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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 散策・イスラムのカイロ (下) 「死者の町」を行く  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2004/01/27  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 旧市街の番外地「北の墓地」 ≫

 カイロの旧市街と幹線道路ひとつ隔てた東側に「死者の町」があると聞いた。ミイラやゾンビがゴロゴロしているところではないとは思ったものの、奇妙な地名に呪文をかけられて、どうしても訪ねたくなった。「死者の町」がどんなところか書く前に同じイスラム地区でこの町と隣り合わせの「旧市街」についてふれておかねばなるまい。

 「旧市街」はナイル側の東約4キロの地点に東西4キロ、南北6キロにわたって展開している。7世紀エジプトを征服したアラビアが、1200年にわたって構築した中世のカイロの都であり、今日でもイスラム地区の中心だ。

 モスク(イスラムの礼拝堂)、ミナレット(モスクに付きものの尖塔)、宮殿、マドラッサ(イスラム学院)、城塞、商人宿、スーク(市場)、袋小路の街並みなどの建築群がユネスコ世界遺産に登録されているだけでなく、いまも賑わうイスラムのカイロの繁華街である。これにひきかえ、「死者の町」は文字通りの街はずれにひっそりと存在するまさしく裏町であった。

 私の泊まったカイロの中心街からナイル川の大橋を渡り、空港に向かうサラーフ・サリーム大通りを30分ほど走ると道の右側に、ところどころ石造りの眼鏡橋が見える。12世紀に建設された旧市街の城壁都市ヘナイルの水を給水する水道の遺跡だ。「あの橋の向こう側の町ですけどね。あれがイスラム地区の番外地みたいな地域で、“貧者の町”とか“泥棒の町”とかいわれている場所です。付近には“死者の町”と呼ばれる中世の墓地もある」。

 2人の仕事の日程がうまく重なって、現地で落ち合ったホジャ・佐々木がそう言った。彼の本名は佐々木良昭氏(東京財団主任研究員、元拓殖大学教授)。リビアでイスラム神学を修めた学者で、アラブ人からは「ホジャ」(大先生)の敬称付きで呼ばれている。ホジャの勧めもあって、眼鏡橋の向こう側にある「死者の町」に出かけた。

 全長1.5キロ、幅1キロ。地図には「北の墓地」とあるが、ここは単なる墓地ではなく、死者と生身の人間が共に住む大スラム街だったのである。

 カイロに限らず、産業革命以降の世界の大都会には必ずといっていいほど、スラム街がある。貧者だけでなく異民族など大都市の中の少数派が、都市社会の淘汰作用から逃れるために結集する。それがスラム街の起源だ。私は世界の大都市のスラムを何カ所も訪れたことがある。

 私の視察によれば、スラムの立地とは、停滞して活気のない地区の中で、比較的都市の便宜の良いところに集中している。橋の下、河川敷、低湿地、駅の裏側、そして火葬場付近や、墓地の周辺である。それが、グローバル・スタンダードだ。

 案内をお願いしたカイロ・アメリカン大学でイスラム美術を教えるバーナード・オケイン教授と、この町に足を踏み入れて驚いた。よその国々のスラムのように、お墓の裏の土地に人々が住んでいるのではなく、大勢の生身の人間が、お墓の建造物の中で、埋葬されて、白骨かミイラになっているはずの遺体と一緒に生活していた。

 「この地域のスラム化が始まったのは1970年代だが、墓地そのものは、14世紀に建設された」とオケイン教授。

 城壁に囲まれたイスラムの旧市街の中で、年々増加する墓地の需要に用地の供給が追いつかなくなり、時の王、スルタン・マムルクが、新しい墓地を城外の砂漠に建設することを決定、城内での埋葬を禁止した。それが北の墓地の由来だという。

 「イスラムには火葬の習慣がないから、時代が経過すればするほどお墓の土地がたくさん必要です。最後の審判の日まで、お墓の中で遺体のまま待機しなくてはいけません」

 「キリスト教も同じでしょ。神の裁きを受ける日まで、墓で休んでいる。イスラムでは預言者ムハンマドに弁護士になってもらいアッラーの神の審判を受け、天国行きか、地獄行きかが決まる」

 「エエ、キリスト教では天国に行けば永遠の生命が与えられ、地獄に落ちたものは死が。イスラムはもっと厳しい。地獄に落ちてもそれは死ではなく、生きたまま永遠に炎に焼かれ続ける」。オケイン教授とお墓で交わした天国と地獄談議だ。

≪ 遺体と暮らすスラム街 ≫

 イスラム教徒にとって、墓は死者の最後の審判の神聖なる待合室であり、仏教国よりも存在意義が大きいともいえる。それなのに見ず知らずの人間が、先祖の墓に住みついても大目に見ることができるのか? オケイン教授の解説が面白かった。

