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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 「ビルマ」こと、ミャンマー連邦  
コラム名: 旅日記 地球の裏読み  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2003/11  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
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   ミャンマー連邦ほど、世界の認識が、マチマチな国はない。この国を2度訪れたことがある私(最近では2002年の12月)は、旅の道中、つくづくそう思ったのだ。

 まず世界がどう呼んでいるかである。「ビルマ」なのか、「ミャンマー」なのか。その話から始める。1989年、いまの政権(タン・シュエ上級大将ら19人の軍人が指導する国家平和発展評議会のひきいる政権)が、国連に対して英語の呼称の変更を届け出た。これまでのUnion of Burmaから、Union of Myanmarへと変えたのだ。現地語の国名は、この国の独立以来ずっと「ミャンマー連邦」であった。ミャンマー人に聞くと「ビルマ」と「ミャンマー」は英語の発音が異なるだけで、意味は同じとのことだ。


≪ CIAのホームページを開いて見たら ≫

 ところが英語の国称変更以来、世界はこの国を「ビルマ」と呼ぶ派と「ミャンマー」と呼ぶ派に分裂してしまった。「ビルマ派」は、欧米だ。米国CIAのホーム・ページを検索したら、The World Factbook 2002のビルマ編に行き着いた。それにはこう書かれている。

 「ビルマというのは国際的な名称である。軍事政権は、これを変更した。この決定は、ビルマ議会の議決という手続きをふんだものではないので、米国政府は承認しがたい。よって従来通りビルマと呼ぶ」と。改訂以来、この国を英語でどう呼ぶかは、重い意味をもつにいたった。米英をはじめ「民主主義」とか「人権」にうるさい国は、軍事政権の国称変更届を黙殺し、ビルマと呼び統ける。他方で、ASEAN諸国や、日本は、「ミャンマーと呼ばれてみたい」との気持を忖度して、ミャンマーを使っている。この使い分けは、てっとり早くいうと、1988年以来、軍政を施いてこの国を統治する軍人政権を容認するか、しないか、現政権の正当性にかかわる問題になっているのだ。

 そのいきさつを知るには、少なくともミャンマー現代史のごくおおざっぱな知識が必要だ。

 「1824年、ビルマを征服した英国は、インドの一州として統治した。1937年、インドから分離され、英連邦の中の自治権をもつ植民地となった。その後1962年から1988年までネ・ウィン将軍が、この国を支配した。彼は最初の軍人統治者であり、後には国家主席であり、退任後もキング・メーカーであった。しかしネ・ウィンの一党支配体制が崩れ、1990年、多くの政党による選挙が行われ、野党第一党が勝利をおさめた。だが与党である国家発展評議会は、政権を野党に渡さなかった。それだけでなく勝利を収めた野党のリーダーで後にノーベル平和賞受賞者となったアウンサン・スーチー女史を1989年から1995年まで、自宅に拘禁し、政治活動を封じ込めた。その後も、彼女は何度かにわたって逮捕、釈放が繰り返されている。彼女の支持者たちは、政治犯として多数刑務所に入れられた」。

 これは、例のCIAホームページで検索した「ビルマ略史」の一部だが、この限りではCIAの叙述に誤りはない。判断の分かれ道は、このいきさつをどう受けとめるかだ。「ビルマ」派は、いまの軍事政権を「悪玉」だと決めつける。その論拠は、(1)選挙という民主主義の手続きがもたらした結果を守らなかったこと(2)ノーベル平和賞受賞者アウンサン・スーチーをないがしろにしてること(3)民主主義と人権に敵対する軍事政権は、存在そのものが悪である??の3点だ。

 だが、ここで私は考えたのだ。「外国人にとっては、“愛しのスーチーちゃん”を持ち上げ、悪の権化は軍事政権のタン・シュエ上級大将と決めつければ、事が足りるかも知れない。しかし、ひとつの国が、ときには軍事政権をもつのは、それなりの合理的な理由があるのではないのか」と。

 一国の安全と繁栄と国民の幸福は、民主主義と人権のみで語れるのか? 多くの民族が雑居し、内戦の絶えなかったこの国の秩序の回復、治安維持、国の統一はどうするのか。経済をどうするのか??。政体の選択については、このようなリアルな視点が必要ではないのか。


