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1973年、私は偶然アジェンデ政権が倒れた直後のチリに行くことになった。私は第一線の記者のように人をかき分けて「前線」に出るつもりはなかったのだが、日本を発つ日を決めていたら、その約1カ月前に政権が倒された。まだ市内には時折銃声が聞こえ、戒厳令も敷かれたままだったが、予定通り出かけたのである。
私はささやかな「ワイロ用」のつもりで、1ドル紙幣で300ドルを懐に入れ、チリに国境を接する主な国の査証を取って、どこへでも脱出できるようにしていた。
チリの経済状態はかなりの混乱に陥っていて、物は不足し物価は上がって生活は苦しそうだった。チリに着くと知人のシスターが1泊200ドルは取られる私のホテルにやって来て、私の1泊分のお金で「うちの修道院全員が1カ月暮らしている」と言う。それで私は修道院の世話になることにした。私がわずか数百ドルを差し出せば修道院の暮らしはとたんに楽になるのである。
予定の滞在期間にいい取材もできて、バスでアンデスを越えてアルゼンチンに出た時には少しほっとした。私もまだ若かったので、まっさきに考えたのはチリでは食べられなかった大きなステーキを食べようということであった。ところがレストランに行ってみると、今アルゼンチンでは上等な肉は国内で食べず輸出に廻す政策を取っているので、内臓や枝肉で作ったシチューのようなものはあるが、今日はステーキを出せない日だ、という。
一国は一つの家庭と同じで、大小さまざまな運命や経済的浮沈を、国民が等しく受け止めるのが当然なのだ、とその時、改めて思った。
アメリカのBSEの影響で牛丼が食べられなくなることくらいで騒ぐ人たちを見ると、情けない。食べたければ自分の家で作れない料理ではないのである。もちろん味が違うと言うのだろうが、似せて作る工夫をする楽しみはある。
まだ息子が幼かった頃、私たちはニュージーランドとオーストラリアを旅行した。途中で息子は知人から羊の角をもらい、それを大切に抱えて歩いていた。ところがオーストラリアへ入国する時、それを取り上げられそうになった。防疫が厳しいのである。息子が悲しそうな顔をすると、どうしてもほしいならここから日本に船便で送るように、と言われた。
前にいた国で牧場に出入りしたことがあるか、とも厳しく聞かれた。靴の裏の消毒のために薬液の染みたマットの上を歩かせられたこともある。用事のない人間を、鶏舎の近くに立ち寄らせない農場もあった。
何ごとも安全を考えれば、厳しい制約がつきまとう。自由気ままに暮らして安全が手に入ると思っている日本人が、この際、少し鍛えなおされるのもいいことなのだろう。
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