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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: アラブの君主国「オマーン」  
コラム名: 旅日記 地球の裏読み  
出版物名: 月刊ぺるそーな  
出版社名: マキコデザイン株式会社  
発行日: 2003/12  
※この記事は、著者とマキコデザインの許諾を得て転載したものです。
マキコデザインに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどマキコデザインの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ いんげん豆は、どこから来るのか? ≫

 アラビア半島の海洋国、オマーン。正式の国名は、オマーン・スルタン国(Sultanate Oman)という。スルタンとはイスラム教国の君主のことで、英語名を直訳すると、「スルタンの領地・オマーン」ということになる。日本が1年間に使う石油の7%は、この国から輸入しているのだが、それにしては日本でのオマーンの知名度は高いとはいえない。オマーンとはいったいどういう国なのか。まずは序論から…。

 「数千年もの間、オマーンは東と西の海の貿易ルートの要所を占めていた。オマーンの船乗りは世界に広く知られ、遠い国まで商売に出かけた。蒸汽船にとってかわられるまでは、オマーンの帆船は、インド、中国にまで出かけていた。古代のオマーンはメソポタミアに銅を、ローマに乳香を大量に輸出した。中世から近世にいたるまで、オマーンは、世界の富の集散地だった。大きな城や素晴しい家が築かれた。だが、百年ほど前、この国は一時的に衰退、内戦が起こり鎖国をした。しかし、オマーンの国際社会からの孤立の時代は1970年のスルタン・カボースの登場によって終止符を打った。いまやオマーンは、輝ける歴史と伝統を尊重しつつ、石油など天然資源の有効活用によって、急速に近代化が進められている。平和と繁栄の新時代めざしている。」

 これは、現地で求めた「オマーンとそのルネッサンス」と題する250ぺージもある部厚いガイドブックの裏表紙から、抜き出した説明文だ。言うなれば英文によるオマーンの自画像である。遠い国オマーン、この説明ではもうひとつピンと来ない向きにはこんなエピソードはどうだろう。

 昭和のはじめ、オマーンのタイムール王が退位後、日本にやってきて、日本女性と結婚、神戸に滞在、「ブサイナ」と呼ばれる王女をもうけた。日本はオマーンと同様、君主国であり、かつ海洋国家であるとして、この王は日本に強い親近感をもっていた。いまのスルタン・カブースのおじいさんにあたる人だ。エピソードをもうひとつ。オマーンの対日輸出品のトップは、もちろん石油で、1日に27万バーレル。一升ビンに換算すると1日につき1980万本もの石油をこの国はせっせと日本に積み出している。対日輸出品の第2位はなんといんげん豆だ。日本の冬場のいんげん豆の97%は、オマーン産で、商社の丸紅が一手に買い付けているとか。こういう話を聞くと、オマーンがだんだん身近になってくる。

 2003年6月、アラブ首長国連邦のアブダビ空港から、オマーンの首都マスカットに入った。飛行時間、わずか55分。かつてアラビアには、3つの国があったという。これはあくまで比喩的な分類だが、ひとつは「砂のアラビア」。いまのサウジアラビアを中心として、ペルシャ湾岸にまで展開する広大な砂漠地帯の産油国グループだ。第2は「岩のアラビア」、シリア、ヨルダンおよび、その周辺の巨大な岩山がたくさんある国々、そして3番目は、インドと地中海を結ぶ要地に位置する「海と山のアラビア」で、オマーンとその南の隣国イエメンがそれだ。


≪ 山が海に落ちる場所「マスカット」 ≫

 アブダビからマスカットへ。わずか400キロの移動だったが、「砂のアラブ」から「海と山のアラブ」にやってきたのである。マスカットは、アラビア語で「山が海に落ちる場所」という意味だと聞いた。その名の通り、この首都は2500メートル級の山々が連なるハジャル山地に囲まれた、海岸のすぐ手前まで岩山が追っている古い港町だった。国土のほとんどすべてが砂漠で、オイルマネーをふんだんにつぎ込んで、緑化した新興成金の都市アブダビとは、趣を異にする別世界だった。この国には、豊かな自然がある。歴史も伝統も文化もある。

