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≪ 「UAE」の名付け親は英国 ≫
世界には200近い国々があるのだから、名前だけでは、どんな国なのか、具体像が見えてこないのは当然のことだ。そのひとつに「アラブ首長国連邦」がある。「アラブ」という名がついているのだから、石油を連想するが、「首長国」の「連邦」とはいったいどういうものなのか??と聞かれたら、まずはお手上げだ。答えられる日本人は、この国に駐在している人、もしくは詮索好きの旅行者ぐらいのものだろう。
実は、私もその1人。アラビア湾岸の産油国の1つであるこの国を訪問、根掘り、葉堀りと聞いてまわったのである。まずは国の由来からはじめよう。この国は新しい。1971年の独立だが、それまでは英国の保護領で、俗称「休戦海岸」と呼ばれていた。いまの国名も難しいが、昔も変な名前だ。19世紀の中頃、スエズ運河が開通したことで、英国は植民地のインドと運河経由で本国を結ぶ上で、アラビア湾は戦略上、重要な海域だった。当時、湾岸には、いくつかのアラブ人の部族が住んでおり、漁業や真珠取りで生計をたてていたが、ときには海賊もやっていた。英国が航路の安全を確保すべく、相互不可侵の休戦条約を結んだ。以来、国際的には英国の保護領扱いにむっていたが、1968年、英国は、「このあたりの地域から3年後に撤退する」と宣言した。第3次中東戦争でスエズ運河が閉鎖され、休戦海岸がご用済みとなったからだ。
1971年、休戦海岸の部族たちは、アラブ首長国連邦、Union of Arab Emirateという名前を英国からもらって独立した。アブダビ、ドバイなど7つの部族集団の親分たちが話し合って、7つの王国がひとつの連邦国家になったのだ。「首長国」(Emirate)とは、近代国家形成以前に、一定の領域に居住し、共通の文化をもつ集団で、部族の長に統括されている国のことだ。ところで名付け親の英国の正式な国名をご存知か? イギリスでもイングランドでもない。その名は、「大ブリテン島および北アイルランド連合王国」(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)というのだ。こんな長たらしい名を平気で名乗る英国が、名付け親なのだから、この国の名称が、多少ややこしいのもいたしかたあるまい。そこで、英国は名称簡略化のため「UK」を使っているが、この国も「UAE」の略称がある。以下長い名前を省略し「UAE」と呼ぶことにする。
≪ 真珠取りが石油リッチに ≫
私がUAEを訪れたのは2003年の6月、湾岸の盛夏の候であった。エジプトの力イロからガルフ航空でアラビア半島を横断すること5時間、この国の首都アブダビに着いた。アブダビの町は、湾岸と橋でつながれた島にあるが、数十年前までは、ほとんど見るべきものはなかったという。
「1950年代、ここを訪ねた旅人はなんたる僻地か。なんたる荒涼としたわびしい土地かと思った。その頃の小さな漁村アブダビ島が、大都会に変身した。すべての建物が近代の産物であり、大型で、小ぎれいで、しかもおしゃれだ」。機中で読んだ英国の旅行案内書には、そう書かれていた。
空港で、荷物をタクシーに積むべく外へ出た。アブダビの昼下がりは猛暑であった。後刻、聞いたら、気温43度、湿度60%とのこと、町の中は車は走っているが、歩行者はホテルに着くまで1人も見かけなかった。運転手に聞いたら、「歩行者は陽が沈んでから」とのことだ。アブダビの市街地は、縦2キロ、横7キロ、高層ビルが立ち並び、空港までの約30キロの地域は高速道路に沿って、高級住宅地、スタジアム、中東でも5指に入るという大型モスクがあった。すべてが新しくぜいたくで、強烈な太陽のもとでキンキラキンに輝いていた。
車窓から根をつめて眺めていたら、頭がクラクラしてきた。「すべてが人工的で、文化がない。無味乾燥といいたいところだが、湿度が高いので、無味ではあるが乾燥ではない。暑苦しくて、味気のない都市といったところか」。
私の第一印象は、前出の欧米人向け旅行案内書とは異なるものであった。アブダビが、荒涼とした漁村から、歴史的時間でいえば、それこそまばたきの一瞬に、いかにして超近代都市に変貌したのか。それは石油ゆえである。その過程は、ダイナミックかつ、ドラマティックであった。湾岸の歴史を読んでみたのである。このあたりがイスラム化するずっと昔、紀元前のころからUAEのオアシスには人が住んでおり、小麦やデーツ(ナツメ椰子)などを栽培していた。この時代は、砂漠化がそれほど進んでいなかったので、気候はもっと人間にやさしかった。内陸のオアシスから湾岸のアブダビに人がやってきたのは、300年ほど前で、この地に湧き水が見つかったからだという。人々は、漁業と真珠取りで細々と生計を立てていた。