≪ 「スーチー女史の亭主が日本人だったらよかったのに……」 ≫

 ミャンマーの人はどう思っているのだろう。首都のヤンゴン市内に住むジャーナリストの長老を訪ねた。彼の名はセー・ウィン。第2次大戦中、南方特別留学生として日本で学び、ネ・ウィン軍事独裁政権時代には、逮捕歴3回、スーチー女史よりはるかに長い抵抗の経歴をもつ反骨精神旺盛の在野ジャーナリストだ。ミャンマー独立の父、アウンサン将軍の一人娘で、インドと英国に長く滞在し、ネ・ウィン失脚とともに英国的教養で武装して、帰国したアウンサン・スーチー女史のことから切り出してみたのだ。

??「スーチー女史の亭主が英国人ではなく日本人だったらどんなによかったか」という冗談が、この国の知識人の間でささやかれてるそうですね?

 「彼女は、アングロサクソン流の知識人でそれをひけらかす。彼女にはアジアの一員であるミャンマー人の心がない。だからこの国で支持者は、欧米人が思っているほど多くはない。アングロサクソンの価値観では、ミャンマー国の難問は解決できないのだ」

??そうだとすると、彼女はミャンマーにとって何なのですか?

 「昔の軍事政権であるネ・ウィンは論外であり悪そのものだった。だがいまの軍事政権を“悪”と決めつけることはできぬ。たしかに問題はある。だが、いまのこの国にとっては絶対必要だ。言うなれば、Necessary Evil(必要な悪役)さ。存在意義を否定しちゃいかん。そう、ミセス・スーチーのことねえ。彼女は外見上はAngelだ。とくに欧米のキリスト教徒にとってはね。しかし、ミャンマーには、Unnecessary Angel(無用の天使)だ、彼女の存在はミャンマーにとって決してプラスにはなっていない」

??もし彼女が軍事政権にとって代わったら?

 「そりゃ無理だ。国がめちゃくちゃになる。欧米人は、それでいいかも知れんが、ミャンマー人は困る」

 セー・ウィン氏と話し込んだ

 「スーチー無用、軍事政権有用」の事情は以下の通りだった。

 まず第1に、いぜんとして国家の統一が建国以来の大きな宿題として残っている。独立以来、国名には「Union」がついている。ユニオンとは、一枚岩の民族国家ではなく、連合国家という意味だ。もともと、ミャツマーは、100以上の部族からなる寄り合い世帯の地域だった。植民地時代、英国は中央の平地に住む多数派のビルマ族(人口の68%)を抑えるべく、周辺の山岳地帯に住む小数民族を優遇する「分割統治」策をとった。「分割統治」の後遺症として、独立後、内戦を経験しており、統一をなしとげる能力は、いまの軍事政権しかない。

 第2は、現政権の正当性の問題だ。たしかに選挙による民意は反映していない。しかし、いまの政権は軍人支配の政権ではあるが、1962年から88年まで独裁政治をやり、悪名高かったネ・ウィン軍事独裁政権の否定者として登場していることを、欧米は見逃している。(私が2度目に訪問した2002年12月、ネ・ウィン将軍はヤンゴンで死亡した。葬儀に集まったのは、わずか25人の近親者のみだと聞いた。いかに現政府がネ・ウィン第一次軍事政権と一線を画そうとしているのかを思った。)

 第3は、経済だ。ネ・ウィン政権は、「社会主義」と「鎖国」という2つの誤った政策をカクテルにした独裁政府であった。その結果、独立以来、隣国のタイより繁栄していたこの国の経済は疲弊し、世界有数のコメ生産国なのに、コメ不足さえ起こした。1987年には、1人当りGDPが200ドルを割り、世界の最貧国グループに転落、88年の暴動につながった。タン・シュエの軍事政権がネ・ウィン路線を転換、「開放」と「市場原理」を導入した結果、1人当りGDPは、950ドルにまでもち直した。

 こうした実績を加味して、現実主義の見地からミャンマーの軍事政権を採点し直すとどうなるか。スーチー女史をかつぐ米欧の絵に書いたような民主主義が、この国に幸せをもたらす特効薬なのか。この設問は欧米流の単純な「善玉」「悪玉」2元論では、とうてい解けないアジアの不思議なのだ。


