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北朝鮮の工作船をお台場の「船の科学館」において一般に公開して、9月の末で丸4か月になる。9月12日までに100万人以上の人たちが、それを見に来てくれた。
実物を自分の眼で見て、誰にも左右されずに考える。それが一番いいのである。
ほんとうは9月で終る予定だったが、海上保安庁の都合もあって、来年の2月末まで公開の会期を延ばすことになった。秋になれば修学旅行の生徒たちも増えるし、暑さが過ぎれば見に行きたいという一般のお客さまからの要望もあるという。この船は厚さたった3.5ミリという薄い鉄板でできているので、いたみは予想以上に激しい。だから途中で補強の手入れをするらしいが、それでも激しい腐食が、お台場の風にもどうにか保ってくれることを祈るばかりだ。
入場者にアンケート調査を取ってみると、皆それなりにこの船の存在から、日本の安全を考えたらしい。考えるきっかけというものは、本でも実体験でも、嬉しさでも悲しさでも、どちらでもその人にとって貴重である。 既に4か月の間に、いろいろなことが明るみに出て、その都度「当事者」と呼ばれる人々は誰もが優しい配慮で対処してくれた。まず、入場者の安全。今までは、来場者にどうしたらあまり暑い思いをさせなくて済むか、だった。これからは、どれだけ寒い風を防げるかを皆で考えることになるだろう。
今まで黙っていたが、私は日本財団会長の名前で、この残酷な任務を続けた工作船に乗り組んで海に沈んだ人たちに、白いユリを贈り続けた。花をきれいに保つのは大変な心遣いだが、それを現場がやり続けてくれていることに、私は申しわけなさと深い感謝を忘れたことがない。
工作船を「船の科学館」におくことを日本財団が引き受けた時、私は死者への花を飾りたいと財団の中で了解を取った。
私がこの船を初めて見たのは鹿児島の第十管区海上保安本部が借り受けていた建物の中だった。人間の検死に当たる調査が長い月日をかけて行われていたのである。
私は船の周囲を歩き、船名を偽装するしかけや、とうてい漁船が持っているはずのない強力な火器の説明を受けた。巡視船は、発見から15時間も追跡した後で、工作船に警告の上、人間の届住区を避けて射撃したのである。撃たれた弾の貫通した後に開いた穴に、乗組員が必死で詰め物をして浸水を防いだらしい跡に私は釘付けになった。
その時、私は深い悲しみに捉えられた。彼らも死にたくはなかったのである。自分の乗った船が沈まないように、シャツや股引きのようなものまで詰めて、それで浸水を防ごうとしたのである。
12月22日のことであった。シャツと股引きを脱げば、東シナ海の寒さは、夢中になっていなければ耐え難いものだったろう。
後で知ったことだが、或る時期から、この工作船は、自沈するつもりであることを通告していたという。自爆する前に麻薬ではないかと思われる袋を海中に投棄していたという記録も残っているが、無事に目的を達しられない場合、こうした工作船は自沈することを命じられていたのだろう。
私はその瞬間、初めて乗組員たちに生身の人間を感じた。もちろん残酷きわまりない拉致をした船である可能性が高い。決して彼らの肩を持つわけではないが、北朝鮮という国は、国民個人が、危険なしに自分の運命や行動を選べる国ではない。
乗組員は北朝鮮製の菓子袋や、日本製の缶詰のとりめし、赤飯などを残していた。ごちそうだったから最後までとっておいたものかもしれない。
この人たちにも、妻子や父母がいた。帰って来ない運命は「偉大な将軍さま、金正日のため」なら光栄だと言え、思え、と教えられたのだろう。しかし帰らない息子を泣かない母はいない。不欄という言葉が、ひさしぶりで私の胸に流れた。若くして死ぬのももちろん不欄。息子の死を見送る母も不欄、もちろんわが子を拉致された日本の母は不欄以上のものだ。
公開の会期の間に、どうしてあんなやつらに花など捧げるのだ、という非難が少数ながらあった。もちろん花があってほっとしたと言ってくれた人もいた。私は黙っていればいいのだから楽なのだが、そうした非難を受ける窓口になった人には謝る他はない。
私は公開の最初の日に、花を飾る場所を見に行った。見学のコースの一番最後で、できるだけ低い場所にしたいと思った。そしてほぼそこしかないと思われる地面の上に花は置かれた。
花がなければ、この工作船の光景は国際的な憎しみだけに支えられて、人間的な感情はなくなる。この事実を恐ろしいと思うのは、そこに人間性不在の事実があるからだ。人間性が回復すれば、却ってことの恐ろしさが浮かび上がるのである。
花をいけて数日後に、私の庭の木蔭の向うのユリが或る日、雨の中でたくさんの蕾をつけているのに気がついたことがあった。今年に限って私の家では、不思議なほど多くの白ユリが咲いた。私は庭いじりが好きだが、いつの間にこれほどの球根を埋めていたかと奇異な感じがするくらいだった。
そのユリは実に見事な株で、10輪以上の花をつけていた。私は不純な考えを起した。もし明朝、花が開いていたら、工作船に供えに行こう。咲かなかったら、私が自分の家で切り花として使おう。
今でも不思議なのだが、その翌日、信じられない素早さで、まず2輪がみごとに開いていた。私は朝早く他にも蕾を持った数本を切って船に届けに行った。
悪いことをした死者を祀ることを許さない、というのが中国の考え方だ。しかし日本では違う。死者は死者として等しく祀るのが多くの日本人の気持ちだ。私はカトリックだが、キリスト教も許しを基本にしている。なかなか許せない自他の心を知りつつ、許しを命じられて苦しむのである。
別に改まって言ったことはなかったのだが、総理が靖国神社に参る度に口を挟む人々への、これが私の答えだ。私は工作船の死者たちの母に代わって、花を捧げた。死者たちは犯罪を犯していただろうし、彼らの祖国は彼らを見捨てた。しかしその母は墓に参り、花を捧げたいであろう。その死のむごさを一番知っているのは、母だからだ。
どこでも、誰でも、母は子のために泣く。拉致された子の母たちは死ぬに死ねない。その双方の悲しみを思わないと、再び工作船と同じ悲劇が起こる。だから私はユリを捧げさせてもらったのである。
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