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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: アテネに立ち寄る(下) 「ギリシア人」への幻想  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2004/01/06  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 月はおぼろにパルテノン ≫

 ギリシア共和国の首都アテネ市街の夜景は、値千金の趣がある。ギリシア古代遺跡のハイライト、アクロポリスがなんと夜空に、ぼんやりと浮かんで見えるのだ。アクロポリスとは「高い丘の上の都市」という意味だ。

 紀元前5世紀、神殿が建てられた聖域であり、かつ都市国家古代アテネ防衛の要塞でもあった海抜150メートルほどの小さな山である。私たちがこの地を訪れた10月の末、アテネの秋の夜空には、月がほのかにかすんでいた。“おぼろ月夜”は春の季題、そういう日本の常識は、この都市には、あてはまらなかった。

 アテネは、EU(欧州連合)諸国の中で、一番の交通渋滞がもたらすスモッグのひどい都市だとされており、市民はこれを「Netos」(雲)と呼んでいる。この人工の「雲」ゆえに、アテネの月は四季を通じてかすんで見えるのだ。この夜も、淡い月光が、市街地のど真ん中にそびえるアクロポリスに降り注いでいた。丘の70メートル直下には、アテネの繁華街の“光の海”があった。

 ネオンや街路灯が、月光に映える丘の上の大理石の神殿、パルテノンに反射している。月光と街の灯の巧まざる演出、それが「夜空に浮かぶアクロポリス」のからくりだった。

 「明日は、是非、あの丘に登りましょう」。旅の相俸、“松長学者”が言った。正直のところ、その時の私は「行きたくもあり、行きたくもなし」の心境だった。

 それほど、「おぼろ月夜のパルテノン」に堪能していたのである。私の目に焼き付いた遠景のイメージが観光客でごったがえす俗化した現場を訪れることによって破壊されるのではないか??。ふと、そう思ったのだ。

 「伊勢に出かけて、天照皇大神宮にお参りしないで帰るのと同じじゃないですか。アテネを訪れ、神殿のあるアクロポリスに行かないのは……」。歴史学者で、文学博士号をもつ若い彼にそうたしなめられ、苦笑した。

 なるほど言われてみれば、パルテノンとは、アテネの開祖、知恵の女神アテナを祭る神殿として建てられたのだった。洋の東西を問わず女神を粗末にすると罰が当たる……。彼の提案に従うことにしたのである。
 
 翌日、アテネ大学訪問の仕事を済ませて、アクロポリスの麓にたどりついたのは、午後5時を少しまわっていた。閉門まであと2時間足らずしかない。土産物屋や、観光客目当ての小さなTaverna(タベルナ=ギリシアの大衆食堂)の並ぶ坂と階段を、息を切らせて登る。入場券売場は、案の定団体観光客でごった返していた。

 アクロポリスは巨岩から出来ている小高い丘の上に、さらに人工で高さ十数メートルの石壁を築いて建設された紀元前5世紀の作品だ。門をくぐり、女神の立像を主柱代りに使ったイオニア式の「翼なき勝利の女神の神殿」を右側に見ながら階段を登り続ける。日本の神社の初詣でを思わせるような混雑ぶりだ。

 横31メートル、正面70メートル、高さ10メートルのパルテノン神殿の遺跡にたどり着く。

 「世界開びゃく以来、空前絶後の美建築なり。すべて大理石をもって建てられたドーリア式建造物で市内のいたるところから、仰ぎ見ることができる」。アメリカ人らしき団体客を引率したガイドの解説を盗み聞きしたら、そう言っていた。


≪ 「アクロポリスとかけて、富士山と解く…」 ≫

 売店で求めた案内書によると、「円柱の数、柱と柱の間隔、円柱を内側に少し傾斜させ、柱の中央を少しふくらませるなど、古代ギリシア人の微妙な美に対する本能によって、荘厳さと、気高さと美しさが表現されている」とのことだ。

 だが、この日、訪れた神殿跡は、とてもそうは見えない。前述した欧州最悪の排気ガス汚染で、大理石の酸化による腐蝕が激しく、倒壊の危機に瀕しているのが実体だった。

 世界一の建築美どころか、オリンピック開催前の修繕工事中とかで、縦横に碁盤の目のように組んだ鉄パイプのヤグラがやたらに目につくのみだった。

 「アクロポリスとかけて、富士山と解く。心は遠くで眺めるに限る…」。私は“松長学者”にそう言って、気をひいた。

 今度は、彼が苦笑する番であった。「それなら、遠くを見ましょう」。彼が指さすから2〜300メートルの眼下に、ディオニソス劇場跡があった。アクロポリスは眺望絶景の丘である。

