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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 折り鶴?手を汚さない感傷的な行為  
コラム名: 透明な歳月の光 75  
出版物名: 産経新聞  
出版社名: 産経新聞社  
発行日: 2003/09/12  
※この記事は、著者と産経新聞社の許諾を得て転載したものです。
産経新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど産経新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   書きづらいことだが、どうしても書かなければならないと思うことがある。9月2日の毎日新聞の「記者の目」という名物コラム欄に、次のような内容の記事が載った。

 広島市の原爆記念公園の「原爆の子の像」に供えられている折り鶴14万羽が、過日学生によって放火され焼失すると、全国から新たに120万羽の折り鶴が届けられた。

 「連日、折り鶴を手にしたお年寄りや親子連れ、学生らが(大学の)窓口に列をなし、折り鶴を入れた宅配便が続々と運び込まれ」た。「折り鶴に託された平和への祈りまでもが灰にならないよう、多くの人が動いた。」のである。

 筆者は鶴の折り方を知らなかったが教わって10分以上もかかって折った。大学では、今でもボランティアが、届いた折り鶴の大きさを揃えて千羽鶴を作る作業をし続けている。

 「『鶴を折れば、世界が平和になる』とまでは言わない。だが、鼻で笑う前に一度、鶴を折ってみようと呼びかけたい。そして、平和の基礎となる他者への思いやりや想像力が衰退していないか、考えてみる機会にしてみてはと思う。」

 そこには全くの善意だけがあるから、誰も反対はしないが、私は敢えて言おうと思う。平和の願いを込めて折り鶴を折るなどというのは、幼稚で安易な発想だ。何の危険も苦しみもなく、ほとんど手も汚さず、まとまった出費もしなくて済む感傷的な行為だ。それならむしろ、折り鶴を折る分だけ、生きている人のために働いたらどうなのだ。老人ホームのおむつをたたみ、体の不自由な人の家の掃除をしてあげたらどうなのか。ボランティア活動は、それが安全で楽しく感じられる間は本物ではない、と私は教えられた。

 アッシジの聖フランシスコの祈りは、「平和の祈り」として有名である。それは次のように祈っている。

 「私をあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところに許しを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びを、もたらすものとしてください。

 慰められるよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを、私が求めますように。なぜなら私が受けるのは与えることにおいてであり、許されるのは許すことにおいてであり、我々が永遠の命に生まれるのは死においてであるからです」

 どれほどの憎しみでも許し、自分に必要なものでも与え、時には他者のために命を捧げる。どれも凡人には不可能に近い徳だ。しかし聖フランシスコはそれらを愛と平和の条件として私たちの前に突きつけた。それらは折り鶴を折るのとは全く違う重さと苦しさを伴う人間の行為だから、私には辛いのである。
 



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