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2003年8月11日
イタリアの旅から帰って、数日家でじっとしていられたのも、勤め先の日本財団が、8月で会議と催しものが減っているからである。
いつも外国旅行から帰ると、何より大変なのは、郵便物の整理、溜まった新聞を読むこと。通信販売で買った品物の箱を開けること。
ことに英字新聞は分厚いからこなすのが大変である。数年前まで、私は夫にいつも英字新聞を読め、と言われていた。しかし学力はないし、そんな億劫なもの読めるか、という気持ちだった。しかし最近は、日本の新聞の報道しない部分を、シンガポールで出している英字新聞で補っている。私はインターネットともEメールとも無縁で暮らしているので、ゆっくり読める新聞しか知識のとりこみ口がない。しかしそのおかげで私の知識と精神と感覚は解きほぐされ、ニュースを見る角度も少しずれ、ついでに少し英語の力も増した。
8月12日
ひさしぶりに財団に出勤。イタリア旅行の際、ボランティアとして参加し、障害者の車椅子を押してくれたメンバーにも再会して労をねぎらえた。10月頃開始予定の『毎日新聞』の小説連載を数回分渡す。
8月13日、14日
イタリアでは毎朝パンをおいしく食べていて、和食など欲しくもなかったのに、帰るととたんに朝から自分の好きな味でお粥を作り、好きな薄茶茶碗によそって食べる。
今日は梅干しを半個入れ、それに福井県のすばらしい揉み若布をかける。おかずは昆布巻き、雲丹、ピータン、中国産の腐乳(ちゃんと好きなブランドがあるが、どれもシンガポールで買うと一壜150円くらい)、金山寺味噌、奈良漬け、たくあん。「豪華、豪華」と1人で己が食生活の豊かさを誇った。
私の『天上の青』という小説の題の元になっている朝顔の「ヘブンリー・ブルー」が玄関の傍で咲いた。朝かなり遅い時間でもまだ花を開いているので変な気がする。昔の朝顔は寝坊するともう萎んでいた。つまりこの種類は厳密に言うと朝顔ではなく昼顔なのか、昼顔を掛け合わせたものなのか……。うっかり言うと、厳密な知識の持ち主が延々とそのことで薀蓄を述べられるので、私は恐れをなしている。
8月15日
かなりひどい雨。午後の列車で軽井沢へ。鹿島建設の石川六郎・ヨシ子夫妻の金婚式のお祝いの会がある。石川六郎氏は、30年以上前、私が土木の勉強を始めた時、現場に入ることを許してくださった恩人たちの1人である。そのおかげで、私はタイの現場にも行き、初めての聖書的なテーマを扱った土木小説『無名碑』を書いた。
ほんとうは鹿島守之助・卯女夫妻が住んでおられた流れのある古いお庭を再び拝見できるはずだったのだが、雨でそれは不可能になった。少し残念。私は寒がりで、夏は暑いところがいいと思って海辺で過ごしているのだが、夏は軽井沢、というたくさんの方たちに一挙にお会いした。画家の堀文子さんとは初対面なのに、長年の知己のようにひそひそ話ができた。堀さんという方もちょっと私に似た「へそ曲がり」のところがおありになるのだろう。共通のボーイフレンドの「ワルクチ」を言って笑い転げて極めて爽快。
帰りは上野で降りて品川へ行き、京浜急行に乗って三戸浜の家に帰る。
8月16日
朝からかなり激しく降ったり止んだり。今日は私の家の前に拡がる小網代湾のシーボニアと呼ばれるヨット・ハーバーで花火大会が開催される日で、私のうちも何人かの人がそれにかこつけて来てくださる予定である。
「花火は中止でもいいわよ。皆、食べに来るのが目的だから」
と言いながら昼前に買い物に出たら、自動車に電話がかかって来て、やはり中止になったという正式な連絡があった由。でもお客さまは皆来られるとのこと。やはり私の知人は、皆「花火より団子」族なのである。
庭に炭火をおこしてお魚、茄子、さつまあげまで焼くつもりだったけれど、火も消えそうな雨。「いいわよ、いいわよ、思いつきでお料理作るから」と、狭い家の3部屋を開放して場所を作る。幸い妹夫婦が上等のサーモン・フュメーを送ってくれたし、帆立て貝の特大で活きのいいのも手に入った。新しい鶏の砂肝を思いつきで買ったので、それを塩焼きにしてもいいし、などと言っているうちに、皆が三々五々集まってくださる。
うちの食堂は詰めても6人しか坐れないから、その外のサンルームに4人、客間に5人ほど。「まあお好きな所に坐って下さい。お酒はここよ。焼酎もあります」とほったらかす。私も流行にのって最近たまに焼酎を飲む、いや「なめる」のである。
8月18日
