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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: エチオピア紀行(4) 食糧不足はなぜ起こったか  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2003/11/18  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ アフリカ大地溝帯を行く ≫

 初めてのエチオピアで思ったこと、それはこの国の昔と今の強烈な「明」と「暗」のコントラストだった。太古、初の現代人を誕生せしめたこの地の美しく豊かな自然、古代にさかのぼるほど輝いてくる歴史、多様な伝統文化。古きものはすべて「明」であり、現代に近づくにつれて「暗転」する。それはどうしてなのか。私の見つけた答は現代エチオピアの持つ飢えと貧しさに由来する??であった。

 私がこの国を訪れた目的は、1986年の100万人の餓死者を出したエチオピア大旱魃をきっかけに設立された「笹川アフリカ協会」のサブサハラ・アフリカの食糧増産事業の視察だった。エチオピア政府は、この農業技術移転プログラムを熱心に推進している。

 アト・ベレ・エジク農林大臣は、私にこう言った。「わが国の国民の3分の1は1日1ドル以下の収入で暮らしている最貧困層だ。農業生産性を高めて、これを1日2ドルにしたいんだ。エチオピア人の85%は農民だ。GDPの50%は農産物だが、あの頃(エチオピア飢餓)は、それを国民が全部食べてもまだ飢えていた」。

 笹川アフリカ協会の現地駐在員、間遠俊郎さん、そしてホスト役の元農林省農業普及局長のタケレ・ゲブレさんら一行と、車体の高い四輪駆動車で農林地帯に出かける。間遠さんは海外青年協力隊で奉仕活動をやったのち、ロンドン大学で経済学の修士号を取り、学問と実践の一致をめざしている。

 車は舗装の幹線道路をなだらかなカーブを描きつつ、首都のあるエチオピア高原から標高にして1000メートルを徐々に下り、アフリカ大地溝帯に入る。幅40〜60キロメートルの高地と高地の間にある平原で、何本もの川が流れている。アフリカ大地溝帯の造山活動はまだ死んでいない。火山帯が通っており温泉がいくつもある。

 焦げ茶と黄色の2色模様の風景がはてしなく続く。やや黒味をおびた茶色の土に、黄色のワラが積み上げられているのだ。米や麦ワラにしては、細くて短い。収穫の終ったエチオピア人の主食「テフ」の畑であった。テフの育成には手間がかかる。ヒエに似た穀物で栄養価は高いが、収穫量が小さい。エチオピア人はこれを粉にして「インジェラ」という名の円盤状のパンにして食べる。一度、試してみた。ねずみ色のパンで、およそ食欲をそそらない。無理して口の中に突っこんだのだが酸味があってウマイとは言えない。

 「テフ不足のエチオピア人は、米を粉にしてテフの代用食にするが、薬みたいで不味いと言っている。あの酸味が彼らにとっては、こたえられない風味なんでしょ。米やトウモロコシなら1ヘクタール5トン以上とれるが、テフは1トン。このへんがエチオピアの食糧問題の悩みのひとつ」。食文化の違いと言ってしまえばそれまでだが、なぜ彼らはこんな穀物が好物なんだろう??私の感想に対する間遠さんの答であった。

 沿道には小規模の穀物のマーケットがあり、袋詰めのウシの糞(肥料ではなく燃料)や、たき木を売っている。村人がはるばるロバや馬で運んでくる。エチオピアの馬は小さい。「高地の馬は小さいんです。少ないカロリーで運動能力を発揮しようとするには、図体は小さいに限る。神はそのように創り給うた」。敬虔なるエチオピアン・オーソドックスのキリスト教徒、タケレさんがそうのたまわった。

 わかったようなわからないような理屈だと思っていたら、「隣の国のスーダンに行ってごらんなさい。あの国は平地だから馬は大きい」とダメ押しされた。


≪ 「もう水のことは考えなくてもいい」 ≫

 川の付近には緑がある。だが川から500メートルも離れると、草も木もほとんどなくなる。エチオピア高原の降雨量は年間2000ミリ。アフリカにしては雨が多い。ところが、この国には12、3年に一度、周期的に大旱魃がやってくる。

 エルニーニョ現象と関係があるというが、かつて緑だった森林が太古の昔のままに保存されていたら、旱魃や食糧危機とは無縁だったろう。昔から多くの人間がエチオピアに住んでいたのは、もともと豊かな土地であったからだ。だからこそ近代になって人口が急激に増加した。