≪ 「甘口」と「辛口」2冊ある旅行案内書 ≫

 この随筆は、旅行記である、スーチー論はこのへんで筆を置き、ミャンマーへの旅について論ずる。出発前、意識して2冊のガイドブックを求めた。世界には「ビルマ派」と「ミャンマー派」があるのだから旅行案内にも2派あるに違いないと思った。そして異なる観点の2冊の本で予習して、この国を複眼で観察しようと試みたのだ。

 手に入れたのは、英文のLonely Planetの「Myanmar(Burma)編」と、ダイヤモンド社の「地球の歩き方・ミャンマー(ビルマ)編」だった。米国人と英国人の書いた旅行案内書であるLonely Planetは、案の定、アウンサン・スーチー大好きのビルマ派だ。「知られざる黄金の土地の内幕」という思わせぶりな副題が印刷された表紙をめくって、目を見張った。第1頁には「ミャンマーを訪問すべきか?(Should you go Myanmar?)」とあるではないか。およそ観光案内書とは、目的地を訪問するのを前提として作成されるものと思っていたのに「行くべきか、行かざるべきか」がテーマとは驚きであった。世界広しといえども、そういうガイドブックはこの本だけだろう。

 書き方もなかなかのハードボイルド、つまり冷徹にして非情である。

 「だいたいね。この国の話はつまらないんだ。ここは軍事政府の国で、アウンサン・スーチー女史は拘留中だ。情緒にかける。民主主義とか人権とか、話が固苦しくなる。この国を孤立させると中国とぴったりの仲になってしまうと心配する人もいる。何事も絶対にYESとかNOという答はないのだから、多くの庶民が観光に依存して生計を立てている現状にかんがみ、行ってあげるのも一案だ。ただしあくまでも自己責任で行ってくれよ。旅の楽しさを少しでも味わいたいなら、国の観光局の世話になるな!」。

 ざっとこんな調子だ。これでは、旅行に二の足を踏む人も多いのではないか。もう1冊のガイドブック、日本人向けの「地球の歩き方」は、ミャンマー大好きの甘口の本だ。表紙には「信仰とともに心豊かな毎日を送りやさしく微笑む人々が暮す国」とあり、グラビアページには、「ミャンマー旅の風景。一度訪れてすっかり気に入ってしまい、その後何度もこの国へ足を運ぶ旅人は多い。新鮮な驚きを感じつつどこか懐かしい雰囲気が味わえるミャンマー。その魅力を探りに行こう」と書かれている。「行くべきか、行かざるべきか」がテーマの英文ガイドブックと比べたら、まさしく天国と地獄ほどの違いだ。


≪ ヤンゴンの人間模様 ≫

 どっちがミャンマーの実像を伝えているのか。どちらも真理の一面をついている。これがこの国を旅して「辛口」・「甘口」両様の経験をした私の答である。まず辛口の経験をひとつ。

 <入国管理と税関では、手続きが1時間以上かかることを覚悟せよ。バンコクからタイ航空機がたった1機着いただけで大混雑だ。この国の制度と役人は時間かかるように出来ているんだ。とりわけ税関の疑いのまなざしは、ほとんど偏執狂的だ。飛行機から降りたら、ともかく窓口の列の先頭をめざして突っ走れ>。

 これは、例の「辛口」の英文のガイドブックの「ヤンゴン空港にて」の記事だ。2002年12月、私もガイドブックと同じく、バンコクからタイ航空でミャンマー入りしたのだが、まさしくこの通りだった。入国管理→外貨の強制兌換→荷物の受取り→税関の手続で、合計1時間半。軍事政権の外国人扱いの悪さには正直いってうんざりした。

 空港には、ヤンゴンに駐在する日本財団の斉藤栄君が迎えに出てくれていた。「この国は入りづらいね」。それが私の彼への第一声だった。彼は苦笑した。そして言った。「でも、どこの国にもサニーサイド(陽の当る光景)とダークサイド(暗い影)があるでしょ。空港の不愉快さは、国の統一に悪戦苦闘中の軍事政権がもたらした影の部分です」と。ミャンマーとは、いったいどんな国か。ヤンゴン滞在中、若き斉藤君と折に触れて話をした。「良い国」なのか「悪い国」なのか、それを決めるのは、この国を認識する目線の違い、てっとり早く言えば、好きか嫌いかの問題に帰着する??が結論であった。