 古代アテネの市民民主主義の全盛時代、18歳以上の青年男子が、5〜6000人も集合して民会を開いたところである。

 手を加えれば、今でも立派に使えそうな大理石造りの扇形野外会議場だ。

 ギリシアの都市国家は成年男子市民のみの共和制で、奴隷と女性は政治のカヤの外におかれた。30歳以上の500人からなる評議会が行政をやり、ときに民会を開き、民意を問うたとのことだ。

 神殿から北東300メートルに眼を転ずると古代のアグラ跡が眺望できる。アグラとは市場のことだ。

 1年のうち300日が晴天で、空気が乾いているアテネ。古代ギリシア人は好んで戸外の生活を楽しんだといわれる。

 「プラトンの対話編にあるように、アテネっ子である哲学者ソクラテスは、あの野外市場に集まった人たちを相手に問答をした」。“松長学者”が教えてくれた。

 アテネの土地はやせている。この付近は、何千年もの間、エーゲ海の強風が、土を吹き飛ばしてしまい、“土地の骨”だけが、残ってしまったという説もある。

 だから付近は、昔から岩山と山の麓に生える雑木の疎林しかないという。そういうやせた土地でも太陽がいっぱいの地中海性気候のもとでは、オリーブとブドウがよく育つ。アクロポリスの崖に繁茂する木々は、ほとんどオリーブで、小さな実をつけていた。

 アクロポリスの急坂を東に降りると小路が迷路のように錯綜するプラカ地区に入る。

 観光客が多く、パルテノン神殿の門前町みたいなところだが、実は古代ギリシアとは縁もゆかりもない。

 ギリシアを占領したトルコ人が18、9世紀に建設した住宅街の跡だという。赤い屋根のトルコ風住居を改造して、ブティックや、皮屋、土産物屋、レストランが店を連らねている。

 道が狭くて車が入れないところが多いが、深夜まで人通りは絶えない。ちょっとしたTavernaを見つけ、道端に並べられたテーブル席についた。

 かすかなそよ風が路地を吹き抜ける。空気は乾燥しており、アテネの地ビール「Mythos」(神)が、ことのほかうまく感ずる。その夜“松長学者”と私は、ビールを飲みつつ「ギリシアの旅」についての本音の対話を交わしたのだ。


≪ ギリシアで「ソクラテス」を捜すバカ ≫

私 「こんどの旅で奇妙に思ったことがひとつある。それは、古代ギリシアの彫像にあるような美しい容貌骨格の人が見当たらなかったことだ。いまのギリシアに美人がいないと言ってるのではないのだが、ギリシア神話のアフロディテ風の美女はいなかった。ソクラテスやアリストテレスのような哲学者的風貌の男にも出合わなかったし…」

松長 「いまのギリシア共和国で、ソクラテスやプラトンの像に似た人を捜すこと、それ自体がナンセンス。古代ギリシアは、紀元前2世紀に滅亡した。いまの共和国は、あれとは別の民族と考えた方がよい。古代ギリシア人は、インド・ヨーロッパ語族のアーリア人種だが、はじめからギリシア人というものが存在していたわけではない。この土地でともに生活しているうちにできあがった歴史的産物だ。歴史が変わればギリシア人でなくなるのさ」

私 「では彼らは何人なんだ」

松長 「現代ギリシア共和国人さ。古代ギリシア滅亡後、この土地は十数世紀にわたって荒廃が続いた。ローマの属領になったのち、北方からスラブ人、ブルガリア人が、南からアラブ人がやってきた。15世紀のビザンチン帝国滅亡によって、トルコに占領された。混血が進み、古代ギリシア人の面影は消滅した。長いトルコ支配時代のアテネは、過去の栄光は影をひそめ、草ぼうぼうの石ころだらけのさえない町だった」

 ギリシアがトルコの軛から離脱したのは、1834年の対トルコ独立戦争であった。英国の情熱詩人バイロンなど多くの欧州文化人が義勇軍として参戦した。古代ギリシア文化を欧州の精神的故郷とするロマン派の思い入れである。

 だが、彼らが現代ギリシア人を古代文化の直糸の継承者と考えてはいなかったと思う。なぜなら、どだい言葉が違うのだ。現代語と古代ギリシア語と共通しているのは、アルファベットのみで、文法・構文も異なっている。

 アテネには、国立歴史博物館があるが、展示物は独立戦争当時の記録しかない。古代ギリシアの記録は、もっぱら国立考古学博物館で展示されている。ということは古代ギリシア人は、この国にとって歴史というより、考古学の世界の人なのではあるまいか。
 



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