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日本人の有為な外交官2人が、イラクで銃撃を受けて殺害された。北部の会議に行く途中、後ろから並走して来た車から銃を乱射されて死亡したと言われる。その情況を聞くと、アメリカ映画のギャングの襲撃の仕方とそっくりである。ことに全くタイヤを撃った形跡がないとなると、この2人を拘束、或いは誘拐しようという目的は全くなく、初めから殺害を目的としたものだったという印象を受ける。
土地を知り尽くしていた2人がなぜ、護衛もつけなかったのか、とか、もう少し重装備の車を使わなかったのか、とか部外者は何でも言えるのだ。
私が自衛という観念を植えつけられたのは、アフリカを旅している時である。南アやコート・ジボアールで、初めて私は防弾ドアを装備した車というものに乗せて貰った。運転手さんが開けてくれないと、銀行の大金庫の戸もかくやと思うほど車のドアが重くてなかなか私の力では開かない。やっと乗り込んでから今度は車を出してくださった方にお礼を言うために窓を開けようとしたら、窓ガラスが動かなかった。もたもたしていると「曾野さん、防弾ドアのついた車は、窓が開かないようになってるんです」と教えられた。
コート・ジボアールでは、ホールドアップさせられた時には、素直に車を明け渡すのだが、みすみす車を相手に取られることもないので、素早く秘密のボタンを押してから降りるのだという。それが燃料系統を切る時限装置である。その場で車が動かなくなるとそのまま射殺されかねないので、車は一応走り去ることができるように燃料タンクの防犯設備は設計されている。ただし数キロ走るとぴたっと給油装置が動かなくなる構造になっていて、その距離は国境の手前までに計算されているという。
当時コート・ジボアールの商社関係者の車の中には、防弾楯というものが車内に備えられているものもあった。狙撃された場合1発目が致命傷になれば終わりだが、数発攻撃が続くような場合、この防弾楯が有効なのだという。どの程度の口径の銃弾なら、それに耐えるのか私は聞き洩らしたが、ほんのちょっとのことで「命拾い」する、ということは確かにあるのだろう。
この連載の11月号で、私はカメルーンの首都から600キロ奥まで入る調査旅行に、土地の軍警察の重装備の護衛5人を雇った話を書いたが、その当時は日本人の外交官がイラクで襲われることなど、誰も想像したことすらなかった。だから私は大仰な警備をすることを、内心深く恥じていたのである。何でも危険危険と言いたがる人は世間によくいて、自分の旅行をいかにも大冒険だったように見せたがるのもいやみなものであった。
私は駐イラクの外交官2人が、護衛も付けず、完全な防弾ドアでもない身軽な車ででかけた計算が実によくわかる。大げさな警備をつければ、それが「狙って撃ってよ」と言わんばかりの標的になる可能性も強いからだ。何でも目立たず密かであることが、本当は安全の初歩なのである。
私もこの600キロの移動に関しては、事前にかなり神経を使っていた。昔マレー半島にゲリラが出た頃、私は「一切の駐停車を禁ずる」という道を走ったこともあった。もちろん止まれば、ゲリラの標的になるからである。当時のマレー半島には、小さな川をフェリーで渡す個所もあったが、それらはすべて「軍用車優先」であった。いいも悪いも、戦闘能力を有する軍を先に現場にやらねば、治安が保てない。しかし今の日本で橋やトンネルを「軍用車優先」にでもしようものなら、平和主義者たちのどのような非難を受けるかしれない。今の日本人は危険というものの体験が全くないから、対処に対してもまた恐ろしく素人っぽいのである。
カメルーンの奥地行きに対して、私が護衛をつけることもやむなしと思ったのは、私たちの車列が、シスターの運転する車を入れると四輪駆動車6台という隠しようもない特異な行列になるからであった。
今回の密林地帯への調査旅行には、幸いにも海上自衛隊の金嶋浩司氏が参加しておられた。私は出発前に、特に金嶋氏に、故障、襲撃その他の想定しうる異常事態に対して、典型的な「烏合の衆」である我々が、どのように対処したらいいかの基本的な知恵を貸して頂けないか、と頼んだ。
私が現地のゲリラを現実的に想定できる唯一の状態は、前方の路上に「風倒木」を発見するような場合であった。「あれ、木が倒れてる。困ったな。しかし通れるかもしれないから、行ってみよう」というシナリオである。現場に近づいて車から降り、様子を見ようとした時が、附近に隠れているゲリラの攻撃のチャンスである。
金嶋氏は忙しい勤務の余暇に、簡単な素人向きの準備を考えてくれた。これは一種の基本的な防衛のバイブルとして貴重なものと思われるので、公開しようと思う。
金嶋案はまず出発前の車体の点検から始まった。点検個所は次の15個所であった。