 「イスラム教には、お墓の建物の中で死者と一緒に過ごす習慣はない。これは古代エジプトのファラオの文化ではないかと思う。ファラオの時代、エジプト人は、この世とあの世は連結しているものと考えていた。昔から先祖の墓に泊まりがけで出かける習慣があった。そこで生きている人間はあの世の祖先たちと対話をしたのだ」とのことだ。

 この町の墓が大きいのには、目を見張った。墓の中に人が住んでいるのだから、小さな墓石の周囲を石材で囲った小ぢんまりした日本のお墓でないとは思っていたものの、2階、3階建てはざらにあり、5階建の寺院並みのものまである。

 平屋のお墓もあるが、すべてドーム型の丸屋根がついており、墓というより、“死者の住居”と表現した方がふさわしい。イスラムの休日の前日の木曜日に出かけて1泊するための寝室、従者の控室、中庭、馬小屋つきもあった。20世紀に入ってお参りの人々のために、電気、ガス、水道が引かれたという。

 死者との同居と建物の古ささえ、我慢すれば、こんな豪華な住居はない。家のない貧しき人々が、これに目をつけたのである。カイロは世界有数の人口集中都市である。

 その背景には、出生率の高さと農村の過剰人口がある。これに70年代のエジプト経済の門戸開放と産油国への出稼ぎによる人口の流動化が、カイロの人口爆発を招いた。

 田舎からカイロに流入した労働者やホームレスたちが、墓の持主に交渉して、鍵を開けてもらいここを仮の住居にしたのが、不思議なスラム街の始まりだった。

 「平等な社会をこの世に築くことを願うイスラム教徒は貧者にはとりわけ寛大のようです」。オケイン教授は、墓の持ち主たちの“施しの心”をそう解説してくれた。だが、その後、不法占拠者がどっと押し寄せ、墓地の上のモカッタムの丘にも数え切れないほどの掘建て小屋が建ち、死者の町を中心にあっという間に人口2万人の大スラム街が出来あがった。

 私は、同じイスラム国トルコの首都アンカラで、崖の上や、谷間に展開する大規模なスラム街を訪れたことがある。スラムの形成されるのはカイロと同じく、ごく短期間だった。どさくさまぎれに建てた不法建築をトルコ語では「ゲジェ・コンド」(一夜で作った家)というが、国のいかんを問わずイスラム慣習法の精神は同一で、いったん出来あがってしまった“ゲジェ・コンド”はエジプトでも寛大に扱われているようだ。


≪ 貧者は断食をするか? ≫

 町を散策する。貧者のみならず麻薬、売春、カッパライの区域が近いとは聞いていたが、真昼の太陽の下では、そういう雰囲気はまったく感じられない。

 礼拝堂と見まがうほどの豪華な墓の団地が続く。14世紀のマムルーク朝の高官たちが、自らの信仰心と権威を後世に示すために建立したものの、いまでは主のない建物もあるという。

 子どもたちが、路地でサッカーをやっている。礼拝の時間を知らせるアザーンが、鳴り響く。占拠した墓を住居代わりにしている人、付近のゲジエ・コンドの貧民たちが、どんなに遠くとも徒歩で3分とかからない最寄りのお墓兼モスクに集まってくる。世俗と宗教を1カ所で同時に営める最高のスラム街だ。

 安物の洋服屋、クツ屋、床屋、雑貨屋が、崩れた土の壁に出来た窪みで店を開けている。食べ物の屋台が沢山ある。スラムには台所のない家が多いので、いつも繁昌している。

 「このスラムの住人はイスラムの戒律、断食をやるのかしら…」。私はふとそう思った。あと2カ月もするとイスラム暦の第9月ラマダンの季節がやってくる。

 ホジャ佐々木に確かめてみた。

 「やります。金持ちも、高貴な人もサラリーマンも。貧乏人はもちろんのこと、泥棒も売春婦もみんなやる。イスラムの最後の審判では、よく戒律を守り善行を積めば多少の悪は帳消しになり、来世は天国に行けることになっている。断食の解ける夜中、見知らぬ貧乏人を家に大勢招待して、ふるまう金持もいる」。断食月の終わりにライラトル・カドル(聖なる日)があり、この夜にしっかりと戒律を守ると、一切の罪が洗い流されるとのこと。日本流に言えば浅草観音の特別な参詣日、「四万六千日」みたいなもので、イスラムにも仏教にも、“ご利益の特売日”があるとは……。これも旅の発見のひとつではある。
 



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