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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: アテネで「ギリシア人」を考えた  
コラム名: 旅日記 地球の裏読み  
出版物名: 月刊ぺるそーな  
出版社名: マキコデザイン株式会社  
発行日: 2004/01  
※この記事は、著者とマキコデザインの許諾を得て転載したものです。
マキコデザインに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどマキコデザインの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 罪作りな「世界史」教科書 ≫

 日本人に限るわけではないが、世界の歴史を知らざるが故の思い込みは、沢山ある。例えばエジプトだ。私が講座をもつビジネススクール系の大学院で、「エジプトの国語は何語か」と聞いた。「もちろんエジプト語。いや英語かな」と諸説あったが、17人のクラスで、「アラビア語」と正解したのは1人もいなかった。なんたることか。

 彼らをして「エジプト語」と言わしめたのは紀元前1000年?数千年のピラミッドやツタンカーメンのファラオ(古代エジプト王の称号)時代の文明の正統な継承者が今日の「エジプト共和国」であるとの誤解によるものだ。ちなみに、首都のカイロは7世紀、エジプトを征服したアラビア人の建設した都市だ。以来、今日にいたるまでこの国はイスラム国家であり、古代エジプトとは断絶がある。エジプト語はもはや死語となり、そしてクレオパトラの子孫が、いまのエジプト人ではないのだ。

 この種の思い込みが、何故起こるのか。それは罪作りな「世界史」教科書のせいでもある。ときに、この旅行記は、ギリシアについてである。出発前、ためしに大学入試への総合力完成と銘打った、教科書「世界史B」を開いた。地中海文明形成の章で、古代ギリシアについて詳しく書かれているのは、エジプトのケースと同様だったが、紀元前4世紀の滅亡後1823年の独立まで2200年にわたって「ギリシア」という単語が一度も出て来ないのには驚いた。そんな手抜き教科書で覚えた世界史で、はたして現代ギリシアの由来がわかるのか。アテネで「ギリシア人」を考えた。

 古代ギリシアの光景から始める。この国の首都アテネ市街の夜景は、価千金の趣がある。ギリシア古代遺跡のハイライト、アクロポリスが、夜空に、ぼんやりと浮んでみえる。アクロポリスとは、「高い丘の都市」という意味だ。

 紀元前5世紀、神殿が建てられた聖域であり、かつ都市国家古代アテネ防衛の要塞でもあった海抜150メートルほどの小さな山である。秋の夜空には、月がほのかにかすんでいた。おぼろ月夜は春の季題、そういう日本の常識は、この都市にはあてはまらなかった。アテネは、EU諸国の中で、交通渋滞によるスモッグの最もひどい都市とされており、市民はこれを「Notos」(雲)と呼んでいる。「雲」ゆえに、四季を通じてアテネの月はかすんで見える。淡い月光が、市街地のど真ん中にそびえるアクロポリスに降り注いでいる。丘の70メートル直下には、アテネの繁華街の光の海があった。


≪ 月はおぼろにパルテノン ≫

 ネオンや街路灯が、月光に映える丘の上の大理石の神殿、アテネの女神を祭ったパルテノンに反射している。「オオ、月はおぼろにパルテノン」。月光と街の灯の巧まざる演出によって、2500年前のギリシアが、見事に現代に融け込んでいる。

 古代の文明は、現代ギリシアに連結している。アテネに旅して、そう思えたのは、後にも先にもこの夜景についてのみであった。現代と古代のギリシア、共通するのは名前だけで、むしろ両者はそれぞれ異なる文化に属しているのではないか。これが私のアテネ紀行の実感で、そもそも第一印象からしてそうだった。

 2003年の10月、私と相棒の“松長学者”こと、笹川平和財団主任研究員、松永昭君とともにトルコのイスタンブールから飛行機で1時間、アテネに立ち寄った。アテネ新空港に降りたら「あと295日」の掲示があった。第28回、近代オリンピック、アテネ大会の開催日が近づきつつあることを示す告示だ。

 ギリシア神話の最高神ゼウスを称えるため紀元前7世紀、4年に1回、8月の満月の日に、古代ギリシア全土から集まり競技会が開かれたのが、オリンピックの起源。古代ギリシアの滅亡とともに消えてしまったが、1896年、アテネで近代オリンピックが復活した。古代ギリシアの文化をみずからの思想の故郷と考える西欧人の思い入れがそうさせたのだ。それから108ぶりにアテネにオリンピックが里帰りするのだから、アテネ市民は燃えている??。それは私の思い込みだった。

 空港のタクシー乗り場をめざしたのだが、どこか様子がおかしい。そこには何かの告知だと思われるギリシア語の張り紙があった。数人の外国人客が首をかしげている。高校時代の幾何学で習った「アルファ」とか「オメガ」のギリシア文字で文章で書かれている。「観光立国」のくせに、外国人なんて眼中にないらしい。近くに2、3台の黄色いタクシーが駐車している。観光客らしいのが運転手と話をしている光景を目にしたが、乗車拒否を食らっているのがジェスチャーでわかった。

