|
1月9日付の毎日新聞は、いい紙面を提供していた。
11面にはサマワから、小倉孝保特派員の記事が現状をよく伝えていたのである。中でも注目すべきはサマワ住民の治安維持のための自発的パトロールが開始されたことだが、基本は無報酬のこの住民組織に「先日、サマワ市から、感謝の意味もこめて報酬が出た」という何気ない1行がある。
日本人は感謝状さえ渡せばいいと思う。しかしアラブ人は感謝と共に現実の利益を重んじる人たちだ。
そのすぐ隣の記事は、イラクに派遣される旭川の陸上自衛隊の情況を渡部宏人記者が報じているが、登場する2人の自衛隊員の発言がいい。
「死傷者が出た場合でも、小泉(純一郎)首相は首相の座を降りるべきではない。我々が命懸けで任務を遂行する以上、首相には途中で責任を放棄してほしくない」
当然のことだ。戦いの場に出て行って、犠牲者が1人でも出たら政権を降りるべきだと思う方が、世界の非常識だ。その代わり総理は、その責任を生涯一身に負って生きなければならない。
もう1人の自衛官の発言。「国民が100%賛成だったら、プレッシャーで逆におしつぶされてしまう。半分くらい反対の方がいい」
これは自衛隊員ならずともすばらしい言葉だ。
戦後の日本人は、世間の動向を参考にし、大方の世論に逆らわないように生きることをよしとして来た。大方どころか、すべての人が支持してくれることを期待して来た。そこには1人で耐える勇気も、自分独自の美学を構築する力も皆無であった。しかしこの2人の自衛隊員の言葉は、日本人としてみごとである。
ひさしぶりで「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば千万人(せんまんにん)と雖(いえど)も吾往(われゆ)かん」という言葉を思い出した。千万人、つまり自分の周囲がすべて反対しようとも、自分の心に問うて正しいと思えば進むべきである、ということだ。最近の日本人には、この思いが皆無である。敵に廻す人や反対される思想が存在してこそ、自己の選択と行動の意味が明確になることを知らない。
その頃、或る朝夫が、いたずらっぽい表情で言った。
「ジイサンが言ったって、誰も出してくれないから、安心しておきれいごとを言うんだろうと思われるだろうけど、僕は今、イラクに志願兵を取ると言ったら応募するよ」
「私も」
と私は言った。いつ死んでもいい年こそ、その資格であるような気がした。私はさらに身のほど知らずに付け加えた。
「私をサマワにおいとけば、炊事と情報分析には、結構役に立つと思うわ。おそうざい作るの好きだし、考えることはアラブ人並みだから」
|
|
|
|