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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 蛍の降る村  
コラム名: 私日記 第48回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2003/12  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2003年9月13日

 孫の太一と私の誕生日が1週間しか違わないので、いつもいっしょにこそこそと祝う。夫はこういうやり方を「合同慰霊祭」と称している。今日は太一の希望で銀座にてんぷらを食べに行く。

 地下鉄を降りてから今度カメルーンで訪れるピグミーの村のことを考えて、本屋で関係の本を検索してもらった。十数冊あったが、店には1冊もない。絶版も多い。もう日本の出版業は滅びたも同様だと思う。今私が蔵書として持っている本が急に宝物に思えて来た。作家には不思議な勘があって、私はインドのヒンズーの階級制度、傭兵、奴隷制など、最近改めて考えるべきテーマの本を、まだほんとうに研究する前から買い集めてある。しかしピグミーについては、そういう機会があるとも思わなかったので、こういう悲しいことになる。

 太一は、私のてんぷらを3分の1は助けて食べてくれるから便利だ。21歳という年を、かなりの年取りだと思うのだそうだ。


9月20日

 総裁選終る。小泉総理圧勝。

 朝、文化庁より電話。雑用すべて片づけて、と言いたいところだけれど、パリ行きの夜行便に乗るまで家中を駆けずり廻ってやっと夕方6時、家を出て成田空港に向かう。

 第7回目の「世界の最貧地帯」に入る旅の出発である。目的地は、カメルーン共和国、コンゴ民主共和国、コンゴ共和国、アンゴラ共和国、南アフリカ共和国である。私は南アで一行と別れてシンガポール経由、インドネシアに行くことになる。7回のうち6回までが、アフリカ諸国であった。今回は総勢21人。メンバーを記しておく。

 岩男勝実  海上保安庁 福岡海上保安部
 小林幹男  国土交通省 河川局砂防部
 金嶋浩司  防衛庁海上自衛隊 小月教育航空隊
 山本英紀  厚生労働省 安全衛生部
 南 秦誼  ジャーナリスト
 鈴木 浩  暮らしの映像社 プロデューサー
 将口泰浩  産経新聞大阪本社 社会部
 中田 努  TACディレクター
 中島みゆき 毎日新聞編集局 学芸部
 石田 望  リサーチャー
 中井栄一  医師
 安田浩子  医師
 的場順三  日本財団理事
 ムウェテ・ムルアカ  アドバイザー

 他日本財団の職員は私を含めて7人。

 このうち中井栄一氏は日本におけるハンセン病の第一人者で、この春まで国立療養所長島愛生園長。安田浩子さんもつい先日まで、自衛隊中央病院の第一内科部長であった。ムルアカさんは鈴木宗男議員の秘書として有名だったが、コンゴ人なのだから今度の目的地の解説者として最適の人物である。私個人が、最近『毎日新聞』で始める予定の新聞小説『哀歌』の事実関係のチェックを依頼している方でもある。

 財団側の職員のうち、2人はつい近年入社した新人。日本財団では、新人のうちにもっとも過酷な旅を経験させることにした。後はどんなきつい旅行も平気になる。もっとも参加者はお客さま扱いできないので、成田を発つやいなや、荷物の扱い他すべて労働を分担してお願いします、と言ってある。


9月21日

 まっ暗い早朝のパリ着。

 荷物を目的地まで預けっぱなしにすることをスルーと呼んでいるが、それでは多分無事に着かないだろうというので、いったん40個の荷物をシャルル・ドゴール空港で取り出す。同じエール・フランスに再びチェックインするのだが、それも「早く預けると、荷物がその辺に放り出されている時間が長くなり、盗難の恐れがあります。できるだけ時間ぎりぎりに預けてください」というのがパリ在住のカメラマン・熊瀬川紀氏の注意。チェックインの係は1人1人でなければ受け付けず、出国の手続きにも長い長い行列。トイレの個室は電気がつかず。何が花のパリであることか。

 再びサハラ上空を南下。20年前に出た砂漠縦断の旅の思い出の土地である。夕方カメルーンのドゥアラ着。サワ・ホテルに入る。


9月22日

 朝5時、ドゥアラのホテル発。アフリカの払暁の素晴らしい空の変化を眺める。

 7時半ヤウンデ着。ヒルトン・ホテルで、預ける荷物と、携帯するわずかな手荷物とを仕分け、借り上げてある5台のランドローバーに積み込む。さらに警護を依頼してあった軍讐察と会った。ここから東へ約600キロにあるミンドルウという土地まで入るのに、途中の治安の状態がわからないからである。指揮官の大尉と他4人。フランス製とチェコ製の機関銃3丁には弾120発ずつ。ロシア製のカラシニコフ機関銃には弾140発。手榴弾1人4個ずつ計20発。それに拳銃。防弾チョッキをつけている。