日本財団で、9月に出発するアフリカ旅行の勉強会。行き先国はカルメーン共和国、コンゴ民主共和国、コンゴ共和国(この2国は別の国である)、アンゴラ共和国、南アフリカ共和国の5カ国。毎年行っている世界の貧困の現状を知る旅行の7回目である。
鈴木宗男代議士の秘書だったコンゴ人のムウェテ・ムルアカさんに同行を依頼しているので、ムルアカさんにも現地の話を聞く。辻守康先生からはマラリアの話。コンゴにはエボラ出血熱という恐ろしい病気もあって、同行される3人のドクターが研究所を見たいと言われたらどうしよう、と思っていたが、不必要な接触は避けるということになってほっとした。
8月19日
海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員をしてくださっている三浦智子さんのご主人の三浦勇三氏のご葬儀が聖イグナチオ教会で行われた。智子さんは足を折って車椅子で出席されていたが、長い間よく尽くされて、今はお疲れが出ている最中だろう。
三浦氏は奥さまに甘えて何一つできない典型的な「わがまま旦那さま」だったが、私たちはよくご主人の噂に加わって楽しんでいた。智子さんが骨折されたのは、神さまがよくお休みというメッセージを送られたのだと思う。
8月20日
午後、財団に出勤。フジモリ元ペルー大統領、ひさしぶりに見える。お元気で次の大統領選に出られるとのこと。私の一家と違って、何と意欲的なことか。私の家族は心を揃えて怠け、楽な道を選ぶことで一致するのだ。
夫の名(迷)言。「偉いもんだね。僕なんか1人の女だって幸福にできるかどうかわからない、と思って結婚したのに、(日本の)政治家は1億2000万人を幸せにする、って平気で約束するんだから」。
8月21日、22日
家でごろごろ。淋巴マッサージ。どこもかしこも凝っているけれど、背中や首より「頭が悪い」「顔も悪い」そうだ。「そうだと思ってたわ。小心だから体中凝るほど針鼠みたいに緊張してやっと生きてるのよ」とちょっと本音を聞いてもらって、笑われる。
8月23日
フジモリ氏に三浦半島に「花火でも見にいらっしゃいますか?」とお誘いしたのは、先週雨で延期された花火が今日になり、しかも2人のお嬢さんたちが夏休みで日本に来ておられる、と伺ったからである。
しかし氏は、ペルーの政治的情勢が急速に変化しているそうでいらっしゃれず、義弟のアリトミ氏がケイコさんとサチエさんの2人のお姪ごさんと、マークというアメリカ人の青年を電車で連れて来られた。2人共「パパっ子」で、どちらも政治家を志している。ケイコさんが議員か大統領、サチエさんがどこかの市長になる日を私が見ることはないだろうが、若い歴史を見られて楽しい。
若者たちは海で泳いだ後、5時ごろ戻って来て、それから庭の炉に火をおこした。火加減がよくなったところで、お肉を焼いたついでに、いいサンマがあったのでそれも焼いた。おいしいお魚だと、マークが褒めてくれる。私は軽薄に教育的な趣味があって、日本でサンマの味を知らせないのはまちがいだ、と思っているから、お客さまにサンマを出すのだ。
花火は年々、豪華できれいになる。既に亡くなった友だちと2人だけでこの庭で初めて花火を見た日のことを鮮明に思い出した。あの人はほんの一時、先に行った、と思う。
ケイコさんたちは9時過ぎ、電車で帰られた。電車ほど人々の生活が見える機会はないからいいことである。こういう質素さがフジモリ家の教育方針のように見える。
8月26日
太郎(息子)一家来る。太一(孫)も夕方加わる。太郎、ビデオをたくさん買って来てくれた。何をするでもない。ただ何となく、うちらしい雑談。太一は、最近ケータイを持つのを止めた、という。全くおかしな家族なのだ。
8月27日
私だけ午後から生命倫理専門委員会に出席。
夕食に再び家族がいっしょになる。うちで採れたトマトでガスパチョを作っておいてもらったのが、冷蔵庫の中でいい味になっていた。それとフグのフライ。太一が関西育ちだとしみじみ思うのは、フグとハモを食べたがる時。赤ちゃんの時名古屋にいたんだな、と思うのは、八丁味噌が好きだと言う時。
8月28日〜31日
太郎一家が帰って、なんとなくがっくり。
池田小学校で児童8人を殺した宅間守に一審で死刑の判決が出たので、そのことに関して『週刊女性自身』の取材。
私の関心のある2点だけ述べる。
第1は、今こそ死刑反対論者はこの判決について何かを言うべきだ。私はキリスト教以外の視点からそれを教えてもらいたいと思って、その論議が膨湃として起こるのを待っていたのだが、私の眼に触れる限り新聞にもテレビにも、その論調は見えない。