 「やっとアラビアの町にやってきたような気がする」。案内役をやってくれたオマーンの日本大使館、若い小沢健一書記官にそう言ったら、「全く同感です」。たちどころに反応があった。「隣の国のアブダビとドバイ。あの2つの人口都市は不毛の地に忽然と姿をあらわした巨大なディズニーランドみたいなものです。風情がないです。あちらの自然は単調で無味乾燥な砂漠だけ。こちらの自然は多様性に富んでいる。海あり、山あり、岩あり、谷あり。そして砂漠も沢山ある」と彼は続けた。

 人口240万人。アラビア半島東端に位置し、国の北東部はオマーン湾、南東部はアラビア海に面している。ペルシャ湾への入り口、ホルムズ海峡のムサンダム半島に飛び地をもっている。湾岸諸国に出入する船を見張る要所だ。日本の4分の3の広さだが、国土の80%は砂漠である。山地が15%、土のある平野が5%ある。アラブ首長国連邦に接する北部には、険しいハジャール山地が、海に平行して連なっている。この山が供給する水が、この国の東側の地域を緑のある多様で豊かなアラビアたらしめている。民を養なう「母なる山」なのである。

 オマーンには「母なる川」がない。カラー印刷されたマスカットの地図をひろげてみる。町のど真ん中を、水色に塗られた川がえがかれている。だが、行ってみたら幅40メートルほどのこの川には水がなかった。商店街、ホテル、バスターミナル、中央銀行などのある繁華街を、砂利を敷きつめた溝のようなものが貫通し、ところどころに橋がかかっている。

 一瞬、「大旱魃」と思ったが、そうではなく、ごくあたりまえの光景であった。この国の年間降雨量は、ケタ遠いに少ない。おそらくゼロが、2つほど少ないのではないか。東京でもっとも雨の多い月は9月で200ミリ、最少は12月の40ミリ。マスカットでは雨期の最盛期とされる2月でも25ミリしかない。5月から10月をこの国では「夏」と呼んでいるが、この期間の降雨量はゼロだ。

 地図をよくよくみたら、「川」ではなく、「Storm Channel」(激しい雨の排水路)とあった。冬期、マスカットの「母なる山」に激しい雨が降ると、樹木が少ないので保水力がなく、急峡な山を鉄砲水がかけ降りてくる。これを海に流すための水路だった。


≪ 水のない川を「ワジ」と言う ≫

 「雨期にしか水はありません。アラビア語ではワジ(Wadi)と言います。ことしの4月、橋の上で昼寝していた人が突然の増水で流されて死んだ」

 「エッ。橋の下の間違いでしょ」

 「いえ、橋の上です。山に豪雨があると、2時間もたたないうちにワジに水が溢れるんです。乾燥したこの国の人は、ふだんは雨が降ると、良いお天気ですねとあいさつするほど雨に飢えてるのですが、1年に1回くらいは大洪水に見舞われる。あのとき、オマーン北部で13人が溺死したと新聞が伝えていた」

 マスカット在勤2年の小沢さんとの問答である。この国の「川」は、排水路にすぎないとしたら、水源として貴重な「母なる山」の水はどうやって利用しているのか。それを見るためにマスカットから車で170キロ、オアシス都市ニズワに出かけた。ジャバル・アフダル(緑の山=標高3000メートル)を主峰とするハジャル山系をはさんで、マスカットとは反対側にある内陸部の古都だ。この付近には山から降りてくる地下水を利用した伝統的な灌漑システム、ファラジュ(Falaj)がいたるところにある。紀元前2世紀、このあたりにアラブ人が定住をはじめたころ、支配者であったペルシャ人が伝えた。まず山のふもとで縦坑を堀り、伏流水の水脈を探りあてる。そこから低地の方向に水平に細いトンネルを貫通させて、山の下で地下水を採取、地上の水路に流し込む仕組みになっている。

 ファラジュが整備されているこの地方は畑作農業が盛んだ。デイツ(ナツメ椰子)、バナナ、レモン、小麦、アルファルファ、玉ネギ、ザクロ、トマト、ジャガイモなどが栽培されていた。ファラジュのせせらぎの水音が、40度もの猛暑をやわらげてくれる。この地域にはナツメ椰子の林立する自然の緑地があちこちにあった。