 ここでシスター・末吉美津子さんの車とも合流した。末吉さんはミンドルウの森の奥でピグミーの子供たちの教育を続けていて、私が働く海外邦人宣教者活動援助後援会というNGOがわずかな学用品などの費用を受け持っているのである。

 出発の時の車列の順序は、先頭の末吉さんの車に、海上自衛隊の金嶋さん、カメラマンの熊瀬川さんと私が乗ることにした。起こるべき危険の種類が予測できないからである。

 金嶋さんは私の依頼で、車列が襲われた時の退避に必要な要項を書いて送ってくれた。常識的に考えられるゲリラのやり方は、前方に風倒木のように見せかけた障害物を置き、そこで停止する車を襲うものである。だから前方に何か異変が見えたら、決して現場まで近づかずに先頭車はすぐに全車に停止を命じ、いっせいにUターンの体勢に入る。現場を見定めに行くのは、軍警察車だけにする。警告は、それぞれの車が持っているハンドフォーンで同時に知ることができる。道幅が狭かったりしてUターンが不可能な場合には各車単線で後退し、その後にUターン。その際「少々車を傷つけても無理やり回頭させ、反対方向に急速離脱」という条項があって、私はプロの視点に教えられた。

 起こるべき危険の種類は、果たして予期しない面で起きた。まだヤウンデを出ないうちにロータリーで車列がばらばらになってしまったのである。熊瀬川カメラマンが皮肉に言う。「日本人というのは曲がり角と言うと、直角に4本だけだと思ってますけど、ロータリーには別れ道が普通6本はあるんですから」

 別れ道が6本か。女との別れ方も多い方がいいのか、と私はばかなことを考える。

 限りなく続く熱帯雨林の丘。セイダカアワダチソウが木になったような黄色い花を付けた木。自然に放置しても素晴らしい丸い木陰を作る木。個人の家の前のタイルを貼った墓。

 道は思ったよりよく、夕方早めにベルトアに着けた。軍警察、ドライバーたち、我々、みんないっしょに食堂で夕飯。


9月23日

 再び夜明けの出発。ここから目的地ミンドルウまで距離は長くないのだが未舗装の道で、少し前にここに来られた国枝昌樹大使は道が水に浸かっていて迂回しなければならず、大変時間がかかったと書いておられる。しかし今日は驚くほどすらすらと走る。辺りの原生林には直径2メートルも、もしかするとそれ以上もある巨木が生えていて、それを切り出しているイタリアの会社が、材木を搬出するために、2、3ヵ月に一度道にグレーダーを掛けて整備しているからである。あまりいい道だと教育にならないなあ、などと私は早くもいじわる婆さんの心境。肩から首がずれるのではないかと思うほどの悪路に、1日中揺られるような体験が必要なのだ。

 このイタリア資本の材木会社は、土地の子供のために学校も建て、シスターたちの車も無料で修理し、けっこう地域住民のために気を使つているらしいが、木を切り出した後、同じ種の木を植えることはないという。自然に生えるから大丈夫、というのが彼らの言い分だそうだ。

 事故はゲリラより、この巨木を積んだトレーラーと我々の車列がぶつかる可能性が多い、と私はすれ違う度に、無事を祈るような思いである。昼過ぎミンドルウ着。

 丘の麓の修道院は、幾つもの棟に分かれて建っている。女性4人は、ベッドもある2部屋を頂いたが、安田さんと私の部屋は書棚とカーテンだけで、男性の雑居部屋と繋がっていた。きっと修道院では、いろいろとやりくりして仕切もつけてくださったのだろう。皆寝袋と蚊帳を持って来ているのだから、どこででも寝られるはずだ。自分専用の寝袋にもぐり込む楽しさは、体験した者でないとわからない。

 午後いよいよピグミーの森に入る。入り口の道は草が生い茂って車に当たる。まず村の保育園と小学校。20人ほどの生徒たちはすべて裸足である。だから爪の間に砂ノミが卵を産みつけている子もいる。しかし歌は非常にうまい。

 それから村長さん一族が住んでいるところで、初めてピグミーの丸い家に入った。雪で作ればまさにカマクラの形とサイズである。しなやかな曲がりやすい木の葉を集めて作る家は、女性だけでも数時間でできるという。中に炉の火が燃えている家もあった。

 前庭で、象狩りに出る前に安全を祈る儀式だという歌と踊りを見せてもらった。財団の3人の若者もすぐ加わって踊る。こちらは180センチを越える大男ばかり。ムルアカさんに至っては2メートル9センチだそうだが、ピグミーは決してそんなに小さくない。明治生れの私の祖母くらいである。