・燃料(満タン) ・オイル(量・粘性・色) ・足回り(異物・油洩れ) ・マフラー(腐食) ・ファンベルト(10Kの力で緩み15mm以内) ・冷却水(メイン・サブに定量入っているか) ・ワイパー(前後共に作動・ゴムの変形・破損の有無) ・前照灯(玉切れないか) ・ワイヤーロープまたは太めのロープの装備 ・ウインチ作動確認 ・タイヤ(がた、割れ目、傷、異物、溝の深さ) ・バッテリー(液量) ・備えつけ工具(ジャッキアップ用具、ドライバー、レンチ) ・発煙筒(有無)いざという時の武器に ・走行距離のリセット(出発時確実に0km)
以上が点検項目である。団体装備品としてはトランシーバーを各車に、衛星電話を1号車と6号車に置いた。サハラ縦断の体験から、私はトランシーバーは安全のために必携すべきだと考えていた。
私が興味を持ったのは個人装備品の項目の中に、水や食料などと共に、ナイフと石が含まれていることであった。石は緊急用大×1、戦闘用中×数個となっている。
「大石は何にするのですか?」
と私は金嶋氏に尋ねた。時期は雨期の終わりである。行ってみると幸運にも道は乾いていたが、金嶋氏は車が浸水するほどの深みにはまった場合、ガラスを割って脱出することを想定していた。
「中石だか小石は?」
「最後の抵抗です」
まさか、と私は思った。投石で戦う?
しかし考えてみると、こちらにも不思議な「武器」がないでもなかった。日本財団の若い職員の1人はかつて甲子園に出場して、その後早稲田の野球部に所属した。もしかすると彼なら、武装集団に対する人間投石機になるかもしれない。
マニュアルは、休憩時間、車間距離、車輌の軽徴故障、重度故障、スタック、人的トラブル(つまり病気の発生)など子細に項目別に配慮されていた。パンクでタイヤを交換する場合でも、軍警察は散開して警備する。人的トラブル、といえば、誰かがお腹が痛くなって「ちょっと止まってください」というケースが最も多いだろう、と予測されたが、その場合には人的トラブルを起した車輌は最後尾まで下がり、そこでも軍警察は警備につく、ということであった。
もともと私がもっとも気にしていたのは、「故意的道路の寸断(倒木、バリケードなどによる)への対応」の項目である。つまり道路前方に「異物」がおかれる場合だ。先頭車が異常を発見したらまず、できるだけ速やかに「パンパン パンパン 前方検問 ルーズ間隔を取れ」の指示を出す。この「パンパン」という緊急の警告の方法は全く知らなかったが、車が一塊になると被害が大きくなるので、できるだけ車間距離を取るようにするのである。と同時に全車に一斉に「回頭準備を指示」する。つまり停まるや否や、前方に何が起きたかを見極めたりせずUターンの態勢に入るのである。事態を見極めに行くのは、武装した軍警察車のみにする、となっていた。
私が教えられたのは、この回頭時に、もしUターンが不可能なほどの狭い道にいた場合には、全車は一斉にバックし、可能な地点に到達した車から順次回頭し、別ルートヘの分岐点まで戻って隊列をたて直す。緊急事態での回頭の際には、少々車を傷つけてでもむりやりに回頭させ、反対方向に急遽離脱すること、という項目であった。
ここまでの判断さえ私たちは今まで一度も明確に訓練されたことはなかったのである。私がやった唯一の用心は、軍警察に契約金の一部しか事前には払わない、というせこいことだった。「うちの財団の方針で、全額は払えない、と言ってください」と私は財団の職員に言った。
「なぜ払えないかと言うと、軍警察の誰かがゲリラと従兄弟だと、『おい、俺はもう金をもらったから、お前が出動しろ。俺たちは適当に応戦してみせておくから』ということになるから困るんです」
私が8年前に日本財団で働き出した頃、途上国の警察や軍隊が、泥棒やゲリラと従兄弟だと言うと、職員は当惑して固い表情になったものだった。日本では警察官があまりにも立派な人たちだし、自衛隊でも犯罪者は例外である。だから、警官が泥棒と従兄弟だなどと言えば、失礼に当たる、と感じるのが常識なのだが、私はその言葉をくり返し、職員も最近では笑うようになった。
中近東やアフリカの論理はすべてこの従兄弟の関係から発生する。力のある中央政府を持つ国など極めて少ないから、皆が同宗教・同部族だけに信頼関係をおいて暮らしている。部族長が、それぞれの力関係で、自分の部族の利益を図る。今のイラクで、理想としては民主主義がいいと答える人が多かったというが、現実を動かすものは、民主主義どころか同部族の権益だけが基本である。