 「次はオアシスに案内してくださいよ」

 「ここが、そうなんですけど…」

 同行の大使館の小沢さんがけげんな顔をした。われわれの目の前に展開するナツメ椰子のあるところ、なんとそれがオアシスだった。

 <砂漠の真ん中にポッカリと浮かぶ緑の園。隊商のラクダが数頭、泉のほとりで水を飲んでいる。木陰では、砂漠の旅人たちが、しばしの休息をとる>。ありていに言うと、これが私のオアシスというもののイメージだったのだ。

 <広漠たる乾燥地帯で、ナツメ椰子が何本も見えたら、そこがオアシスである>。今回のオマーンの旅で、私は、オアシスの定義をこのように変えることにした。林立するナツメ椰子の木々をくぐって、しっとりとした土と草を踏みしめ奥に入ったら、ドロをこねて作った中東特有の中庭式住居があった。周囲には、小規模な野菜畑と果樹園があり、数頭の牛が、草をはんでいる。これが、この国の山麗の土漠地帯にあるオアシスだった。ナツメ椰子の木洩れ日のもとで、野菜や牧草が育っている。林の中の半日陰の方が野菜は育て易い。

 「これが、オマーンの伝統的な農家です」。小沢さんが教えてくれた。ここにも、小さなファラジの水路が延びていた。灌漑施設がなくても、付近の涸れ川(ワジ)の砂礫の地下を流れる伏流水が、地上に噴き出し、いつのまにか湿潤の緑地が形成される。そういう自然が創造した灌漑いらずのオアシスの集落も沢山ある。


≪ 中世、海洋国家の雄、シンドバッド ≫

 オマーンは古い海洋国である。海に目を向ける。この国がイスラム化した7世紀から、19世紀中ごろ、初のアラブ国家による帆船のアメリ力派遣にいたる1200年間、ポルトガルに一時支配された時期があったものの、世界有数の海洋国家として名を馳せていた。中世アラビアは、天文学、物理学、そして科学技術で、ヨーロッパをしのいでいた。インドからチーク材を輸入し、幾何学や数学を駆使して「ダウ船」と呼ばれる帆船を建造した。4〜500トンの大型船で、インド、中国そして東アフリカにまで海上の版図をひろげていった。江戸時代日本で最大の船だった「千石船」が、せいぜい100トンであったことを思うと、それがいかに巨大であったかがわかる。

 この国の東側には、アラビア海に面した1700キロもの長い海岸がある。そこに現在の首都マスカットと、その150キロほど北に中世の都ソハールが位置している。

 「ソハールには、中世アラビア随一の港があった。マスカットはもっと新しい。この国に攻めてきたポルトガルが築いた海の要塞が起源だが、17世紀アラブがこれを奪還してから、海洋民族のオマーンの黄金時代がくる。東アフリカのタンザニアやザンビアに植民地を開設した。その頃のオマーンは、英国と並び称される海洋国だったんだぜ」

 オマーン歴史協会所属、国家諮問委の肩書きをもつアハマド・ムハイニ氏は言う。この国の歴史を話してくれる人、と小沢さんに頼んだら紹介してくれたのが彼だ。

 「ソハールはね、海のシルクロードの拠点だった。中国の広東まで帆船で出かけたんだ。星の位置を基点にして三角法で、航路を測定した。その頃のわれわれの祖先の操船技術は、ヨーロッパ人なんか足元にも及ばなかったからね。なに? 昼間はどうやって位置を測定したかって…。太陽が光って星が見えない。このあたりが先人たちが苦労したところさ。船乗りシンドバッドのこと知ってるか。あれはソハールの生んだ世界一の船乗りの事さ」

 「干一夜物語のシンドバッドは、バグダッドの豪商じゃなかったのか?」

 「いや、あれはフィクションだから、そうなっておる。本当は、オマーンの大船長のことさ。ガハッ、ハッ」

 海の民の子孫であるこの歴史学者、なかなか誇り高く豪快だった。


≪ 鎖国から「ルネッサンス」へ ≫

 だが、オマーンには、彼にとっては、あまり自慢にもならない暗い時代があった。彼の声が急に低くなった。それは1938年から1970年にいたる当時のサイード・ビン・タイムール国王の不可解な鎖国だ。鎖国とは、日本の徳川幕府がやったように、国が外国との通商・交易、および自国民の海外渡航を禁止することだが、中世ならいざ知らず、20世紀のこの海洋国家の鎖国は世界をびっくりさせた。国王の鎖国の動機は、宗教指導者イマームとの反目によって勃発した内戦の中で、王位を維持するための苦肉の策だった。