 次の集落(と言っても数軒の集まりだが)でジェンギという,儀式を見せてもらう。これはなかなか外部の者が見られない貴重なものだが、シスター・末吉のおかげで私たちが特別に見せて貰えるように配慮されたのである。

 若い草を束ねたものを頭と肩と腰に3段につけたノッペラボーのお化けのようなものは森の精霊を表しているのだろう。村人の誰かが中に入ってただくるくる続けざまに廻って踊るのだが、ジェンギが近寄って来ると子供たちはナマハゲに襲われたように逃げ出す。霊に足があってはいけないというのはここでも同じで、それでも廻る時に足がちらとも見えないように数人の男たちが木の枝で、足元を隠している。このジェンギは能に似た強力な省略美と、森の精霊に対する深い信仰が見られて、深く私の心に残った。

 その夜は、私たちが持参のめん類パーティー。食器も持参。お湯をかければすぐ食べられる。食事の後、私は眠くなってさっさと部屋に引き上げ、水をかぶって気持ちよく眠ってしまった。安田さんや書棚の向こうの人たちが帰って来たのを全く知らなかったのは、皆さん静かにするように気を使ってくださったかららしい。私が神経の荒い人間だということはもう少し事前に知らせておくべきだった。

 自家発電は8時半で消える。その後は下弦の細い月。生気に溢れた夜の静寂。そして無数の蛍が、夜の大地を祝福する。


9月24日

 朝6時、ミサ。フィリピン人の神父がおられる。皆はマーケットに行ったが、私は小学校訪問も、材木会社のインタビューもさぼる。ただ安田浩子さんと、修道院の中にある診療所を再度、昨夕に続いて訪ねた。生後6日だという破傷風の赤ちゃんが、昨日よりずっと脱水症状がひどくなっていて、もう老人のような顔をしている。安田さんと、フィリピン人の看護婦さんのシスターが一生懸命、輸液のための血管をこめかみのところで確保しようとするが、なかなか針が入らない。失業者の父と、母、叔母、祖母、治療費の保証人になっている叔父まで一族をあげて来ているが、吐いたものに血が混じっているという。信仰深い安田さんは、こういうことがあるから、祈りが必要なのだ、という。新生児のこめかみの血管に針が首尾よく当たるかどうかは、確かに人間の能力を越えた偶然や僥倖もあると見なさなければならない。

 午後歩いて1分の所にあるピグミーの子供たちの寄宿舎を見た。トイレもシャワー室も別棟。寝室は窓も小さく、おまけに刑務所のような格子がはまっている。室内は掃除はできているのだが、ベッドは古く汚く、くたくたに破れかけたスポンジのままのマットレスや染みだらけの枕など貧しさむき出し。そこに親たちが持たせて寄越した質素な手製の掛け物が畳んであるだけで、私物などどこにあるかと思うほどである。何で窓に格子なんか付けたんでしょう、と聞くと、これっぽっちの貧しいものでも盗む人がいるからだという。

 静寂に包まれながらあの「葉っぱのカマクラ」の家に寝て、歩外へ出れば、満天の星と、あたりに飛び交う蛍の光に照らされる暮らしと切り離されてまで、町の学校に通わねばならない、と思う子供が果たして何人いることか、と向上心の薄い私は思う。

 夕方の祈りの時、俄かに結成された聖歌隊が「アーメン・ハレルヤ」と「ルルドの聖母」を歌った。ことに後者は、国際的な労働者たちの歌だと言われた「インターナショナル」がもうほとんど歌われなくなった今、全世界のカトリックがたちどころに歌える数少ない歌である。フィリピン人の神父は、日本にこんなにカトリックが多いのか、と思われたらしい。隊員の中のカトリックは私を含めて3人だけ。

 夜は33人分のカレーを作った。シスターが固い肉をゆっくり煮ておいてくださったので、持参のコンビーフはほんの2缶味出しに使っただけで修道院に残して来られた。カレーはどこの国の人でもおいしいと言う。

 その後蛍の光を愛でながら、ミンドルウとのお別れを楽しんでいると、ピグミーの人たちが訪ねて来て、私たちに陸亀の雄雌をくれた。以前は人にもらうことが当たり前となっているピグミーが「いつもありがとう」と言ってお返しを持ってくるような気持ちになったことを、シスター・末吉はほんとうに喜んでおられる。

 軍警察が、日当の残りの一部を貰えないかと言って来たというので、「もちろん、お上げなさい」と答えておいた。出発前に半金だけ渡して、残りはヤウンデ帰着後という条件を固守したのは私だが、それは職務遂行が最後まで行われるように、という詰まらぬ配慮からであった。しかしこの人たちは誠実で信用のおける立派な人たちであった。