 いったい何が起こっているのか。

 「全アテネのタクシー1万台のゼネスト中だ。あのバスで市内の中心にある終点まで行け。その後のことか? ホテルまで歩くんだな」。空港で見つけた英語を話す警官のお達しだった。観光客の荷物で身動きできないすし詰めのバス(料金は2.9ユーロ)に1時間以上も揺られ、降ろされたのがアテネの中心シンタグマ広場。キオスクで求めた地図で調べたら予約したホテルまで3キロもある。荷物を引きづって、ただひたすら歩くのみか。そう観念しかけたら、付近の様子を見に出かけた“松長学者”が、下手な英語をしゃべる男を伴って戻ってきた。人相はよくない。ボラれることは覚悟で、この男にホテルまで運んでもらうことにした。人目につかぬ場所に連れていかれ、天井の「TAXI」標識をはずした彼の黄色の車に乗った。

 「なぜストライキするのかって? ギリシアでは選挙前になるとあちこちでストをやるのさ。賃上げじゃない。政府に対する抗議だ。どういういきさつかって?ややこしい話なんだ。オッと、お前達のホテルはすぐそこだ。約束の20ユーロ、いまこの場でくれ。ホテルの前で金もらうのやばいから。聞かれたら、友達の車で送ってもらったと言うんだぞ」。スト破りのタクシー・ドライバーがそういった。なんのストか、現地の英字新聞を読んで驚いた。街角で求めた「Athens News」は、「望まれるタクシーの文明化」の見出しでこう書いていた。


≪ 文明以前の雲助タクシー ≫

 <2004年1月からギリシア政府交通省はタクシー法を施行する。アテネのタクシー運転手は、世界一の悪いタクシーと観光客に批判されているからだ。夜はメーターを倒さないで料金を吹っかける。“メーターで行け”と言うと、リモコンを使って、メーターが上がるように細工するのもいる。これまでは政府は大目にみていたが、オリンピック開催を前に規制に乗り出した。Cash Register(金銭登録機)をメーターに併設し、料金と収入を絶対にごまかせないようにする。違反運転手には1000ユーロの罰金を課し、オリンピック開催中の国際紛争を防止する>

 徒歩と地下鉄を乗り継いで、タクシーのないアテネの町を散策していたら、タクシー運転手組合のデモの隊列に行く手をさえぎられた。「金銭登録機の設置絶対反対」。ギリシア語英語辞典で後刻調べてみたらプラカードにはそう書かれていた。

 「現代ギリシアは文明国とは言い難い。賃上げならわかるけど、不正防止の機械設置を図々しくも真正面から反対してストをやるとは、なんたる野蛮人か…」。旅の相棒の“松長学者”が怒り出した。そして西アジア史の研究家でトルコびいきの彼はこう続けた。「ギリシア人は隣国トルコの民度の低さを冷笑しているが、あれではトルコ人以下だ」。

 ストはタクシーだけではない。アテネの街の歩道や路地には、茶色のプラスチック・ゴミ袋がところかまわず積み上げられていた。ギリシア料理や土産物産の並ぶ商店街に悪臭がただよう。野良猫の群がゴミを漁っている。英字新聞には、「アテネ市のゴミ収集人組合が賃上げを要求、これで9日間連続でゴミ集めが停止している」とあった。「ストなんかやって、どっちらけていて、オリンピックなんか主催できるのか?」。この国の新聞の行間からは、そんなあせりが伝わってくる。

 ギリシア共和国は、EUにも加盟し、欧州の先進国ということになっている。年間1人当りGDP1万7000ドル、欧州では下のクラスだが欧州通貨同盟の一員である。だが、現代ギリシア人は、先進国と呼ばれるにふさわしい文明の水準をもっているのか。輝ける古代ギリシアの正統的な継承者なのか。考えさせられてしまったのだ。ところで今回のアテネ行き、国立アテネ大学を訪問するのが目的だった。古代ギリシア建築の象徴ドーリア式の柱をあしらった荘厳な大学構内、学生らしき人影もなくガランとしている。学部長が1人、われわれを待っていてくれた。いぶかる私は、大学教授の待遇改善をめぐって6週間前からスト中と告げられ、またもや天を仰いだのだ。

 「げんなおしに古代ギリシアに行きませんか」。“松長学者”が、そう言った。前夜、堪能“夜空に浮ぶアクロポリス”に登ってみようとの誘いだった。「伊勢に出かけて天照皇大神宮にお参りしないで帰るのと同じじゃないですか。アテネを訪れてアクロポリスに行かないのは」。苦笑しつつ、彼の誘いに乗った。アテネ大学訪問を済ませて、アクロポリスの麓にたどりついたのは、午後5時を少しまわっていた。閉門まで2時間たらずしかない。

≪ アクロポリスとかけて、富士山と解く ≫

 土産物屋や観光客目当ての小さなTaverna(タベルナ=ギリシアの大衆食堂)の並ぶ急坂と階段を息を切らせて登る。入城券売場は団体の外人観光客でごったがえしていた。

