虐殺でアメリカや欧州に逃れた約80万人のアルメニア人の里帰りなのだから、説明書はアルメニア語で十分なのだろう。そもそも異教徒はお呼びでないらしい。丘の上の博物館には、先生に引率されたアルメニア人の高校生の団体が来ていたが、展示物などそっちのけで、私の顔を見つめていた。遺跡よりも日本人の顔の方が珍しい。それほど東洋の異教徒とは接触する機会をもたない山国なのだ。

 エレブニの古城の丘から、直下を見おろす。大工場群が立ち並んでいる。よくよく見ると、操業している気配がない。「捨てられた工場なんだ」とバラサニアン博士。ソ連時代、アルメニアは全ソビエトの分業体制に組み込まれ、産業の90%は軍需だった。弾薬を製造するための化学工業、武器を作るための機械工業、軍服を縫製するための繊維機械などに特化していた。

 私たちに同行してくれたバラサニアン氏の運転手アレキサンダーは、モスクワ工大出の花形レーザー技師だったという。

 「ソ連の分業体制の中で、アルメニアはかなり優遇されていた。だから各共和国の中で、アルメニアの生活水準が一番高かった。」

 ソ連の崩壊とともに、工場閉鎖が続出、やむなく運転手になったアレキサンダーがそう言った。ソ連離れしたこの国の経済は、農業は従来通りだが、それ以外はレストランやディスコのようなサービス業が突出し、製造業が不在で、生活水準はソ連時代よりも低下してしまったという。捨てられた工場群に隣接して住宅地が広がっている。

 どの家も小さな庭がついてあり、こぎれいな生活環境を保っていた。ソ連時代に建てられたもので、所得でいうと中の下の階層が住んでいるという。この国の1人当り国民所得は、年間約7200ドル。日本の6分の1の水準で所得の世界ランクは真ん中よりちょっと低い。所得は低くても、住宅事情は決して悪くはない。


≪ 「ノアはワインに酔い裸で昼寝した。そして……」 ≫

 小さな庭にぶどうの木を植えている家が多い。「太陽の光の国」の別名をもつアルメニアは、陽光と、肥えた土地、そして良い水の3つの好条件がととのっており、古代からワインの名産地だった。「旧約聖書を読んで見なさい。方舟から降りたノアは、ここでブドウを作り、ワインを飲んで昼寝したと書かれている」。バラサニアン博士が言う。かつがれたと思って後刻聖書を開いてみた。「ノアは農夫になり、ぶどう園を開きワインを作った。ある日ノアは、ワインに酔い、お尻丸出しで昼寝をした。そこを末子のハムが通りかかった。やがて眼をさましたノアは就寝中、彼が自分に何をしたかを知ったノアは激怒し、神はお前の子孫をすべて奴隷の身分に落とすであろうと呪った。」

 創世紀の「ノアの方舟」の章には、それがアルメニアの地だとは明記されていないものの、彼の指摘通り、ワインの話が、しっかりと書かれていた。ノアは洪水ののち350年ブドウ作りの農夫として暮し、950歳の天寿を全うしたと、聖書は方舟の章を締めくくっている。

 というわけで、アルメニア人にとっては、聖なる作物ブドウから作られるワインとブランデーは世界で最も由緒のある酒なのだ。アルメニア産のブランデーを「アルマニャック」というが、とりわけ1887年誕生の「アララト」は、英国のチャーチル元首相のご推奨の銘柄だと、英国発行の旅行案内書に書かれている。私も試してみたが、かなり甘口で口に合わない。おそらくこの山間部の気候がブドウの生育期にはおよそ雨の降らない晴天続きであるところから、糖分が強いのだろう。

 この国を旅行するとすべての話が、つきつめると「アララト山」に結びつく。日本人も根強い富士山信仰をもっているが、アルメニア人のアララト山信仰には及びもつかない。「アララト」にはいささか食傷気味の私が、そう言ったら、バラサニアン氏から至極真面目な答が戻ってきた。

 「もし富士山が、中国とかアメリカに占領されていたらどうなるか考えたことがあるか。私たちの心の故郷アララト山は、もう何百年もトルコに占領されてるんだよ。山が見えないならあきらめもつく。首都から数十キロの南に美しい山が、晴れた日にはこちらを見ているんだから、思いがつのってくる。この気持ちわかってほしい。」と。

 アララト山をテーマにした美術展が、2つ市内で催されている??と彼に誘われた。「アララト展」のハシゴである。第1会場は、子どもの絵の常設館だった。国際子供美術展と銘打った展示場には、山という題で欧米、日本を含めたアジア、そしてアルメニアの子どもたちの絵が並んでいたが、特定の山が画かれたのは、日本の冨士とアルメニアのアララトだった。そのひとつに見事な出来栄えのノアの方舟の児童画があった。富士山とよく似た霊峰アララトを背景に、ノアの方舟が浮んでいる。ライオンと虎とおぼしき動物たち。洪水が引いたかどうかを偵察するハトが飛び立ち、舟首と舟尾には、年老いたノアの夫妻、そして舟の中には、ノアの3人の息子夫妻が座っている。この構図をながめつつ、この国の子どもたちにとって、聖書がいかに身近な存在であるのかを知らしめられた。


≪ 大ヒットしたポスター ≫

 もうひとつの会場では、現代アルメニアで最も有名な画家に紹介された。アラム・イサベキアン氏だ。「アララト」を題に、数十の作品が展示されている。イサベキアン氏は、美術家協会会長だ。

 「私の父はアララト山のふもとのウードルに生れた。4歳のときトルコ人のアルメニア人虐殺をさけて、エレバンに逃げてきた。90歳になるが元気だ。父も母も画家だ。私は国境を越えて、トルコ領内にあるアララト山に行ったことはないけど、父によれば、エレバンから見るアララトが画材としては最高だそうだ。父は私が子供のとき、日本人の富士山信仰について話をしてくれた。日本人とアルメニア人は、何か心が通じあうんじゃないのか。」

 「アルメニアは、アジアかい、それともヨーロッパか」と水をむけたら、「80%はアジア、残りの20%がヨーロッパだ。父は日本に行ったことがないけど、日本の神道が大好きだといっている」。51歳になるこの国を代表する画家はそう言った。街中で、面白いポスターを見つけた。真白きアララトの高嶺を背景にサムライ装束をしたアルメニア美人が、剣を構えている。富士山とアララト信仰をつなぎ合わせた商業広告のヒット作という。広告主は? なんと「富士通」だった。
 



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