9月25日

 未明に再び、修道院の食堂で皆がめいめい自分でパンにジャムを塗ってお弁当を作る。車内で朝飯。昼も途中のパン屋で甘い味のパンを買って、それだけ。さすがの四駆の運転手たちが、「魚の缶詰くらいなければ食べられない」と言って、缶詰を買いに行ってしまったが、私たちはパンだけ。何しろ貧困の調査なのだから、それでいいのだ。

 残金の一部をもらった軍警察の人たちは、ときどき車を止めて買い物をする。やがてカーキ色の軍用車の幌の中は、青いバナナとマニョク薯で一杯になった。安い買い出しができて奥さんたちは喜ぶのだろう。

 夕方予定より早くヤウンデ着。

 途中事故は、パンクが1回だけ。それも素早く、10分間で直した。パンクしたタイヤは修理ができないままだが、同車種を揃えてあるので、タイヤは融通できるのである。こういうことが実に重大な要素。牽引用のスチールロープは、最近スチールではなく特殊な化繊製になり、うんと値段も安くなった。それは使わないままシスター・末吉に上げた。悪路を行く時のお宝になるだろう。


9月26日

 私だけ朝、現大統領の夫人の名前を取ったシャンタル・ビヤ財団を訪問。今大統領夫妻はTICAD?(第?回アフリカ開発会議)に出席のため東京にいるが、私が日本でお会いできないことがわかったため、現地でご自分の財団に来ることを要請された。踊り手まで20人ほど並び、テレビ局も来ている派手なお出迎えには恐縮したが、病院は立派なもので、この財団は裕福そうに見える。大統領夫人は白人と土地の方との混血の美人で、着飾ったお姿でパンフレットにたくさんお写真が写っている。

 その後、オバラという土地に寄り、シスター・田中一栄さんが面倒を見ておられるコムトウ診療所を再訪した。海外邦人宣教者活動援助後援会が贈った医療設備一式を、きれいに揃えておいてくださった。分娩台、赤ちゃんの体重計などである。奨学資金を出した1人の青年も立派な家具職人になっていて、自分の作った戸棚を見せてくれた。

 驟雨の中をドゥアラに帰着。的場順三理事は明日合流なさる。最大の難関は一応無事に突破したのだが、気を許してはならないと心を引き締める。


9月28日

 朝4時、ホテル発。カメルーン航空でコンゴのキンシャサヘ。実は運航しているのは、ユーゴスラブ航空のDC9型機とパイロットたちだった。

 時間通りに出て、飛行機は1時間でコンゴ共和国のブラザビルに降りる。ここへは、私たちは川船を使って渡って来るのだ。また一飛びして、キンシャサ着。コンゴ川の豊富な水流を上流から見て感動した。ここは恵まれた国である。

 空港では福島清介大使と「コンゴ?日本連帯」代表のミリヤム・モーバさん他のお出迎えを受けて特別室に通されたので、ぼろぼろの空港のすさんだ空気の中で荷物を受け取る訓練ができなかった。第一、空港自体が恐ろしくきれいに立派になっている。ここでは副大統領ともお会いすることになっている。若い人たちが、一度はそうした外国要人に正式な表敬訪問をする時のマナーにも馴れてもらいたいと思って、貧困の調査にはあり得ない場面も入れたのである。

 午後立派なモーバ家(公邸だという)に招かれる。ご主人は外務副大臣で来日中だという。「コンゴ?日本連帯」の人たちが、揃いのTシャツで大勢出迎えてくれた。ますます貧困の調査とは遠ざかる。しかし実に真摯で誠実なモーバ夫人が、こちら側のたくさんの質問に答えてくれた。


9月29日

 朝7時ホテルを出て、船着場へ。今日からまず、対岸のコンゴ共和国のブラザビルに2泊の予定で行くのである。

 渡し場は壮絶。垢でくたくたのお札を20センチ分くらい握った両替屋の男や女。黒シャツの背中に太きな十字架のアップリケをした男は別に神父というわけでもないらしい。手製の車椅子やリヤカーに乗った身障者たち。足の動かない人たちが実に多い。小児麻痺をまだ予防していなかったのだろう。私たちの仲間の1人が写真を撮って、憲兵に連行される。なあに、最悪でかメラを返して貰えないだけだ、と私は同情していない。

 上部の船室では大きな体つきの、お金持ち風の男女が先にテーブルを占有していた。「泥棒は才能の一種」とするモンゴ族の人たちだという。「上等」の船賃を払ったのに、私たちは椅子もなく立ちっぱなし。しかし10分か20分で対岸のブラザビルに着くというのだから、と気持ちよく川風に身をさらしていた。
 

アフリカ貧困視察2003(第1回)  
アフリカ貧困視察2003(第2回)  


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