 1935年、1500万人の人口が、2003年には6500万人にふくれ上がった。人々はたき木を求めて、森林を伐採し、そこを農地に替える。ここ半世紀でエチオピアの森林の70%が失われたといわれる。いったん森を破壊してしまうと、そのあとには樹木はおろか、草も生えない。森の破壊は保水力の喪失を意味する。1カ月も雨がないと耕作不能になり、農地は棄てられる。

 私たちが訪れたダビさん(30)と奥さんのマサエさん(28)の6人家族の先祖代々の土地も、本来は棄てられる運命にあった畑であった。農地の裏にある緑の丘は、20年前、燃料用に樹木が伐採され、茶色のガレ場になっていた。ガレ侵蝕に犯された禿げた丘に降った雨水は、ダビさんの農地を僅かに潤してはくれるものの大半は、低地を流れる川まで直行してしまう。マサエさんは、日照りには2往復、2頭のロバの背にバケツをくくりつけて、7キロも離れた村の川まで、作物にやる水を汲みに行くのが日課となっていた。

 だが、今ではダビさんの農家は、エチオピア農業再生のモデルとかで、首相も見学に来たという。「笹川アフリカ協会」の農業指導で裏にあるガレ山から500メートルほどの細い雨の道を掘り、800リットルの農業用水を常時、タンクに貯蔵、2ヘクタールの農地で、4トンの穀物と野菜2トン、牛を2頭飼って1日、20リットルの牛乳を生産するようになった。

 「水路の建設で協会から借金したが、あと2年で全額返済できる。余った水は村人に売っている。金ができたら、裏のガレ山に木を植えて、昔の森を復活させるつもりだ」とダビさんはいう。サブ・サハラや中東では、水汲みは女の仕事なので「水場から遠い家には嫁に行くな」の言い伝えがある。「もう水の事は考えなくてもよくなった。今、考えているのは子どもの教育のこと」。奥さんのマサエさんは嬉しさを隠すかのように控え目にほほ笑んでみせた。

 ダビさん、マサエさんのケースは稀に見る農地再生の成功例である。エチオピア政府と笹川アフリカ協会の連けい動作で、1986年当時に比べれば、この国の穀物生産量は30%上昇しているという。農地再生とはいかないまでも、種の改良とわずかな肥料と灌漑の3つの要素を組み合わせた近代農法が徐々に効果を発揮しつつある。


≪ 「七色の虹」の八つ目の色は ≫

 「ここ2年ほど、周期的な気象異変による大旱魃が、再びこの国を襲ったのだが、今回は餓死者を出していない」。間遠さんとタケレさんがそう言った。だが、この国の若き農林大臣エジク氏のめざす「(農業生産性を向上し)1日、1人2ドルの収入」に到達するには、“日暮れて道遠し”ではある。

 現代エチオピアのジレンマをエチオピアの詩人が詠んだ歌がある。

 「エチオピア。汝は七色の虹の八つ目の色を出す土地なり。その色は黒なり。太陽の光の当たらない月の裏側の暗い半球の色だ」。1994年作の英詩だという。

 古代は虹色に輝いていたエチオピア、それが現代になって暗転する??これがこの国の知識人の共通認識であるらしい。その昔、豊穣の地であったエチオピアは、コーヒーと、オリーブと小麦の原産地だったという。その国が今、食糧の自給に四苦八苦している。

 アジスアベバからの帰路、ロンドン行きの飛行機の中で、駐エチオピアの日本大使、庵原宏義さんと席が隣り合わせになった。農業、とりわけ灌漑の専門家である彼はこう言った。

 「おっしゃる通り。昔のエチオピアは豊穣の地であった。それが暗転した。それを考えるカギは高原の土地と人間の相互関係なんですよ。エチオピアは、限られた人数の人間集団が住むには素晴らしい土地です。地味も悪くなかったし、恵みの雨もある。だが、水利とか灌漑とか農業余剰を大きく生み出すモメンタム(はずみ、勢い)が、この国の歴史にはなかった。だから、今日のように膨大な数の人々が、満足な生活を送るのは難しい。

 その点、中世の日本の農業発展はめざましかった。それが、日本列島で多数の人間を養う基礎となった。エチオピア高原は1年で2000ミリもの雨が降るのに、大部分は蒸発してしまう。残りは肥沃な土壌とともにナイル川を流れ、エジプトに行ってしまう」と。

 機は、ナイル川を左右に見ながら北上する。アスワンハイダムが見えてくる。エチオピアの水を集めて、とうとうと流れるナイル川なかりせば、この地球上に古代エジプトの絢爛たる文化は存在しなかっただろう、そんな思いにひたるうちに、ロンドンとの中継地、地中海のアレキサンドリアに到着した。
 

エチオピアの飢餓について  
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アフリカに農業革命を!SG2000プロジェクト  
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