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著者: 笹川 陽平  
記事タイトル: 時の流れ?モンゴルに残す“光と影”  
コラム名: 新地球巷談 27  
出版物名: 産経新聞  
出版社名: 産経新聞社  
発行日: 2003/10/27  
※この記事は、著者と産経新聞社の許諾を得て転載したものです。
産経新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど産経新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   今月初め、騎馬民族の国モンゴルを訪れました。当初、5月に予定していたのですが、SARS禍で頓挫、ようやく実現した13年ぶりの旅でした。成田から首都ウランバートルへ直行便で5時間半、前回は北京から汽車に乗ること33時間であったことを思えば、隔世の感があります。

 初冬のウランバートルの日中の気温は摂氏3、4度。抜けるような青空の下、茶褐色の大地に風花が舞っていました。街中にあったゲル(遊牧民が住む移動に便利な組み立て式の家)は減少し、建築ブームと朝夕の車の渋滞に驚きました。本格的な市場制経済の実現に向けて今年5月に施行された土地所有法は、家族単位に一定の土地を無償供与するものであり、遊牧の民の定着化は歴史的な出来事です。壮大な改革ではありますが、はたして吉と出るか凶とでるか、答えは「時の流れ」が知るのみでしょう。

 1973年、作家の司馬遼太郎は「夢想の中の国」モンゴルを目指しました。大阪在住の司馬はまず東京を経由し新潟に入り1泊、旧ソ連のハバロフスクで1泊した後、さらにイルクーツクに飛んで宿泊、ウランバートルに到着したのは4日目のことでした。司馬は名著『街道をゆく』の「モンゴル紀行」で、旅程の遠さに「おそらく今後もじかにゆけることはあるまい」と記しています。

 当時の日本とモンゴルは国交を樹立したばかりで東西冷戦の最中、モンゴルは100%ソ連の影響下にあり、限りなく遠い国だったのです。それにしてもここ30年の世界の有為転変は激しいものでした。30年前、誰が今日のような世界を予測しえたでしょうか。司馬の感慨と予想も見事に外れてしまいました。

 ところで第2次大戦後、ソ連は旧満州(現・中国東北部)にいた日本人をモンゴルにも抑留しました。その数およそ1万6000人。2年間の労役を強いられた抑留者が、ウランバートルに建設した建物は4棟。国会と大統領府がある政府宮殿、外務省、オペラ劇場と旧共産党幹部学校だった行政管理高等大学院です。それぞれ今も堂々たる威風を払っています。

 今回、この行政管理高等大学院で講演する機会を得ました。学長のトゥデブ博士は「この建物はかつての日本人抑留者がモンゴルのため懸命に努力して建設したものです。実にしっかりした建物です。しかし、貴方の講演のために傷んでいた床に少し手入れをしました」と、それとわかる新しい床を指差し、しみじみとした口調で話してくれました。明日のモンゴルを担う学生たちを前にしての講演は、先人の辛苦を思いつつ「時の流れ」の重さを感じました。

 過酷な環境にあって、モンゴル抑留者のおよそ1600人が亡くなり、ウランバートルの北東丘陵に835柱が葬られ、墓地跡には日本政府によって立派な慰霊碑が建立されていました。渺々たる草原に吹く寒風は厳しく、望郷の念を抱きつつ異国で亡くならざるをえなかった方々の無念を思うと感無量でした。

 日本とモンゴルの歴史は13世紀、草原の覇者となった「蒼き狼」ジンギス・カンの末裔による2度の蒙古来襲に遡ります。

 しかし、1939年、日本がモンゴルと戦った事実を知る人は少なくなっているようです。

 関東軍といわれた日本軍が完膚なきまでに惨敗した旧満州とモンゴルとの国境の地ノモンハンでの戦いは、日本では戦争ではなく単なる「事件」として扱われています。しかし、ソ連軍とともに戦い、当時の人口60万人のうち5000人を超える戦死者を出したといわれるモンゴルでは、「ハルハ川戦争」として記録され、民族高揚の大戦争と位置づけ、教科書にもしっかり記載されているそうです。いまなお日本との関係を語るとき、抑留者とともに一つの棘として存在しているのです。

 私たちはともすれば過去を忘却しがちですが、今を生きるとは、一人ひとりが歴史の書き手に加わることではないでしょうか。テレサ・テンの歌ではありませんが、「時の流れに身を任せ」るだけではなく、「時の流れ」のもつ重みと深さをしみじみ感じさせられたモンゴルへの旅でした。
 



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