ところが、1930年代に入ってから、この島の最大の交易品だった真珠が、ダメになった。日本の養殖真珠、ミキモトパールに世界の市場を制覇されてしまったからだ。あとは小舟による沿岸漁業しか残っていない。食うにも事欠く、窮状におそわれた。
やがて、貧しさ故の暴動が起こり、スルタン(部族長)の1人が、暗殺された。1939年、若きザイード大首長は貧困と暴力の悪循環を絶ち切るため、湾岸沖に埋蔵の可能性が高いとされる石油に、部族生き残りの将来を賭ける決断を固め、英国系の会社に石油の発掘と採掘権を与えたのだ。石油発掘は第2次大戦で中断、1958年、ついに休戦海岸の沖から、石油が噴出した。1962年、輸出の第一船のタンカーが、アフリカのカメルーンに向けて出航した。
その頃のアブダビの総人口は、湾岸のみならず、内陸の広い砂漠も含めて、わずか1万5000人だったという。独立後、アブダビ首長国はそれこそ一夜にして大金持ちの国になり、UAEの財政の90%を負担している。あとの10%はもうひとつの産油国ドバイが負担し、連邦の7つの首長国のうち、5つは石油が出ないので、お金は一切出していない。
≪ 1億2000万本の植樹をした国 ≫
高層ビルの林立するアブダビの繁華街のビルの一角に「石油展示館」なるものがあると聞いた。現地で案内役に雇ったデヤン君とともにのぞいてみた。石油時代の以前と以後の比較を写真やパネルで紹介していた。「UAEは、サウジアラビア、クウェートに次いで、湾岸第3位の産油国で…。石油の輸出相手国の第1位は日本です」「わかってる。入口でもらったパンフレットに書いてある」。彼の解説をさえぎろうとしたら「それならこういう話は知ってるか」と食いさがってきた。デヤン君は大卒のセルビア人で、独裁者ミロシェヴィッチの時代反政府運動をやった筋金入りである。多少のことではへこたれない。彼は、ユーゴ解体後、5年ほどイタリーでレストランのウエイターをやったあと、彼の得意の英語を武器にUAEに出稼ぎでやってきた。「UAEの人口は、310万人だ。それは印刷物に書いてある。だが人口の75%は外国人で、アラブ人は4分の1しかいない。120万人もいるインド、50万人のパキスタン、そしてイラン人、バングラデシュ、フィリピン人だ。石油成金になったので、アラブ人の若い者は、働かないでブラブラしてるのが多い。仕事につけといわれると、大した能力もないくせに法外な賃金を要求する。石油がなくなったら、どうするんだろう。真面目に働いているのは、出稼ぎの外国人労働者だけなんだから」。
彼と車で街をまわった。思ったより樹木が多い。高速道路には、延々とナツメ椰子の並木が続いている。以前同じ湾岸の国カタールの首都ドーハに立ち寄ったことがある。ここもアブダビとまったく同じ来歴をもつ産油国だ。砂漠に突如として出現したドーハの街には、植樹された木が目につくものの、それこそ数えるほどしかなかった。そう言ったら、「アブダビは、木に大変な力ネを使っている。ここの新聞で読んだんだけど、1億2000万本植樹されている」とデヤン君。彼の解説によると、木の根元には必ず細い水道パイプが配管され、タイマーがついていて少しずつ自動的に水が出る仕掛けになっているという。「その水はどこからくるかですって? Desalination(海水の淡水化)です」と彼。この国では石油採掘の際、油とともに噴出した天然ガスをエネルギー源にして、海水を煮つめ、その蒸気を水に戻すことによって淡水をとる。その際副産物として採れた塩は、海に捨てるので、湾岸の海は塩分が濃くなり、塩辛いとも聞いた。
アブダビの海は本当によその海よりしょっぱいのか。この町の海浜公園の人工砂浜まで出かけて、なめてみたのだが、それほど塩辛くもない。もしかしたら、デヤン君にかつがれたのかも知れない。それよりも私が彼の話で興味をひかれたのは、この国の樹木の本数のことだ。
「はたして日本にはいったい何本ぐらい樹木があるのだろう」。彼の情報がきっかけとなり、そんな大それた事を現地で連想したのだ。帰国後、この話を高校時代の友人の大山林地主にしたら、「日本におおむね何本くらいの森林資源があるのか、推計することは、それほど大それた試みではない」と試算の方法を教えてくれた。日本の森林面積は26万平方キロ。1ヘクタール当り、1000〜2000本の木が生育しているとのことで、計算すると良質の桧や杉、松が、260億から520億本、日本にはあるのだ。国土面積が日本の5分の1のアブダビ首長国の1億2000万本の樹木をどう評価するか。先祖代々緑に恵まれた日本と比較すれば単位面積当りの本数は、ケタが2つ違う。しかし、樹木はオアシスにわずかしか生えていないこの国が、これだけの数の植樹をするとは、驚きだ。石油の威力とは、すさまじいものではないか。