 日本人のビルマ好きには定評がある。これは第2次大戦のよき遺産であろう。竹山道雄の小説「ビルマの竪琴」は、仏教徒ビルマ人の素朴な人柄がテーマだ。戦後まもなく出版されたこの本を読んだ日本人たちは、ひとしく感激し、ビルマ人に好意をもった。そして「ビルマ人は日本人が好きで親日的だ」と勝手に決めこんでしまったふしがある。

 「エエ、その通りです。断定的なビルマ人観は危険です」。彼は、最近ヤンゴンで日本人とミャンマー人との間に起こった惨事について語った。

 <ヤンゴン市内にインヤー湖という景勝の地がある。その畔はヤンゴン大学や大使館もある高級住宅地だ。そこで2002年5月、殺人事件が起こった。この地区に事務所兼住居をもつある日本の大手企業の現地法人の社長が、ミャンマー人の男性従業員に刃物で刺され死亡したのだ。現地の新聞には「1人のミャンマー人女性をめぐる争い」とあったが、事実はそうではない。自分に対する雇主の横柄な態度に我慢ができなくなったこの男が、怒りを抑えきれなくなって殺人にまで発展した。日本人駐在員社会ではそういうウワサでもちきりだという。>

 ミャンマー人は総じて控え目である。謙譲の美徳ももっている。他人への思いやりはある。性格は温厚で、仏教の五戒を守り、殺生を好まない。ある対象について不満があってもそれを表に出さず極限まで我慢する。しかし積もり積もった不満が限界を越えたとたんに、戒律の抑制力が失われ、切れてしまう。だから日頃、温和しいのを良いことにして、人格を傷つけ続けるととでもない結末を迎える。斉藤君と話したビルマ人論の一端である。

「Good morning Mr. Utagawa」

 「地球の歩き方」にある一度訪れたらすっかり気に入り、何度もこの国に足を運ぶ……」ような「甘口」の世界は、どこにあるのか。どこかで「心豊かな毎日を送り、やさしく微笑む」伝統的な心をもつミャンマーの庶民に会えぬものかと願っていたところ、ごく身近なところで遭遇したのである。

 そこは、ヤンゴンの繁華街にあるトレーダーズホテルの客室。私は閑静さよりも、便利さを選択してここに泊まった。いつも部屋の掃除が行き届いている。放り出したズボンやシャツまで、きちんとたたみ直してある。メイドさんのきめ細かいサービスに感心した私は、英文で記した簡単なメモをベッドの枕元に残しておいた。

 「有難う。あなたの温かいお心遣い。デスクの上は書類で散らかっているけど、ミャンマーの随筆を書くための私の資料ですから、こちらの方は片付けなくても結構です」。その脇に1ドル札のチップを置いた。

 夜、外出先から戻ったら英文の置き手紙があった。

 「Good morning Mr. Utagawa. When I clean Your room, I saw you・・・」(以下日本語訳で続けよう)。私はあなたが枕を2つに折って使っていることがわかりました。あなたにとってホテルの枕は低すぎるのでしょう。あなたが心地よい眠りにつけるよう枕をもうひとつ置かせていただきました。それから、あなたの重い書類カバンが置けるよう室内にもうひとつラックを備えておきました。私どもホテルに泊っていただき有難う。「Have a nice day. Your housekeeper, Marie」

 この10年間で、私は100力国近くの国々を旅したが、チップの返礼に、メイドさんから手紙をもらったのは初めてだ。おそらく空前にして絶後だろう。

 ミャンマーの所得水準は低い。が、ヤンゴンで暮すには少なくとも30ドルの月給が必要とのことだ。だから1ドルの心付けは、彼女にとって大歓迎だろう。しかし彼女が私にしてくれたことは、お金故ではなく、あくまで志であると思いたい。

 この国で放映された連続TVドラマ「おしん」は超人気番組だったという。

 軍事政権であろうとなかろうと、アウンサン・スーチーが拘束されていようがいまいが、日本人とミャンマー人は心が通じ合える。彼女の思いやりのある文面を繰り返し読みつつそう思った。ミャンマーで英語の書ける世代、多分、彼女は50歳以上であったろう。
 



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