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青年時代の一時期、高野山の一院で生活した経験があります。そのころ、釈迦生誕の地であるインドに漠然としたあこがれを抱いていました。長じて、インドが極めて身近なものとなり、業務上、この1年間で5回訪印しました。現実のインドは、あこがれなどというヤワな言葉とは無縁の難問多々の国でした。
私は2001年、世界保健機関(WHO)のハンセン病制圧特別大使に任じられました。2005年までに世界すべての国で罹病者を人口1万人に対し1人以下にするため、各国の指導者とメディアに協力を要請すること、実際の現場での進展状況の確認が主な任務です。現在、未制圧の国は6つ、なかでもハンセン病患者の7割強を占めるインドでの制圧が最重点であり、いきおい訪れる機会も多くなったのです。
インドでは1月30日は「ハンセン病患者救済の日」となっています。この日は56年前、インド独立の父マハトマ・ガンジーが暗殺された日にあたります。非暴力主義を説き、抗議の断食を行い、日々、糸繰り車をまわしていたガンジーはハンセン病患者の救済にも心血を注ぎました。「ハンセン病患者の救済なくして国としてのインドの生命的躍動なし」と説いた聖者にちなんで「ハンセン病患者救済の日」が定められました。
ハンセン病制圧に携わる者として、一度はゆかりの土地を訪れたいと願ってきました。そして昨年12月、インド中央部に位置するマハラシュト州ワルダーにあるセワグラム・アシュラムと呼ばれるガンジーの修道場を訪れることができました。
ここは1936年から度々、ガンジーが居住し思索瞑想した場所で、史跡として当時のまま保存されています。修道場の家屋群はみな粗末な瓦屋根に土壁の質素なもの、ガンジーの部屋も寝台と糸繰り車以外、何もありません。ただ一隅に場違いな電話室がありました。英国植民地政府が動向チェックのために設置したとされていますが、ガンジーはこの電話を使い、辺境の地から独立運動を指導したとも言われています。ここは英国からの独立に燃える志士たちの拠点でもありました。
いま、掃き清められた修道場は静謐で、沙羅双樹の巨木が日陰を作っています。しかし、このアシュラムの門を一歩出れば、そこにはインドの混沌が存在します。気が狂ったように道路を行き交う車、貧者の群れ、喧騒の町並みが続き、ひしめく10億を超える人々。多宗教に多言語、カーストと呼ばれる常人の想像を超える身分差別??。多くの人々が記すごとく、度し難いまでにインドは多様であり多面です。
インド第2の都市ムンバイにあるアジア最大の都市スラムと評されるダラビーは、インド各地から移住してきた貧者であふれています。60万とも100万ともいわれる人々が、約175ヘクタールの土地にひしめき合って暮らしています。家々はいわゆる掘っ立て小屋ですが、基礎はしっかりと泥煉瓦でできているものも多くあり、居住者のなかには親子3代、この土地で生きている人もいます。この地区を担当するハンセン病関係者が、迷路と雑踏のなかを的確に患者の家に案内してくれたのには正直、驚きました。
不可触民である彼らの生活は一様に貧しいけれども、ものごいではありません。低賃金の縫製や食品加工、清掃などの仕事に従事しています。一見、混沌そのものと思われますが、郵便物も配達され、一定の秩序は保たれているといいます。
静寂そのもののセワグラムがインドなら、喧騒・混沌のダラビーもインド。ただ、格差はあまりにも大きく深いのです。きな臭く、諸事に力がものをいう昨今、ガンジーの非暴力の思想は時代に合わないのでしょうか。些事から大事、人間のあり方、生き方などさまざまに考えさせてくれるインドは、私にとって、いまだに神秘と謎に満ちた不思議な国なのです。
この稿が掲載されるころ、私はまたインドにいます。すべての謎は解けないにしろ、紀元前6世紀から社会的差別を伴ってきた悲劇の病気、ハンセン病を来年末までに制圧することがいまの私の最大の仕事です。
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