 鎖国によって海外との交易のみならず、国王の支配する沿岸部とイマームの支配する内陸部との交流も禁止された。この王は「王制と近代化は相容れぬもの」という信念の持主だったらしく、教育は王座をおびやかすものだとして敵視したり、欧米の本とかラジオ、そして眼鏡にいたるまで輸入を厳禁したとのことだ。この結果、オマーンの近代化の時計の針は、1970年7月、カブース皇太子が宮廷クーデターで、父親のサイード王を追放し、開国を宣言するまで、40年間にわたって停まったままだったというのだ。

 追放されたサイード王は、英国に亡命、ロンドンのホテルで客死したとのことだ。

 「そして今、われらがカブース国王のもとでオマーンには、平和と繁栄をめざすルネッサンスの時代が訪れているのさ」

 ムハイニ氏は、そう言って私への歴史の講義を締めくくった。

 オマーンの知識人たちは、「ルネッサンス」(再生)というフランス語の単語が、よほどお気に召しているらしく、私の滞在中、新聞や書物で見ただけでなく、彼以外の人からも何度か耳にした。「ルネッサンス」はこの国の外交政策にも色濃く反映している。1971年、国連に加盟したオマーンは、「外向的かつ国際的な視野に基づいて、外交を展開する」ことを表明した。これは、海洋国としての長い伝統への復帰にほかならない。オマーンはイスラム国ではあるが、アラブ諸国の中で最も西側的な政策をとっている。特に歴史的に関係の深かった英国との関係は親密であり、米国とも1980年の基地アクセス協定以後緊密さを増し、今日にいたるまでアラビア海の島に米空軍基地を提供している。日本との関係はどうなのか。


≪ 自衛艦「こんごう」とのご対面 ≫

 昼下がりのマスカット。オマーン湾に面するスルタン・カブース港に、3隻の軍艦が停泊していた。旗艦は全装備、全武器がコンピュータ制御の戦闘システムをもつ、最新鋭のイージス艦だった。旭日の軍艦旗がひるがえっている。イージス艦「こんごう」(7250トン)にひきいられた護衛艦、補給艦からなる海上自衛隊の艦隊であった。

 オマーン駐在の萩次郎大使主催の日本艦隊寄港歓迎野外パーティに招かれてわかったのだが、一行は佐世保を出港、ペルシャ湾における米国艦隊の対イラク攻撃作戦に参加したあと、オマーンに寄港したのだった。
 
 「カブース国王がいま自国の伝統を保持しつつ進めている近代化を、この国ではルネッサンスと呼んでいる。ルネッサンスのオマーンを外交と軍事の面からみれば、非同盟中立を標榜しているが、中東における事実上の西側の良き相談役、もしくはパートナーとしての役割を果たしている」

 この国がなぜ日本艦隊の寄港を容認したか、その背景を萩大使が解説してくれた。

 首都マスカットには、「東京太呂」という名の唯一の日本料理店がある。その夜、乗組員たちで、この店は超満員だった。

 「アラビアで、こんなウマイ刺身が食えるとは想像もしていなかった。このあたりに、良い漁場があるんですかね」

 魚の本場でもある九州の佐世保港からやってきて、私服姿でくつろぐ彼らの1人がそう言った。

 アラビア海に1700キロの海岸をもつこの国は、実は、世界有数の漁業国でもある。マグロ、モンゴイカ、アワビ、タイ、アジ、イワシetc。150種以上の魚がとれるという。5000隻の小型船が近海で操業、年間11万トンの水揚げがあり、GDPの10%を漁業が占めているという。ちなみに世界一の漁業大国日本の水揚げは、遠洋漁業も含めると年間600万トン。総トン数では、比ぶべくもないが、国民1人当りの漁獲量は年間で46キログラム、ちょうど日本と肩を並べているのだ。

 「マスカットの湾内でも、タイやアジが入れ食いで釣れる場所がいくつもある」

 店のご主人はそう言っていた。
 



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