第2の点は、キリスト教世界では、殺された被害者の家族たちが、復讐を越えて許しに到達することを血の滲むような思いで自分に命ずる。しかし当然のことと言えば当然なのだが、日本では文科大臣も、池田小学校の遺族たちも、揃って極刑は当然と言った。日本はまだハムラビ法典の時代そのままなのだ。しかし私は遺族ではない。遺族なら極刑を望むのも自然だろう、と思うと何とも言えない。しかしそれでもこの許しを問題にする人が1人としていないのも、やはり不思議である。
9月2日
日本財団へ出勤。
執行理事会、電光掲示板ミーティング、ホームページ編集会議、お客さま数組。
中のお1人は、ボリビアからの倉橋神父さま。「小教区」と呼ばれる教会の末端の単位が6万5000人の信者を擁するという。ボリビアでは、麻薬撲滅運動をした結果、「金持ち階級」がいなくなって経済がどん底に陥り、今や公務員の月給が10ドル、つまり月1070円ほどで一家8人とか10人とかが暮らしているという。私は今まで「世界の貧困家庭の1つの目安は、一家族の1日の稼ぎが1ドル=117円です。1人の収入じゃないんですよ。一家、6人とか10人とかが107円で暮らすことです」と言って来たが、ボリビアの状態はそれよりはるかに悪い。そうなったら盗み、誘拐、人身売買、麻薬密売、強奪、脅迫、レイプ、などあらゆることをすべての人がやるようになる。取ったが勝ちなのだ。これはボリビアだけではない。一向に復興の進まないアフガニスタンでも、イラクの戦後の混乱が続いても、リベリアの動乱でも、同じことが起きる。貧困と失業をなくさない限り、世界は恐怖と犯罪の温床となる。
夜6時から、この春石川県でボランティア活動としてやった雑木林の竹切りを、全国的な国民参加の活動として展開して頂くために、ニッポン放送社長・亀渕昭信氏、取締役編成局長・熊田忠雄氏、事業開発局長・中島恒雄氏、のお三方に財団においで頂いた。こちらは関連財団の笹川スポーツ財団常務理事・藤本和延氏他、日本財団のボランティア支援部、広報部など。こういう会合でありがちの事務的な事業の話にならず、いろいろとアイディアが出て、高校の同窓会みたいな空気だったのは、私にいわせれば極めて自然な幸先いい出発である。夕食は、慎ましく財団の食堂が用意してくれた松花堂弁当。
9月3日
都庁の建設局で、職員の研修会で講演。題は「それでも任務は変わらない」。昨今、ダムは作るべきではない、川は放置すればいい、の大合唱だが、それは既成のダムを利用して電力も使い、治水もされているからの話である。世界中、洪水旱魃、飲料水の不足、農業用水の枯渇の話だらけだ。治水、水源の確保、水力発電がなくて、どうして近代国家をやっていけるのだ。自然に任せるのがいい、というのは愚かな論調だ。もちろん生態系の調和をさらによく計算した上で、自然は統御すべきなのである。だから竹を切って雑木林を再生させるのだ。
夜は海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会。ブルキナファソ、コート・ディボアール、ハイチから、それぞれシスター方。それに倉橋神父さま。今日のメニューはもちろんうちで作ったハヤシライスとお漬け物。それに甘い花豆の煮たものだけ。それにつけても、ボリビアで一月一家が10ドル(1170円)で何を食べているのだろうと、神父さまに伺うと、「お米と大豆、それにわずかな油と塩を入れたものです。恥ずかしい話ですが、私たちでも食べたくないと思うほどまずいものです」と言われた。
世界各地から、自動車購入の要請が殺到しているのは異常である。つまり公共の乗り物がない土地が多いので、シスターたちは足がないと活動できないのである。安い値段で乗れるバスや電車があるということは、ずいぶんと進んだ文化の証拠だということになる。
決定したのは、チャドの貧しい人たちが緊急に(お金もなく)診療所に駆け込んだ時の費用に58万5000円。ブルキナファソの養鶏、養豚、食肉販売などのプロジェクトに68万円。マダガスカルのクリニックに来る患者のヘルニアの手術代40万円。他たくさんあったのだが、詳細がわからないものが多くて、決定に至らない。車を買ってください、と言われても、車種と正確な値段が書いてないのだ。
9月4日
17年来、日本財団がアフリカで共に農業開発の仕事をしているのがカーター財団なのだが、カーター元大統領が来日されるので、今日から2日間だけスケジュールの一部に同行することになる。とは言っても、別に日本財団がお招きしたわけではなく、来日の日程などすべてカーター・センターから通報された。
夕方のレセプションは、日本財団、笹川アフリカ協会、日本・アフリカ連合友好議員連盟の共催。ほんとうはカーター氏の止宿先のホテルオークラでレセプションができれば簡単だったのだが、日程が決められた時にはもう会場が取れなくて、ホテルニューオータニになった。
