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熱い戦いを繰り広げていた「夏の甲子園」、全国高等学校野球選手権大会が数々のドラマを残して終了しました。例年この大会が閉幕すると、夏も終わりに近づいたことを実感させられます。
私にとって、今年ほど野球を身近に感じた年はありません。日本のプロ野球では、18年ぶりの優勝に“王手”をかけた阪神タイガースの活躍は社会現象となりました。大リーグの試合も連日のようにテレビで放映されています。松井秀喜選手(ヤンキース)やイチロー選手(マリナーズ)、野茂英雄投手(ドジャース)をはじめとした日本人の活躍がお茶の間に飛び込んできたことで、日頃は野球と無縁の人たちまで評論家よろしく、“解説”してくれます。
なかでも松井選手については、会合やパーティーがあるたびにアメリカの友人、知人たちがその活躍ぶりに高い関心を示し、しばしば意見を求められました。野球が「ナショナル パスタイム(国民的娯楽)」というアメリカでは、小説や映画、歌に野球が登場することがよくあります。日常の会話でも「特別な地位」を占めていることを実感させられました。
話はいささか古くなりますが、第2次大戦開戦前夜の1940年、東京で開催が予定されていた第12回オリンピック競技大会は中止となり、戦火が拡大するにつれて日本では野球をはじめ各種スポーツ大会の開催がとりやめになりました。アメリカでも開戦後は、スポーツ競技開催への疑問が呈されました。しかし、大リーグは試合が続けられました。
時の大統領、フランクリン・ルーズベルトは、戦時下でも野球は続けるべきかと問われた際、コミッショナーに書簡を送り、「率直に言って、このまま野球を続けるのが国家にとっては最良であろうと私は感じています。『戦時体制下では』失業者が減り、誰もが以前より過酷な長時間労働に従事することになるでしょう。だとすれば、労働者は気晴らしをするための機会、仕事を忘れるための機会をこれまで以上にもつべきです」(米国野球殿堂博物館のオフィシャルブックより)と述べています。1942年初頭のことでした。
もちろん選手たちは、例えば41年に大リーグ記録の56試合連続安打をマークし、後にマリリン・モンローと結婚するヤンキースの主砲ジョー・ディマジオや、やはり41年に4割を打った鉄人、レッドソックスのテッド・ウィリアムズらが兵役につきましたが、格が下の選手も交え試合は続けられました。こうしたことにより、アメリカにおける野球は単なる娯楽というよりも国技として社会的な財産となったというべきでしょう。
そんなアメリカ人にとって「特別な」野球の世界で日本人選手が活躍して話題にのぼる、それも好意的に取り上げられていることに深い感慨を覚えます。とりわけ松井選手については、厳しい評価を下すことでは定評のある地元ニューヨークの新聞がこぞって、彼の礼儀正しさや謙虚さ、野球に対する真摯な態度をたたえる記事を掲載しています。試合で活躍してもしなくても、終始かわらない冷静な口調でインタビューに応じ、ファンの求めに応じて気軽にサインし、時にメディアとは食事会を開いて意見交換するなどなかなかできないことであり、「松井を見習え」という記事さえ見受けられました。
私の知人たちも、松井選手の活躍とともに彼の人間性を褒め、彼の礼儀正しさや謙虚さこそが日本人の特性であると改めて知らされた、と話しています。
国際社会にいかに日本を正しく知らせるか、理解してもらうか。これは外交官だけの仕事ではありません。最近はNGO(非政府組織)の活動も活発になるなど、民間人の役割も大きくなってきました。国民一人一人がみな、外交に携わる時代なのでしょう。
アメリカ社会に受け入れられ、そこで活躍する松井選手たちは、まさに立派な「外交官」です。白球を追う甲子園球児の背に、この地から育った先輩の松井選手たちに続いてほしいと思うことしきりです。
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