 アクロポリスは巨岩から出来ている小高い丘の上に、さらに人口で高さ十数メートルの石壁を築いて建設された紀元前5世紀の作品だ。門をくぐり、女神の立像を主柱代りに使ったイオニア式の「翼なき勝利の女神」を右側に見ながら階段を登り続ける。日本の神社の初詣でを思わせるような混雑ぶりだ。

 横31メートル、正面70メートル、高さ10メートルのパルテノン神殿の遺跡にたどり着く。売店で求めた案内書によると「円柱の数、柱と柱の間隔、円柱を内側傾斜させ、柱の中央を少しふくらませるなど、古代ギリシア人の微妙な美に対する本能によって荘厳さと気高さと美しさが表現されている」。だが、訪れた神殿跡はとてもそうは見えない。欧州最悪と言われる車の排気ガス汚染で、大理石の酸化による腐食が激しく、倒壊の危機に瀕していたのだ。

 世界一の建築美を鑑賞するどころか、オリンピック開催前の修繕工事中とかで、縦横に碁盤の目のように組んだ鉄パイプのヤグラがやたらに目につくのみだった。

 「アクロポリスとかけて、富士山と解く。心は遠くで眺めるに限る」。こんどは、“松長学者”が苦笑する番であった。「やっぱり、ギリシアの現実は、直視しない方がいいです。古代ギリシアも、遠くにありて思うものです。ほら、あそこに」。アクロポリスは眺望絶景の丘である。眼下に、ディオニソス劇場跡がある。民主主義の全盛時代、18歳以上の青年男子が、5?6000人も集合して民会を開いたところだ。手を加えれば、今でも立派に使えそうな大理石造りの扇形野外劇場だ。

 ギリシアの都市国家は成年男子のみの共和制で、奴隷と女性は政治のカヤの外におかれた。30歳以上の500人の評議会が行政をやり、ときに民会を開いて民意を問うた。

 神殿から北東300メートルに眼を転ずると古代のアグラ跡があった。アグラとは市場のことだ。1年のうち300日が青天で、空気が乾いているアテネ。

 「プラトンの対話編にあるように、アテネッ子である哲学者ソクラテスは、あの野外市場に集まった人たちを相手に問答をした」と“松長学者”。アクロポリスの急坂を降りると小路が迷路のように錯綜するプラカ地区に入る。観光客が多く、パルテノン神殿の門前町みたいなところだが、実は古代ギリシアとは縁もゆかりもない。ギリシアを占領したトルコ人が18、9世紀に建設した住宅街跡だ。赤い屋根のトルコ風住宅を改造して、ブティックや皮屋、土産物屋、レストランが軒をつらね現代ギリシアの観光スポットになった。

 道が狭くて、車が入れないところが多いが、人通りは深夜まで絶えることがない。オリーブの木の下にちょっとしたTaverna(タベルナ)を見つけ、道端に並べられたテーブル席についた。路地をかすかに、そよ風が吹き抜ける。空気が乾燥しており、アテネの地ビール「Mythos」(神)が、ことのほかうまく感ずる。

≪ ギリシアで「ソクラテス」を捜すバカ。 ≫

 以下は、ホロ酔い加減でかわした松長学者との会話である。

 「こんどの旅の発見は、古代ギリシアの彫像にあるような美しい容貌骨格の人が見当らなかったことだ。ギリシア神話のアフロディテ風の美女もなく、ソクラテスのような風貌の男にも出会わなかったし……」

 「いまのギリシア共和国で、ソクラテスやプラトンの像に似た人を捜すこと、それ自体がナンセンス。古代ギリシアは紀元前2世紀に絶滅した。古代ギリシアは、インド・ヨーロッパ語族のアーリア人種が、この地に移り住み出来あがった歴史的産物だ。いまの人たちは別の民族さ」

 「では、彼らは何人(なにじん)なんだ」

 「現代ギリシア共和国人さ。古代ギリシア滅亡後、この土地は十数世紀にわたって荒廃が続いた。ローマの属領となったのち、北方からスラブ人、ブルガリア人、南からアラブ人がやってきた。15世紀のビザンチン帝国滅亡によって、トルコに占領された。長かったトルコ支配時代のアテネは、昔の栄光はいずこ、草ぼうぼうの石ころだけのさえない町だった」

 ギリシアがトルコの軛から離脱したのは1823年の対トルコ独立戦争だった。英国の情熱詩人バイロンなど多くの欧州文化人が義勇軍として参戦した。古代ギリシア文化を欧州の精神的故郷とするロマン派の思い入れである。

 だが、彼らには現代ギリシア人を古代文化の直系の継承者との思い込みは、なかったらしい。なぜなら、どだい言葉が違っていたのだ。現代語と古代ギリシア語と共通しているのは、アルファベットのみで、単語の配列や、文法も異なっている。

 アテネには、国立歴史博物館があるが、ここに展示されている歴史とは、独立戦争前後の記録で、それ以前のものは一切なかった。古代ギリシアの記録はもっぱら国立考古学博物館で展示されていた。ということは古代ギリシア人は、この国にとっては歴史というより考古学の世界の人だったのである。
 



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