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≪ 「人の往く裏に道あり……」 ≫
エジプトと聞いて、人々は何を頭に描くか。ギザのピラミッド、王家の谷のツタンカーメン、ナイル川沿いのルクソールの神殿、といったところだろう。これらはいずれも紀元前1000年から3000年のファラオ(古代エジプト王の称号)時代の文明だ。
ところがエジプトとは、ファラオとこれに続くクレオパトラに象徴されるギリシャ、ローマ時代そして、今日もこの地にしっかりと根をおろす中世のアラブ、これらの3つの異なる文明が、重ね餅になって構成される世界有数の観光地なのだ。
そもそもいまのエジプトの正式の国名は地理的には北アフリカなのに「エジプト・アラブ共和国」だ。そして首都のカイロは、7世紀、エジプトを征服したアラビアのイスラム軍が建設した都市だ。名前の由来は、アラビア語の勝利者、「カーヒラ」をイタリア語読みしたものだ。だからイスラム抜きでエジプト、とりわけカイロをイメージするのは、本当は気の抜けたビールのような旅なのだが、たいていの日本の観光客はそれで済ませている。
古人いわく「人の往く裏に道あり、花の山」??。旅の醍醐味とは、見物人が大勢群がるところよりも、ちょっと人混みから外れた場所で、思わぬ魅力を発見した喜びにあるのではないのか。そう思った私はカイロ訪問3回目にして、旅のテーマを古代から中世に切り換え、イスラムのカイロを散策したのである。
ナイルの東側のそのまた半分が、カイロの旧市街、イスラム地区だ。ここの小高い丘(ムカッタムの丘)のふもと、シタデル(城塞)に登った。2003年秋のある晴れた日、前夜からの季節はずれの風が、悪名高いスモッグを吹き飛ばしてくれたらしく、眺望絶景、眼下には人口1100万の大カイロ市が展開していた。
「ここから展望すれば、カイロはイスラムが作った街だと言うことがよくわかる」。旅の相棒の佐々木良昭氏の、ご託宣だった。彼は東京財団主任研究員、元拓殖大学教授。カダフィ国家元首の奨学金でリビア大学でイスラム神学を修めた日本には稀有の実践派アラビストだ。「カイロ、いやエジプトを正しく認識するには、まずシタデルに登れ。そして一望せよ」と勧められ、連れてこられたのだ。
「シタデル」。1183年、十字軍との戦いで知られるイスラムの勇将、サラディンが、カイロを守るために高台に建設した1平方キロほどの広さをもつ城塞だ。以後、20世紀初頭、カイロが英国に占領される900年もの間、イスラム王朝の政治の根拠地だった。ここに荘厳な偉容を誇る大モスクがそびえている。エジプト最後の王朝の始祖、ムハンマド・アリをたたえるために建立されたモスクだ。この王は、ナポレオンのエジプト侵入に抗戦し、追い払った功績で、オスマン帝国から、エジプトのパシャ(大守)に任ぜられた。その後、オスマン・トルコから事実上の独立を獲得。教育、行政、軍隊を西欧風に改革、さらに産業を奨励して近代化を推進した賢王だったという。
≪ 解説・「ミナレットとアザーン」とは ≫
ムハンマド・アリのモスクから、西を向きナイル川の方角を展望する。視界20キロメートル以上にもおよぶ、大パノラマが展開していた。ここから見たカイロの風景は、カフェオレ、すなわちコゲ茶と黄色の混ざった色、ほとんど一色に塗りつぶされている。ナイルの泥と砂の色だ。これに付近の山から切り出されたファラオ時代のピラミッドと同じ石材を追加して建設された中世イスラムのカイロが、眼下の正面にどっかりと座っていた。モスクの丸い屋根、土色の城壁の跡、石と泥で固めたアパート群、そして何十本もの細い塔、ミナレットが見える。日本語では「光塔」と訳されているミナレットはイスラムの礼拝堂であるモスクの外郭には必ず数本立っている。
「あのミナレット、いったい何のためにあるのかね。モスクのドームと細い塔はうまく調和している。造形上の考慮から建てられたものなのか。それとも敵の襲来を見張る物見の塔なのか」
「たしかに、そういう用途もないとはいえない。でも、あれは、アザーンを遠くまで伝えるためのものだ。アザーンとは、礼拝の時間が来たことを伝える詠唱のことだ」
「もうちょっと待ちましょう。そのうち始まるから」