≪ 「6粒のナツメ椰子で飢えをしのいだ」 ≫
「植樹したことによって、アブダビ市内の盛夏の気温は2〜3度下がった。でも、木から発散する水分で湿度はぐんと上昇し、眼鏡はすぐ曇ってしまう。朝などは車のフロントガラスのワイパーをまわなさいと走れない」。現地で会った丸紅のUAE統括支店長の井上光正さんは、砂漠の国の植樹の効用について、そう言った。
井上さんは、会社の石油部門の担当が長く、日本がこの国に石油掘索の鉱区をもった70年代の事情にも通じている。当時割当てられた鉱区は、英・仏のそれよりもはるかに条件の悪いところとみなされていたが、ここから良質で豊富な原油の採取に成功した。その技術力の高さが、今日、UAEからの原油輸入量で、日本がトップの位置を占める原動力となったのだという。井上さんは言う。
「あの時代、石油が見つかるまで、アブダビがいかに貧しかったか、現地の人によく聞かされました。大旱魃がやってくるとオアシスに生えるナツメ椰子の実が命の綱でした。英語では、Date Palmといいます。親指くらいの大きさのデーツの実は糖分が高く、色も味も干柿に似ている。石油以前のアブダビの人々は、1日6粒のデーツで飢えをしのいだとのことです」と。
言われてみて気がついたのだが、アブダビの壮大な植樹には、ナツメ椰子の木が圧倒的に多い。樹木は、緑や涼しさの供給だけではなく、いざというときの食糧の供給についても考慮に入れているのだろう。井上さんの話によれば、アブダビのナツメ椰子の実は、タコ焼きやお好み焼きのタレの原料として日本に大量に輸出されている。
「1990年のサダムフセインのクウェート侵攻で、これまでイラクから入っていた原料が完全にストップした。そこで目をつけたのが、アブダビのデーツでした」。井上さんの解説である。アブダビの石油が淡水をつくり、それが樹木に変身し、その樹木の実がはるか日本で運ばれ、タコ焼きのあの黒ずんだタレに化けるとは・・・。タコ焼きの本場、大阪人だって、そんなことわかっちゃいるまい。
≪ ザイード王と19人の息子 ≫
案内役のデヤン君に再び登場してもらおう。夕刻が近づき、彼の案内でほんの少しだけ涼しくなった海岸から、アラビア湾に突き出ている2つの岬に足を延ばしたのだ。人口の海水浴場が3つ、そしてヨットハーバーと宮殿があった。3つのビーチのうち、ひとつが「女性専用」と書かれたゲートと植込みで仕切られ、海辺が見えないようになっていた。女性専用の有料ビーチが、この世にあるとは寡聞にして知らなかった。アブダビの女性は例の黒い民族服を着たまま水につかるのだという。レストランでは酒も飲めるし、開放的な服装の外国人女性で賑わう石油都市アブダビは、イスラム国であることを思い知らされた。
宮殿近くの海岸に、アブダビの民族服を着た王様とおぼしき高さ5メートルほどの肖像が立っている。その横に王様をとりかこむ19人の王族のパネルがあった。
「UAEの大統領で、アブダビの首長のスルタン・ザイードと、19人の息子たちだ。ザイード王は、石油に将来をかけることを決断した。この国の建国の父で、91歳だが今でもとても元気です」
鼻の下とアゴに同じようなヒゲをたくわえ、太くて黒いマユゲを吊り上げ、しかも同じ民族服を着ている。どれが誰なのか、さすがのデヤン君にも区別がつかないが、その19人の息子たちの中には文化情報相など閣僚級の息子たちも含まれているという。
「19人も息子がいるなんてびっくりですよ。すごい王様だよね」。私に同意を求めるかのようにデヤン君がつぶやいた。そして、私の答を聞いて彼はもっとびっくりした。
「サウジアラビアの建国の父、サウド王は36人の王子がいたという話だよ。たくさんの部族を統一しひとつの王国を作るには、武力よりも、異なる部族の娘を娶ってしまう方がてっとりばやいからね」
私はそう言ったのだ。アブダビ王の立場で7つの王国をまとめて、ひとつの連邦国家を作ったザイード首長に子どもが多いのは、多分、サウド王と同じ理由からではなかったか。アラビア湾に沈む夕日を見ながら、私はそう思ったのである。
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