カーター夫妻が乗ってこられたのは白い大きなワゴン車。扉が重そうなのは防弾ガラスのせいなのか。控え室でも雑談の間に、資料や数字など必要なものはきちんと聞き返される。
まず主催者として私が3分ほど短いご挨拶。こういう苦手な仕事をさせられるから、体中が凝ってあちこち悪くなるのだ。カーター氏は近々小説を発表されるのだそうだが、私は以前から大統領がいい文章を書かれるので、「ご職業をお間違えになったのではないですか? 合衆国大統領より作家におなりになるべきでした」と申し上げたことがあることをご披露した。カーター氏と森前総理がお話しになって乾杯。後はカーター氏とお話をなさりたい方がたくさんおられるから、楽なものだ。
今日成田に着いて、すぐ600人とお会いになる。過酷な仕事で、見ているだけで疲れが伝わって来る。お見送りした時、奥さまに「早くお休みになりますように」と囁いた。
9月5日
午後、カーター大統領ご夫妻と、首相官邸に小泉総理表敬訪問。もっぱら北朝鮮問題を話された。カーター氏は北朝鮮に対して「パラノイア(集団発狂)で、孤立した国」という表現を使われた。
接見の部屋は絵画1枚ないシンプルなものだ。趣味として穏やかで好きだが、ここは個人の住宅ではないのだから、荘重な空間で内外の客に会う、というポーズも時には必要だろう。日本人は相手を威圧するという姿勢を極度に嫌う。しかし「謙虚さ」は多くの国で美徳ではない。最近の北朝鮮問題、イラク問題、すべてこの手の「押しの気力」が必要なことが次第に理解されて来ているようだ。
その後、カーター夫妻は日本財団で記者会見。財団が記者会見の場所をお貸ししたのだそうだ。夕方7時からは目黒の「SHIMPEI」で内輪の食事。新フランス料理である。大統領が1皿ごとに、これは何かと聞かれ、夫人がメニューをていねいに説明される。
カーター氏が昨日のスピーチの中で、アフリカの貧しい人々の1日の収入を70セントと言われたが、ボリビアではその3分の1のようです、と申しあげておいた。
カーター氏が、ご自分の農園でぶどう酒を作り、お父さまから教えられた指物師の手法で作った手作りの家具を、それぞれオークションで売る、という話はおもしろかった。もちろん財団の資金にされるのだろうが、ぶどう酒はラベルにサイン入りで1本5000ドル。家具は一式で3000万円と聞こえたが、もしかすると桁違いでもっと高いのかもしれない。英語で数字を聞くと私はすぐ間違えるのである。
9月6日
昼過ぎ青山劇場で、「第5回日本太鼓全国障害者大会」を聞かせて頂く。
耳が聞こえなくたって太鼓は振動や視覚的合図で立派に叩けるのである。全部で18団体。中には手を動かすのが困難な脳性小児麻輝の人たちや、知恵遅れの子供たちのグループもある。途中で皇后陛下がおいでになり、皆大喜び。聞きながらさらに発展ができないかと考える。老人ホームでもやったらどうか。最低で1個70万円もする太鼓だけでなく、何でも音の出るものを鳴らす、「打楽器大会」ならぬ「打器大会」はどうだろう。その中で一番思いつきのいいものに、日本財団賞を出したらどうだろう。
夜6時、国立劇場へ。朱門と国立大劇場の「若樹会」の踊りの会へ伺う。ごく普通の踊りの会だが、お弟子さんのお一人として清子内親王さまが「菊慈童」を踊られるのである。
皇室の方のことは何でも褒めるというのは私の趣味ではない。しかし紀宮さまには、踊りの才能においては本格的な骨太のものを持っておられる。
慈童は、周の穆王に仕えていたが、或る日王の枕をまたいだことで深山に追放される。そこで王に教えられた通り、毎日普門品の「具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼」の偈を唱えるために菊の葉にその文字を書きつけ、その葉に置く露を飲んでいると、それが不老長寿の霊酒で、慈童は700歳になっても変わらぬ姿で、過去を偲び、薬酒のめでたさを喜ぶ、という筋である。
紀宮さまの踊りには、踊り手の生身の生活を匂わせる俗性が完全に昇華されている。きれいな衣装をつけて、別の自分を人に見せるという女性特有の甘い姿勢が全くない。それどころか、運命を敢然と受諾して、菊の繁みの中で簡素で端正な生き方を喜ぶその強さが、気品と共に見える。宮様の御立場を思うと、この端正さも気品も一種の豊かな自己表現と思うのは、私の思い過ごしか。
天皇陛下は身を乗り出して、宮様の踊りを見つめておられた。
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