同行の佐々木氏が時計を見ながらそう言った。イスラム信者でアラビア語の達人である彼は、本場のムスリムであるエジプト人から「ホジャ」の尊称で呼ばれている。今回の旅で、私はそういう現場に何度か居合わせた。「ホジャとは何ぞや」と聞いても照れ笑いでごまかす彼だったが、どうやら「大先生」という意味であるらしい。ホジャ・佐々木によればイスラム教徒は日に5回、メッカの方角に向かって礼拝をする。昔はムアッザンと呼ばれる詠唱人が、定時になると高い塔によじ登り、美しい節まわしをつけ、朗々と歌うがごとく、礼拝の時が来たことを人々に知らせた。いまはどこでもミナレットの頂点に拡声器を取りつけ、アザーンを流す。
正午、そこここのミナレットから相前後してアザーンが鳴り響く。よく声の通る美声や、ダミ声などさまざまな詠唱の音色が、遠いところ、そしてすぐ近くから湧き上がってきた。長く余音を残すもの、あるいはすぐ近くで響く大音声にかき消されるものなど、「ここはイスラムの街なんだ」との実感がこみあげてくる。
ミナレットから流れる詠唱は、コーランの言葉であるアラビア語であることはいうまでもない。そもそも、ここ千年、エジプトの国語は、アラビア語だったのである。「カイロを訪れる日本人で、この国の国語がアラビア語だと知ってる人は、意外に少ないんじゃないか」
ホジャ佐々木が言った(彼の危倶は正しかった。後日、私が講座を持っている東京の経営情報学の大学院で、「エジプトの国語は何語か」と聞いたところ、クラスの17人の中で正解者はゼロ。ほとんどが、英語もしくは、エジプト語と答えた)。
アラブのイスラムに制覇されて以来、どうして、エジプトの国語はアラビア語になってしまったのか。イランもトルコもイスラム化したのちも、それぞれ、ペルシャ語、トルコ語を使っているのに……
「エジプト史は、非連続なんだ。アラブが征服したエジプトは、ビザンチン帝国の属領であり、すでにキリスト教化され、ファラオの古代エジプトの文化とは完全に切断されていた。それに多くのエジプト人たちは、自己の歴史を預言者ムハンマドを生み出したアラビア半島の歴史と結びつけて考えるようになった。そして時の経過とともに、文化が変容し、昔のエジプト語は、アラビア語にとって代わられてしまったのだ」。ホジャ大先生の解説であった。
≪ 彼方に霞むピラミッド ≫
再び、ナイル川の方角を望む。目前に展開するカフェオレ色の中世の光景の向こうには、30ほどの高層ビルが林立している。ナイル川の畔の新市街や、川の中洲ゲズィラ島の建物群だ。この島はいわばナイルのマンハッタンであり、英国の占領時代(1882年〜1952年)に開発された島だ。北半分が高級住宅街、南半分には博物館や競馬場がある。この島には高さ187メートルのカイロタワーがあるがシタデルから見ると、すぐ近くのミナレットと同じ高さで肩を並べている。左手のはるか彼方に、豆粒大のギザの3大王のピラミッドが霞んで見えた。25キロはあろうか。これが中世イスラムの“遠近法”で眺めた世界有数の大都市カイロの風景であった。
「ピラミッドに象徴される古代エジプトはたんなるこの国の遺跡であり、文化も信仰も継承されてはいない。中世以降のエジプト文化は、アラブのそれなのだ」。わが同伴者ホジャは、豆粒のようなピラミッドを眺めつつそんな感想をもらした。
高台の丘に建つカイロのランドマーク、ムハンマド・アリのモスクのすぐ脇に、深さ90メートルといわれる「ユースフの井戸」がある。1882年、アユーブ朝時代につくられたとのことで、井戸というよりも城壁の中に、ナイル川の水を給水するために堀られた立坑だった。
この中世イスラムの科学技術の粋を集めた給水システムはどうやってできたのか。案内役のホジャ・佐々木によれば、まず、3キロ離れたナイル川の水を大型の水車で一定の高さまで汲み上げる。さらに石で造った水道を建設し、城山にぶつかると地下に水平の横坑を堀る。そしてこの井戸の底に作った巨大な水槽に水を貯めた。
「砂漠の民、アラビア人は水の利用法に長けている」とのことだ。新市街に向かう道路沿いに、ローマの遺跡そっくりの、石の水道橋が延々と続いていた。この眼鏡橋がシタデルの井戸への給水路であることに私が気づいたのは、ナイル川の反対側にあるホテルに向かう帰りの車の中であった。
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