600キロの奥地に無事に着き、今度は帰ることになった時、軍警察側から、気の毒な要求が出た。家族に土産を買って帰りたいので残金のうち、もう少し払ってくれないか、というのである。私はもちろん最初から、全額払ってあげたい気分でいたので、すぐOKして残金のさらに一部を払うことにしたのだが、帰路彼らはあちこちで車を停めた。少しでも安いマニヨク薯と料理用バナナを買うのである。こういう流通機構の悪い国では、首都と地方の生産地とでは、値段が大きく違うらしく、幌つきの軍警察の小型トラックの荷台はたちどころに薯とバナナでバリケードができた。
無事にこの最も危険の多そうな旅を終えた時、私は心からほっとし、それから少々自責の念に駆られた。やはり護衛をつけたことはいささかオーバーだったのではないか。もちろん1人の将校と4人の下士官と兵たちはすばらしい魅力的な人物で「会えてよかった」と私は今でも思っている。
日本に帰ってから、私はエッセイストとして尊敬を払う駐カメルーンの国枝昌樹大使からまた温かいお手紙を頂戴した。それによると、私たちが奥地への旅をしていたまさに同じ時期に、EUの、ミッションが数台の自動車で北方を移動中、武装した山賊に襲われ、カメルーン人スタッフは負傷し、ミッション全員は身ぐるみ剥がれた、というのである。EU代表部はカメルーン政府に抗議を申し入れ、外交団にも注意を呼びかけた、という話であった。
今度のイラクの事件も、私たち一般市民は真相の一部しか知らされていないが、この2人がティクリットヘ向かう街道で襲撃されていたとすれば、イラクの日本大使館の中に、すでにスパイがいることが考えられる。誰がいつどこへ、どんな交通手段で行くか、などということは、用心のために決して公表してはならないことなのである。車はナンバープレートを外していたというが、それでも大使館の門を出たら、しばらくの間、ティクリットとは反対の方角に走るふりをするくらいのことはすべきだったのだろう。
こうした自衛の手段を、日本人はほとんど知らない。私も知らなかったのだが、それを教えられたのはフジモリ前ペルー大統領からである。
日本財団はフジモリ政権時代、小学校50校分の建設費用を拠出した。後で知ったことだが、凄まじいアンデスの山中の、多くは貧しい先住民族の住む土地で、村で一番立派な建物が学校になったというケースが多かった。その土地へ行くのに陸路を取っていたら、途方もない時間がかかるし、かつ危険である。私たちは政府のヘリで現場に降ろしてもらう他はなかった。現地に着くと、フジモリ氏は自分で警察のボロ車を運転し、財団の費用で建てた学校には必ず、この学校は日本財団によって建設された旨の碑板が掲げられていた。現政権になってから、それらの碑板がはぎ取られたと聞いているが、それは風説かもしれないから、私は正確な報告を改めて受けたいと願っている。国家は正直でなければならない。
おもしろいのは、その日の視察がどの地方の学校を見ることになるのか、飛行機が飛び立つまで私たちには全く知らされないことだった。もちろん保安上の理由である。こんな飛び方は、相手が大統領府でなければ、恐ろしくてとても乗れない話である。
亡命後のフジモリ氏が、ペルーに帰らなかったことに対して、長野県知事は、それほど自国民を信じられない大統領だったのか、と皮肉まじりに書いたが、恐らく今のペルー大統領も外出に際しては同じだろう。
私は暗殺された世界の有名な人々のリストをもっているが、民主主義の代表のようなアメリカ合衆国でさえ大統領はリンカーン、ガーフィールド、マッキンレー、ケネディと4人も殺されている。ケネディ暗殺も白昼テレビが放映する中で、町中で起きたのである。
危険の恐れというものは、それが現実にならなければ、全く安全なのだから、心配は杷憂だったというやっかいな側面を持っている。それに日本人の遠慮がちな性格から、武装して安全を確保する、という心境になりにくい。また武装しているから、殺される、ということも一面で真実である。
これも根拠のない小説家の思い込みかもしれないが、こうした危険の半分くらいを予防するのが、人間の本能でもある。理屈ではない。しかし穏やか過ぎてなぜか気味が悪い、というようなことは、この本能以外嗅ぎつける方法がない。
こうした予感は、昔はもっと普通に多くの人々の感覚の中にそなわっていたのではないかと思う。これを私は「ミミズの本能、ネズミの嗅覚」と言っているが、そうした本能の発達した人々が、昨今段々減ってしまったのである。その代りに理詰めでものを考えられる学校秀才は増えたのである。
1つの理由は、そうした野生の土地に行って暮らしたりする必要性がほとんどなくなってしまったからだろう。安全かそうでないかは、計測する(できる)もので、カンでものを言うな、という気風の方が強くなった。しかし人間の動物的なカンは、常に人生の何分の一かの運命を決定してきたような気がしてならないのである。
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